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気比神宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
気比神宮
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[[ファイル:Kehi-jingu 008.jpg|thumb|500px]] '''気比神宮'''(けひ・じんぐう)は、福井県敦賀市曙町(越前国敦賀郡)にある[[気比信仰]]の総本社。祭神は伊奢沙別命、日本武命、帯中津彦命、息長帯姫命、誉田別命、豊姫命、武内宿祢命。[[仲哀天皇旧跡]]。[[応神天皇旧跡]]。[[時宗]]の[[他阿真教旧跡]]。[[官社]]。[[名神大社]]。従一位勲一等。[[諸国一宮|越前国一宮]]。[[官幣大社]]。[[神社本庁]][[別表神社]]。[[気比神宮関連旧跡]]も参照。[[神宮号宣下神社]]。[[古事記神話登場神社]]。 '''笥飯宮'''、'''笥飯大神宮'''とも。 ==歴史== *不詳:[[天筒山]]に降臨(ウェブサイト) *不詳:[[土公]]に降臨。(ウェブサイト) *仲哀天皇元年:即位にあたり[[仲哀天皇]]が参拝。(ウェブサイト) *仲哀天皇8年3月:[[神功皇后]]が[[武内宿禰]]とはかり、[[安曇連]]に気比大神を奉斎させた。この時、気比大神は玉妃命に神懸って託宣を下し、三韓出兵の戦勝を述べたという。社伝によると玉妃命は神功皇后の妹という。(気比宮社記) *神功皇后摂政13年2月:『日本書紀』によると武内宿禰、皇子([[応神天皇]])を連れて気比大神を参拝した。『古事記』によると伊奢沙和気大神(気比大神)が夢に現れ、皇子と名前を交換するように託宣した。この逸話に従うと、応神天皇は元の名前は「伊奢沙和気」で、気比大神の元の名前は「誉田別」だったことになる。 *692年(持統6年)9月:封戸20戸寄進。(日本書紀) *702年(大宝2年)8月4日:[[文武天皇]]が社殿を造営。仲哀天皇と神功皇后を合祀した。(福井県敦賀郡誌) *715年(霊亀1年):[[藤原武智麻呂]]の夢に気比大神が出現し、仏道による救済を願ったため、[[気比神宮寺]]を創建(家伝)。全国的にも[[神宮寺]]の初例とされる。 *731年(天平3年)12月10日:従三位となり神封200戸を寄進(「新抄格勅符抄」)。 *765年(天平神護1年)9月7日:神封44戸を寄進(「新抄格勅符抄」)。 *766年(天平神護2年):松原客館を設置。気比神宮の管轄となる。(ウェブサイト) *770年(宝亀1年)8月2日:奉幣。(続日本紀) *776年(宝亀7年)9月16日:宮司を設置。従八位の官に准じる(続日本紀) *793年(延暦12年)2月27日:朝廷、気比神宮のための封戸・租を国司が他に流用するため、国府の管轄を外し、神庫に納めるように指示した。 *不詳:最澄、空海、土公で祈祷。 *806年(大同1年):「新抄格勅符抄」に神封244戸とある。 *804年(延暦23年)6月13日:気比の宮司、競望。 *809年(大同4年)閏2月21日:宮司交代にあたり国司に準じて解由を与える。(続日本紀) *810年(弘仁1年)2月:勅により造営。(気比宮社記) *810年(弘仁1年):国司介の橘永継、宮司と争い、神封租穀を官庫に収める。 *835年(承和2年)2月:祝・禰宜は[[鹿島神宮]]と能登([[気多大社]]か)の祝・禰宜に準じて笏を持つことが許可される。(続日本後紀) *839年(承和6年)2月26日:『続日本後紀』に「越前国気比大神宮」と記され、越前国司の管轄から[[神祇官]]の管轄となり、朝廷との関係を深めた。 *839年(承和6年)8月20日:遣唐使船派遣にあたり[[住吉大社]]と気比神宮に奉幣。(続日本後紀) *852年(仁寿2年)8月19日:奉幣。(文徳実録) *839年(承和6年)12月9日:従二位。(福井県敦賀郡誌) *850年(嘉祥3年)10月7日:正二位。(福井県敦賀郡誌) *855年(斉衡2年)5月5日:「気比大神宮寺」と「御子神宮寺」([[劔神社]]神宮寺)に常住僧5人を置き、また「心願住者」(志願者?)5人を認め、10人の僧侶を認めたという。(文徳実録) *856年(斉衡3年)4月7日:封物の出納は宮司と神宮寺別当が共同で管轄することとなり、まず神庫に納めてその後寺家にわかつこととする。 *858年(天安2年)4月7日:朝廷、気比神宮寺に仏像造立費として稲10000束を充てる(文徳実録)。 *859年(貞観1年)1月27日:従一位(福井県敦賀郡誌) *859年(貞観1年)2月15日:朝廷、越前国司に命じて気比神宮寺に大般若経1部を置く(三代実録)。 *859年(貞観1年)7月14日:朝廷、諸社に奉幣。気比神宮と[[気多大社]](「気比気多両社」)に神祇大祐正六位上の大中臣朝臣豊雄を遣わし、神宝幣帛を奉納。(三代実録) *860年(貞観2年)2月27日:朝廷、気比神宮寺を[[定額寺]]とする(三代実録)。 *878年(元慶2年)2月27日:朝廷、国司に命じて気比神宮を掃除し、経典を転読させた。これより以前、祝部から報告があり気比神宮で失火があったという知らせがあったから様子を見に行ったが異変はなかったということがあった。この事について朝廷で[[陰陽寮]]に占いをさせたところ、神社を穢す出来事だとされてこの日の命令となった、(三代実録) *884年(元慶8年)9月8日:神封租穀を官庫に収めるのを改め、神庫に収めるように旧制に復旧す。出納は国司と宮司と共に管轄する。 *884年(元慶8年)9月9日:神戸百姓を国役を免除。(三代実録) *寛平年間:菅原道真が参拝。(菅家文草) *893年(寛平5年)9月2日:国司、神宮寺別当の請願により神封を割いて神宮寺料とする。12月29日、宮司の請願でこれを停止させ、まず神庫に納めてから分かつこととする。 *893年(寛平5年)12月:これ以前に正一位勲一等(『類聚三代格』) *898年(昌泰1年)7月20日:[[一代一度大神宝使]]派遣。北陸道の代表として気比神宮、[[若狭彦神社]]、[[白山比咩神社]]、気多大社が選ばれた。(日本紀略) *927年(延長5年):『延喜式』に「気比神社七座」として記される。7座とあるのでこの時点までに本宮3座と「四社」が成立していたとみられる。 *1017年(寛仁1年):一代一度大神宝使派遣。(左経記) *1047年(永承2年)7月22日:気比神宮の宮司が「大神は[[宇佐神]]と同体神だ」と語ったという(道成私記(『続神祇集』所引))。 *1054年(天喜2年)2月1日:炎上(気比宮社記) *1054年(天喜2年)12月21日:再建。遷宮は1078年(承暦2年)1月16日か(気比宮社記) *1069年(延久1年):一代一度大神宝使派遣。(江家次第) *1080年(承暦4年):神祇官、御体御卜で気比神宮など48社の神職が神事を過ち穢すことがあったために祟りがあったとの結果が出たため、中祓を行うように奏上する。(朝野群載) *1104年(長治1年)6月19日:気比神宮の神人が上京して[[大内裏]]の陽明門で国司高階為家の非法を訴えた。(中右記) *1135年(保延1年)2月21日:暴風で社殿倒壊。(気比宮社記?) *1135年(保延1年)12月24日:再建正遷宮。(気比宮社記?) *1169年(嘉応1年)::一代一度大神宝使派遣。(兵範記) *1191年(建久2年)12月8日:社殿焼失(気比宮社記?) *1191年(建久2年)12月12日:気比神宮焼失の報。すぐに再建の命令が出された。(玉葉) *1196年(建久7年)6月14日:再建。(正遷宮はまだ)(気比宮社記?) *1204年(元久1年)7月29日:正遷宮。(気比宮社記?) *1212年(建暦2年)9月:気比神宮政所が「神領作田所当米已下所出物等惣目録」を提出。社領は敦賀郡を中心に肥沃な土地や敦賀港・三国港の要衝と海岸線沿いにあり、一部は越中越後にも広がっており、2111石あった。本家は[[皇室]]で約702石、領家は九条良輔で約292石、大宮司の取り分は約177石だった。 *1250年(建長2年):気比神宮領、九条道家から[[最勝金剛院]]に寄進され、その検校の慈源(九条道家の子。1255年(建長7年)7月19日死去)の管轄となる(道家処分記)。慈源は[[青蓮院]]となり、気比神宮社務職を青蓮院門跡が務めるようになる。 *1256年(康元1年):本殿焼失(気比宮社記?) *1265年(文永2年)12月6日:修造の日時を勘する。気比宮社記に同年5月18日遷宮とあるのは誤りか。(帝王編年記) *1268年(文永5年)6月:「造気比宮諸国荘園散状」を奏聞(吉継記)。まだ社殿造営が終わっていなかったとみられる。 *1281年(弘安4年):元寇にあたり奉幣。 *1289年(正応2年)9月21日:気比神宮の神職、上洛して、神人刃傷事件の国司への処分と、社殿造営を国司の所管としたことの取り消しを訴える。認めなければ神輿を奉じて強訴するという。朝廷は造営についての訴えを認める。神職、刃傷事件への処分をなお求める。この頃、妙香院が気比検校だった(吉継記) *1291年(正応4年):元寇にあたり祈願 *1301年(正安3年):[[遊行上人]]2世の[[他阿真教]]が気比神宮を参拝。自ら浜の砂を運んで沼地であった参道を整備したという。(他阿上人縁起) *1325年(正中2年)11月21日:地震。社殿倒壊。(気比宮社記) *1326年(嘉暦1年)5月:造営を注進(気比宮社記) *1333年(元弘3年/正慶2年)11月:遷宮。(気比宮社記?) *1336年(延元1年/建武3年):南北朝の戦乱で南朝に就いたため、北朝軍に焼かれる。 *1337年(延元2年/建武4年):大宮司気比氏治の父子が南朝に付き[[恒良親王]]と[[尊良親王]]を迎えて北朝軍と戦い敗れた。 *1339年(延元4年/暦応2年)11月:正遷宮(気比宮社記) *1343年(興国4年/康永2年)11月:暴風で鳥居が倒壊。この時は東側が表参道だった。(気比宮社記) *1367年(正平22年/貞治6年)8月10日:造営事始。ただし正遷宮の日時は不詳。(気比宮社記?) *1390年(元中7年/明徳1年)9月:将軍[[足利義満]]参拝。(東寺王代記) *1426年(応永33年)10月:この頃、祠官どうしが戦闘。北陸の街道が閉鎖される。 *1437年(永享9年)8月:将軍足利義教、義満の例にもとづき願文を奉納。(薩戒記) *1506年(永正3年)7月20日:火災(気比宮社記?) *1516年(永正13年):正遷宮(気比宮社記?) *1526年(大永6年):正遷宮にあたり、神宮寺御読経所で読経。? *1541年(天文10年)8月:守護朝倉孝景、社殿造営し正遷宮。勅使参向。(大館書札案文) *1556年(弘治2年)3月18日:民家より出火し本殿など半焼。(気比宮社記?) *1559年(永禄2年)1月6日:守護朝倉孝景が造営し正遷宮。(気比宮社記?) *1570年(元亀1年)3月:[[織田信長]]の朝倉攻めで朝倉方に付いていた気比神宮は焼失。社領など没収。天筒山城に籠城し御神体を池見谷に奉遷。のち政所神の社殿に奉安。(気比宮社記?) *1571年(元亀2年):守護朝倉孝景の支援で小祠2棟を再建。(気比宮社記?) *1603年(慶長8年):福井藩主結城秀康、100石寄進。社殿造営(仮殿か)。青蓮院宮の令旨を奉じて諸国を勧進。 *1604年(慶長9年):福井藩により社殿造営開始。 *1607年(慶長12年)2月22日:ちょうな始 *1610年(慶長15年)8月19日:礎石を据える。27日立柱。 *1614年(慶長19年)9月29日:朝廷、正遷宮日時を宣下。(孝亮宿禰記) *1614年(慶長19年)10月21日:正遷宮(孝亮宿禰記) *1615年(元和1年):本宮造営の余材で総社宮を再興。 *1616年(元和2年):松平忠直、拝殿を造営。 *1632年(寛永9年)1月:将軍[[徳川家光]]の命で7カ日の祈祷。[[徳川秀忠]]の病気平癒を祈願。50石寄進。(福井県敦賀郡誌) *1637年(寛永14年):酒井忠勝参拝。この時の奉納で平殿を造営し中門を改造。 *1638年(寛永15年)11月:酒井忠朝、大鏡を奉納。(福井県敦賀郡誌) *1642年(寛永19年)9月19日:平殿正遷宮。 *1645年(正保2年)7月11日:大鳥居造営(現存)。材木は土佐国から調達。 *1651年(慶安4年)9月20日:境内の九社(神明二社を除く)造営し正遷宮 *承応年間:西参道の御手洗川に神橋を造営。 *1701年(元禄14年)8月1日:1000年祭を斎行。8月10日まで。青蓮院門跡の名代が参拝。福井藩主松平昌明、松岡藩主松平昌興(松平宗昌)、越前勝山藩主小笠原貞信、大野藩主土井利治(土井利知)、丸岡藩主有馬清純、府中領の本多重常(不詳)、金沢藩主前田綱紀、小浜藩主酒井忠囿、安房加知山藩主酒井忠胤、敦賀藩主酒井忠稠、酒井織部(不詳)が幣帛料を奉納。(福井県敦賀郡誌) *1730年(享保15年):石造の神橋を造営。 *享保年間:青蓮院末の神通院があった。その後廃絶。 *1743年(寛保3年)閏4月:酒井忠用、中門鳥居を再建。 *1755年(宝暦5年)3月:本殿造営。敷地を1丈2尺北に移す。 *1755年(宝暦5年)6月29日:正遷宮。 *1759年(宝暦9年)6月:諸社殿を全て修復。(気比宮社記) *1776年(安永5年):拝殿再建(気比宮社記) *1823年(文政6年):角鹿神社再建(気比宮社記) *1845年(弘化2年):拝殿を改築。(本勝寺歴譜) *1740年(元文5年)5月:祠官、社務青蓮院宮に上申して神階勲等宮号の復旧と下馬下乗の制札を請願。 *1740年(元文5年)8月:祠官、叙位執奏を請願し成就。 *1740年(元文5年)11月7日:青蓮院門跡の名代が参拝。青蓮院宮尊祐法親王筆の「正一位勲一等気比大神宮」額を賜い中門に掲げる。下馬下乗の位置を定める。この頃、「年預行事当」職を改め「執当」職に復旧。(福井県敦賀郡誌) *1871年(明治4年)5月14日:[[国幣中社]]に列格。 *1871年(明治4年)7月:社務職廃止 *1873年(明治6年)8月9日:暴風雨で境内倒木。(福井県敦賀郡誌) *1874年(明治7年)8月:鐘楼を改造して遥拝所とする。 *1877年(明治10年)3月21日:天利劔神社、天比女若御子神社(天伊弉奈姫神社?)、天伊弉奈彦神社、伊佐々別神社、角鹿神社を境内摂社に、常宮神社、玉佐々良彦神社、天鈴神社、天国津比〓神社、天国津彦神社を境外摂社に列する。(福井県敦賀郡誌) *1878年(明治11年)10月9日:[[明治天皇]]参拝。幣帛料120円。神饌料4円。(福井県敦賀郡誌) *1881年(明治14年):絵馬堂建立。 *1893年(明治26年)2月:角鹿神社以外の摂社4社を造営。 *1893年(明治26年)7月:末社5社造営。 *1893年(明治26年)7月14日:摂社4社・末社5社の正遷宮 *1894年(明治27年)3月:平殿総社2社造営。 *1894年(明治27年)7月:東殿西殿2社造営。 *1894年(明治27年)8月22日:平殿総社東殿西殿の4社の正遷宮 *1895年(明治28年)1月10日:国幣中社から官幣大社に昇格(内務省告示2号[https://www.digital.archives.go.jp/img/1670333]) *1895年(明治28年)3月27日:[[神宮号]]宣下。気比神社を気比神宮に改称(内務省告示45号[https://www.digital.archives.go.jp/img/1670156])。 *1896年(明治29年):水害暴風被害(福井県敦賀郡誌) *1901年(明治34年)8月:仲哀天皇・神功皇后合祀1200年で拝殿を造営。 *1909年(明治42年)9月21日:皇太子([[大正天皇]])参拝。記念に神苑を造営。(福井県敦賀郡誌) *1945年(昭和20年)7月12日:空襲で社殿焼失(ウェブサイト) *1950年(昭和25年):本殿再建(ウェブサイト) *1962年(昭和37年):拝殿、九社之宮、社務所、再建。社務所は旧敦賀区裁判所庁舎を移築したものだった。(ウェブサイト) *1982年(昭和57年):「昭和の大造営」開始(ウェブサイト) *2011年(平成23年)6月:社務所再建(ウェブサイト) (日本歴史地名大系、国史大辞典、日本大百科全書、世界大百科事典ほか) ==境内== {|class="wikitable" |+ !style="width:15%;"|名称 !style="width:8%;"|エリア !style="width:8%;"|種別 !style="width:15%;"|祭神 !style="width:54%;"|概要 |- |[[ファイル:Kehi-jingu 010.jpg|200px]]<br>本社 |本社周辺 |本社 |[[伊奢沙別命]]・[[仲哀天皇]]・[[神功皇后]] | |- |東殿宮 |本社周辺 |本社 |[[日本武尊]] |「四社宮」の一つ。 |- |総社宮 |本社周辺 |本社 |[[応神天皇]] |「四社宮」の一つ。 |- |平殿宮 |本社周辺 |本社 |玉姫命 |「四社宮」の一つ。 |- |西殿宮 |本社周辺 |本社 |[[武内宿禰命]] |「四社宮」の一つ。 |- |神明社 |本社周辺 |末社 |[[天照皇大神]]・[[豊受大神]] | |- |伊佐々別神社 |本社周辺 |摂社 | |「九社宮」の一つ。 |- |天利劔神社 |本社周辺 |摂社 | |「九社宮」の一つ。官社。 |- |天伊弉奈姫神社 |本社周辺 |摂社 | |「九社宮」の一つ。官社。 |- |天伊弉奈彦神社 |本社周辺 |摂社 | |「九社宮」の一つ。官社。 |- |擬領神社 |本社周辺 |末社 | |「九社宮」の一つ。 |- |劔神社 |本社周辺 |末社 | |「九社宮」の一つ。 |- |金神社 |本社周辺 |末社 | |「九社宮」の一つ。 |- |林神社 |本社周辺 |末社 | |「九社宮」の一つ。 |- |鏡神社 |本社周辺 |末社 | |「九社宮」の一つ。 |- |[[ファイル:Kehi-jingu 011.jpg|200px]]<br>大鳥居 |大鳥居周辺 | | | |- |蓮池 |大鳥居周辺 |その他 | |お砂持ち神事の場。 |- |猿田彦神社 |大鳥居周辺 |末社 |[[猿田彦大神]] |1775年(安永4年)鎮座。 |- |[[ファイル:Kehi-jingu 002.jpg|200px]]<br>角鹿神社 |東側 |摂社 |都怒我阿羅斯等命 |官社。松尾神社を合祀か。 |- |[[ファイル:Kehi-jingu 003.jpg|200px]]<br>児宮 |東側 |末社 |[[伊弉冊尊]] |元は神宮寺にあった。986年(寛和2年)9月20日遷宮の記録があり古い。 |- |[[ファイル:Kehi-jingu 005.jpg|200px]]<br>大神下前神社 |東側 |末社 |大己貴命 |気比神宮4守護神の一つ。元は天筒山の麓に鎮座していた。1911年(明治44年)現在地に遷座し、稲荷神社と金刀比羅神神社を合祀した。官社。 |- |[[ファイル:Kehi-jingu 007.jpg|200px]]<br>土公 |東側 | | | |- |[[常宮神社]] |境外 |旧摂社 |神功皇后・仲哀天皇・天八百万比〓尊 |1880年(明治13年)気比神宮摂社となる。官社。[[県社]]。 |- |玉佐々良彦神社 |境外 |旧摂社 | |常宮神社境内社。1880年(明治13年)気比神宮摂社となる。官社。伊覩神社とも。 |- |天鈴神社 |境外 |旧摂社 | |常宮神社境内社。1880年(明治13年)気比神宮摂社となる。官社。 |- |天国津比〓神社 |境外 |旧摂社 | |常宮神社境内社。1880年(明治13年)気比神宮摂社となる。官社。 |- |天国津彦神社 |境外 |旧摂社 | |常宮神社境内社。1880年(明治13年)気比神宮摂社となる。官社。 |- |[[天筒山]] |境外 | | | |} ==組織== ===大宮司=== *気比氏治(?-1337)<>:南朝の武将。恒良親王を擁して金崎城に籠もるが自害。 *気比斉晴(?-1337)<>:南朝の武将。気比氏治の子。 *島計富(1626-1709)<>:角鹿氏。 ===宮司=== *矢幡太刀彦(生没年不詳)<1875-1876>:福岡県出身の神職。1875年(明治8年)気比神宮宮司。翌年退職。その後、[[神道事務局]]や[[神宮奉斎会]]に奉職。中津市の神宮教会所([[中津大神宮]]?)創建に関わる。(『神道人名辞典』、国学関連人物データベース) *成田其一()<1876->:1873年(明治6年)4月、[[若狭彦神社]]宮司。1876年(明治9年)4月、気比神宮宮司。 *飯田武郷(1827-1900)<1873-1873>:幕末明治の[[国学者]]。1827年(文政10年)生。高島藩江戸屋敷に生まれる。1843年(天保14年)[[平田派]]入門。1852年(嘉永5年)『日本書紀通釈』起稿。1853年(嘉永6年)伊勢神宮参拝。1863年(文久3年)密かに勤王の士を集める。1866年(慶応2年)家督を譲り、討幕の機に備える。1868年(明治1年)12月9日から1869年(明治2年)5月19日まで[[皇学所]]御用掛。1869年(明治2年)8月から1872年(明治5年)9月まで高島藩皇学所教授。1873年(明治6年)3月15日、気比神宮宮司兼権大講義。同年12月8日、[[貫前神社]]宮司。1874年(明治7年)8月8日、[[諏訪大社]]権宮司。1875年(明治8年)4月14日、[[甲斐浅間神社]]権宮司。1876年(明治9年)4月6日、宮司を解かれ、教導職に専任。12月8日、大講義。[[大教院]]講師。1878年(明治11年)11月20日、教導職退任。同年、修史館御用掛。1880年(明治13年)から1886年(明治19年)まで[[東京大学]]教授。1888年(明治21年)12月[[皇典講究所]]講師。1890年(明治23年)[[国学院]]講師。1891年(明治24年)[[慶応義塾]]大学部教授、1893年(明治26年)[[神宮教校]]教授。1896年(明治29年)帝国大学文科大学講師。1899年(明治32年)、約50年かけた大著『日本書紀通釈』を脱稿。1900年(明治33年)8月26日死去。 *今井清彦(1857-1922)<1891-?>:[[金崎宮]]宮司兼務。(略歴は、[[伏見稲荷大社#組織]]を参照) *櫟本憲昌(生没年不詳)<>:[[宗像大社]]宮司。[[藤崎八旛宮]]宮司。 *金子吉祇(1861-1924)<>:越後出身の神職。(略歴は、[[射水神社#組織]]を参照) *井上真平(生没年不詳)<1906-1914>:鹿児島県出身の神職。1906年(明治39年)6月21日から1914年(大正3年)4月18日(5月7日とも)まで気比神宮宮司。1906年(明治39年)6月21日から途中まで金崎宮宮司を兼務。(略歴は[[甲斐浅間神社#組織]]を参照) *河村常造(1868-?)<1914-1918>:1914年(大正3年)4月18日、気比神宮宮司。1918年(大正7年)4月18日、神宮神部署主事。(略歴は、[[石上神宮#組織]]を参照) *志賀正光(1882-1945)<1933-1936>:東京出身。1882年(明治15年)生。[[菅生石部神社]]宮司、[[大物忌神社]]宮司を経て1933年(昭和8年)6月16日、気比神宮宮司。1936年(昭和11年)12月19日[[諏訪大社]]宮司。1945年(昭和20年)2月11日、在職中死去。(略歴は[[菅生石部神社#組織]]を参照) *行弘糺()<>: *桑原廉一郎()<1942-1981>:[[井伊谷宮]]宮司、[[貴船神社]]宮司を経て1942年(昭和17年)気比神宮宮司。 *桑原恒明()<1981->:1981年(昭和56年)気比神宮宮司。2014年(平成26年)退任。 *福本佑喜()<2014->:2014年(平成26年)気比神宮宮司。 *桑原宏明 ===権宮司=== *田辺屯倉麿()<>:1874年(明治7年)4月在職。 ==画像== <gallery> file:kehi-jingu 009.jpg|参道入口 鳥居 file:kehi-jingu 008.jpg|参道入口 鳥居 file:kehi-jingu 011.jpg|参道入口 鳥居 file:kehi-jingu 001.jpg|鳥居と拝殿 file:kehi-jingu 010.jpg|拝殿 file:kehi-jingu 006.jpg|土公 file:kehi-jingu 007.jpg|土公 file:kehi-jingu 002.jpg|摂社 角鹿神社 file:kehi-jingu 003.jpg|末社 児宮 file:kehi-jingu 004.jpg|末社 大神下前神社 file:kehi-jingu 005.jpg|末社 大神下前神社 </gallery> ==資料== *『公文録』1874年(明治7年)4月:「気比神社権宮司兼権中講義田辺屯倉麿外七名願・教」:献金 *『太政類典』1878年(明治11年)1月19日:「気比神社旧神宮平松周玄始八名士族ニ編入」[https://www.digital.archives.go.jp/img/1301040]:「松平周玄」は誤り *『公文録』1878年(明治11年)1月:「滋賀県下気比神社旧神官士籍ヘ編入伺」[https://www.digital.archives.go.jp/img/3073217] *『公文録』1878年(明治11年)10月7日:「滋賀県気比神社御参拝ノ件」[https://www.digital.archives.go.jp/img/3641447] *『公文類聚』1895年(明治28年)1月10日:「福井県越前国敦賀郡曙町鎮座気比神社外一社社格ヲ進メラル」[https://www.digital.archives.go.jp/img/1670333] *『公文類聚』1895年(明治28年)3月27日:「福井県越前国敦賀郡曙町鎮座気比神社ヲ気比神宮ト称セラル」[https://www.digital.archives.go.jp/img/1670156] *「越前国敦賀郡気比宮之地指図」:1756年(宝暦6年)10月25日。森幸安。『内閣文庫』[https://www.digital.archives.go.jp/img.L/755455]。 *『敦賀志』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9537855/1/350][https://dl.ndl.go.jp/pid/9537481] *『気比宮社記』:平松周家著。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1040162] *『福井県敦賀郡誌』「神社」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9536098/1/484] *『官幣大社気比神宮宮報』 **1939年(昭和14年)度[https://dl.ndl.go.jp/pid/1092714] **1940年(昭和15年)度[https://dl.ndl.go.jp/pid/1034291] **1941年(昭和16年)度[https://dl.ndl.go.jp/pid/1139528/1/1] *豊田天功「気比神考」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9536098/1/489] *今井延彦1895「気比神宮進階碑」:今井延彦。1895年(明治28年)。[https://dl.ndl.go.jp/pid/11206466/1/15] [[category:福井県]]
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