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真宗大谷派井波別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
真宗大谷派井波別院
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'''真宗大谷派井波別院'''(しんしゅうおおたには・いなみ・べついん)は、富山県南砺市にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。[[蓮如旧跡]]。元は[[西本願寺]]末だったが、[[越中・勝興寺|勝興寺]]と争い、[[東本願寺]]末に転属した。'''瑞泉寺'''、'''井波御坊'''。別格別院だった(大谷派寺院録)。(参考:同名寺院[[瑞泉寺]]) == 歴史 == [[西本願寺|本願寺]]5代'''綽如'''が寺を6代功如に任せ、富山に赴きこの地を布教し、1390年(元中7年/明徳1年)に創建したのが起源とされる。朝廷からの依頼で帰京し、中国皇帝からの難読の書簡を読み解いた褒賞として寺院建立を許可されたという。当時の勧進帳が現存している。 綽如以後、無住が続いたが、功如の3男'''如乗'''が入寺し、[[加賀・本泉寺]]を開くなど、北陸布教の拠点となった。その後、'''蓮乗'''、'''蓮悟'''が住したと言われるが続かず、長享年間に'''蓮欽'''が入った。1475年(文明7年)[[蓮如]]が巡教に訪れている。戦国時代には越中[[一向一揆]]の拠点となり、1481年(文明13年)には越中国砺波地域を管轄した。江戸時代の本願寺東西分立以降は[[西本願寺]]に付いたが、同じく越中の有力寺院である[[越中・勝興寺|勝興寺]]との確執から東本願寺末に転属した。以後、善徳寺(現・[[真宗大谷派城端別院|城端別院]])とともに東本願寺の越中頭寺となった。昭和時代には、大谷派が4教団に分裂した大谷紛争の壮絶な舞台となり、バリケードなどが設置され、対立グループが睨み合う有様だったという。 1762年(宝暦12年)建立した本堂は明治に焼失。1879年(明治12年)に再建されたのが現在の本堂である。 [[聖徳太子信仰]]が盛んで、太子絵伝の絵解きをする太子伝会が毎年7月21日から29日に行われている。かつては農閑期に太子絵伝と太子像が各地を巡教していたという。蓮如下賜の[[親鸞]]の御影がある。 後小松天皇記念碑や綽如の墓の[[瑞泉寺大谷御廟]]がある。 (木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部) ==組織== ===住職=== 『真宗年表』、「瑞泉寺系譜」[https://dl.ndl.go.jp/pid/9536153/1/168][https://dl.ndl.go.jp/pid/9541089/1/383] {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|法号 !style="width:10%;"|法諱 !style="width:10%;"|院号 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|略歴 |- |1 |綽如 |時芸 | |1350-1393 | |[[本願寺]]5世。 |- |2 |如乗 |宣祐 | |1412-1460 | |[[加賀本泉寺]]開山。本願寺6世功如の三男。[[蓮如]]の叔父。宣祐。1460年(寛正1年)死去。49歳。 |- |3 |蓮乗 |兼鎮 | |1446-1504 | |加賀本泉寺2世。[[蓮如]]次男。兼鎮。1504年(永正1年)死去。59歳。 |- | |蓮悟 |兼縁 | |1468-1543 | |加賀本泉寺3世。[[願得寺]]開山。蓮如七男。瑞泉寺を兼務したとも。瑞泉寺系譜や真宗年表になし。 |- |4 |蓮欽 |玄真 | |1469-1496 | |玄真。1496年(明応5年)死去。28歳。 |- |5 |賢心 |兼乗 | |1488-1552 | |兼乗。1552年(天文21年)死去。65歳。 |- |6 |証心 |佐乗 | |1521-1575 | |佐乗。1575年(天正3年)死去。55歳。 |- |7 |顕秀 |佐運 | |1548-1585 | |佐運。1585年(天正13年)(1587年(天正15年)とも)死去。38歳。 |- |8 |准秀 |玄良 | |1564-1636 | |玄良。1636年(寛永13年)死去。73歳。 |- |9 |准宣 |佐良 | |1591-1632 | |佐良。1632年(寛永9年)死去。42歳。 |- |10 |宣良 |円順 |超善院 |1615-1686 | |1650年(慶安3年)[[東本願寺]]に帰参。初名は良宣で帰参後に宣良に改名。円順。1686年(貞享3年)死去。72歳。 |- |11 |常照 |晴寛 |応真院 |1671-1703 |1677-1703 |晴寛。1677年(延宝5年)瑞泉寺入院。1703年(元禄16年)死去。33歳。 |- |12 |真照 |性寛 |応現院 |1695-1744 | |性寛。1744年(延享1年)死去。50歳。 |- |13 |真恵 |性〓 |真諦院 |1720-1766 |1750-1766 |従如の実弟。性〓。貫騰。[[大和教行寺]]出身。[[高田本誓寺]]を兼務。1750年(寛延3年)瑞泉寺入院。1766年(明和3年)死去。47歳。(〓は「糸貴」) |- |14 |従祐 |超継 |誠心院 |1746-1793 |1768-1793 |超継。高田本誓寺で生まれる。1768年(明和5年)瑞泉寺入院。1786年(天明6年)本誓寺に隠居。1793年(寛政5年)瑞泉寺住職に再任。1793年(寛政5年)死去。48歳。 |- |15 |達性 | |摂受院 |1784-1800 | |入院なし。1800年(寛政12年)死去。17歳。 |- |16 |達恵 |朗寛 |普照院 |1790-1845 |1804-1845 |[[鷹司家]]出身。鷹司政煕の子。朗寛。1804年(文化1年)瑞泉寺入院。1845年(弘化2年)死去。56歳。 |- |17 |勝慧 |厳界 |普行院 |1839-1861 |1848-1861 |厳界。1848年(嘉永1年)瑞泉寺入院。1861年(文久1年)死去。23歳。 |- |18 |大谷厳昌 |勝智 |応正院 |1852-1881 |1864-1881 |勝智。[[大信寺]]に入る。1864年(元治1年)瑞泉寺住職。1881年(明治14年)死去。30歳。杉谷厳昌。 |- |19 |大谷瑩亮 |現城 |浄暁院 |1880-1936 |1892-1936 |現城。1892年(明治25年)5月17日、住職。1936年(昭和11年)死去。57歳。 |} ==画像== <gallery widths="300" heights="300" perrow="3"> file:真宗大谷派井波別院-01.jpeg| file:真宗大谷派井波別院-02.jpeg| file:真宗大谷派井波別院-03.jpeg| file:真宗大谷派井波別院-04.jpeg| file:真宗大谷派井波別院-05.jpeg| file:真宗大谷派井波別院-06.jpeg| file:真宗大谷派井波別院-07.jpeg| file:真宗大谷派井波別院-08.jpeg| </gallery> [[Category:富山県]]
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