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百済王室
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
百済王室
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'''百済'''の[[王室]]。前18年の建国と伝え、660年まで存続した。[[新羅王室]]、[[高句麗王室]]も参照。 ==首都== *慰礼城:前18年~371年:[[ソウル]]近郊。所在地は不明。 *漢山城:371年~475年:京畿道広州市付近。所在地は不明。 *[[公州]]:475年~538年:忠清南道公州市。当時の名前は「熊津」。 *[[扶余]]:538年~660年:忠清南道扶余郡。当時の名前は「泗〓」。(〓は「サンズイ+比」) *[[益山]]:全羅北道益山市。副都。 ==祭祀== *[[東明廟]]: *[[仇台廟]]: *[[国母廟]]: *[[横岳]]: *[[南壇_(百済)]]: *[[温祚廟]]:李氏朝鮮時代に創建。 ==陵墓== *[[石村洞古墳群]]:ソウル近郊 *可楽洞古墳群:ソウル近郊 *[[陵山里古墳群]]:扶余近郊。近年、[[義慈王陵]]が築かれた。扶余王陵園。百済王陵苑。[[陵山里寺]]がある。 *[[宋山里古墳群]]:公州近郊。[[武寧王陵]]が発見された。 *[[益山双陵]]:全羅北道益山市。武王の陵墓という説がある。 *[[ボウ山陵墓群]]:中国洛陽近郊。 ==歴代国王== *廟号はなかった。 *諡号の初例は501年崩御の東城王。 *陵墓が明らかになっているのは墓誌が発見された[[武寧王陵]]のみ。 {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|代数 !style="width:10%;"|王名 !style="width:8%;"|生没年 !style="width:8%;"|在位年 !style="width:7%;"|諱 !style="width:7%;"|諡号 !style="width:45%;"|略歴 !style="width:10%;"|陵墓 |- | |東明王 |生没年不詳 | | | |百済王室の遠祖。高句麗の東明聖王と同一人物とする説もあるが不詳。王都に[[東明廟]]が建てられた。 |不詳 |- |1 |温祚王 |?-28 |前18-28 | | |初代国王。東明王の王子とも。前18年に慰礼城(現[[ソウル]]近郊)で即位。28年2月崩御。 |不詳 |- |2 |多婁王 |?-77 |28-77 | | |温祚王の第一王子。 |不詳 |- |3 |己婁王 |?-128 |77-128 | | |多婁王の第一王子。 |不詳 |- |4 |蓋婁王 |?-166 |128-166 | | |己婁王の王子。 |不詳 |- |5 |肖古王 |?-214 |166-214 | | |蓋婁王の王子。素古王ともいう。古事記に記載のある「照古王」に当てる説もある。 |不詳 |- |6 |仇首王 |?-234 |214-234 | | |肖古王の第一王子。貴須王ともいう。 |不詳 |- |7 |沙伴王 |生没年不詳 |234-234 | | |仇首王の第一王子。沙伊王、沙沸王ともいう。 |不詳 |- |8 |古爾王 |?-286 |234-286 | | |肖古王の舅に当たる。蓋婁王の第二王子。久爾君、古慕王ともいう。 |不詳 |- |9 |責稽王 |?-298 |286-298 | | |古爾王の王子。青稽王ともいう。 |不詳 |- |10 |汾西王 |?-304 |298-304 | | |責稽王の第一王子。 |不詳 |- |11 |比流王 |?-344 |304-344 | | |仇首王の第二王子。 |不詳 |- |12 |契王 |?-346 |344-346 | | |汾西王の第一王子。 |不詳 |- |13 |近肖古王 |?-375 |346-375 |扶余句 | |比流王の第二王子。実質的な初代国王という説がある。371年、漢山城に遷都。「近肖古王」は通称で「肖古王」が正確な名。速古王ともいう。古事記に記載のある「照古王」に当てる説もある。 |不詳 |- |14 |近仇首王 |?-384 |375-384 |扶余須 | |近肖古王の第一王子。「近仇首王」は通称で正式には「仇首王」。貴首王ともいう。 |不詳 |- |15 |枕流王 |?-385 |384-385 | | |近仇首王の第一王子。初めて百済に仏教を導入し、摩羅難陀を招き、漢山に寺院を開いたという。 |不詳 |- |16 |辰斯王 |?-392 |385-392 | | |近仇首王の第二王子、枕流王の弟。 |不詳 |- |17 |阿〓王 |?-405 |392-405 | | |辰斯王の姪。枕流王の第一王子。阿芳王、阿花王ともいう。 |不詳 |- |18 |腆支王 |?-420 |405-420 |扶余映 | |阿〓王の第一王子。諱は扶余腆とも。直支王、真支王ともいう。 |不詳 |- |19 |久爾辛王 |?-427 |420-427 | | |腆支王の第一王子。南宋武帝は「鎮東将軍」から「鎮東大将軍」に昇格させた。 |不詳 |- |20 |毘有王 |?-455 |427-455 |扶余毘 | |久爾辛王の第一王子。 |不詳 |- |21 |蓋鹵王 |?-475 |455-475 |扶余慶司 | |毘有王の第一王子。高句麗軍に攻められ処刑された。諱は扶余慶とも。近蓋婁王ともいう。 |不詳 |- |22 |文周王 |?-477 |475-477 |扶余牟都 | |蓋鹵王の王子。475年、蓋鹵王の処刑後、熊津(公州)に逃れてその地を王都として即位した。諱は扶余都とも。〓洲王、文明王ともいう。 |不詳 |- |23 |三斤王 |?-479 |477-479 | | |文周王の第一王子。文斤王、三乞王、壬乞王ともいう。 |不詳 |- |24 |東城王 |?-501 |479-501 |扶余牟大 |東城王 |三斤王の姪か。臣下の大臣に暗殺された。初めて諡号を贈られた。諱は扶余摩牟とも。 |不詳 |- |25 |武寧王 |462-523 |501-523 |扶余斯摩 |武寧王 |東城王の第二王子。日本書紀によると、日本の加唐島で生まれたとされる。「武寧王陵墓誌」が発見されている。諱は扶余斯痲または扶余隆とも。斯痲王、嶋王、虎寧王ともいう。 |[[武寧王陵]] |- |26 |聖王 |?-554 |523-554 |扶余明〓 |聖王 |武寧王の王子。538年、泗〓(扶余)に遷都。国号を「南扶余」とした。仏教を重視し、527年、梁の皇帝の命で大通寺を建てた。538年もしくは552年に日本に仏教を伝えた。明王、聖明王ともいう。日本では稲佐神社の祭神となっている。日本の大内氏の祖の琳聖太子は聖明王の王子とされる。 |不詳 |- |27 |威徳王 |?-598 |554-598 |扶余昌 |威徳王 |聖王の第一王子。陵山里寺で供養。昌王ともいう。 |不詳 |- |28 |恵王 |?-599 |598-599 |扶余季 |恵王 |聖王の王子とも、威徳王の王子ともいう。献王ともいう。 |不詳 |- |29 |法王 |?-600 |599-600 |扶余宣 |法王 |恵王の第一王子とも威徳王の王子ともいう。仏教を重視し、王興寺創建を発願。漆岳寺で祈雨祈願。諱は孝順とも。 |不詳 |- |30 |武王 |?-641 |600-641 |扶余璋 |武王 |法王の王子か。[[王興寺]]、[[益山・弥勒寺]]を創建。諱は武康または献丙とも。虎王、武康王、武広王ともいう。 |不詳 |- |31 |義慈王 |599-660 |641-660 |扶余義慈 | |武王の第一王子。[[洛陽]]の[[ボウ山]]に埋葬された。近年、扶余近郊の陵山里古墳群に接して陵墓が築かれた。 |[[ボウ山]]、[[義慈王陵]] |}
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