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源信旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
源信旧跡
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'''源信'''(げんしん)(942-1017)は、[[浄土教]]で功績を残した[[天台宗]]の[[天台宗の人物旧跡|僧侶]]。[[卜部氏]]。大和国出身。天台密教[[恵心流]]の祖。[[浄土真宗]]の七高僧の一人。主著『往生要集』は、浄土教を重視する日本仏教の展開に決定的な影響を与えた。迎講(練り供養)を創始したことでも知られる。'''恵心僧都'''。[[源信墓|墓所]]は[[比叡山]]にある。 ==略歴== 天慶2年(942)、大和国葛城下郡、現在の奈良県葛城市当麻周辺に生まれる。父は占部正親、母は清原氏。母が[[高雄寺]]の観音像に祈願して誕生したとされる。3人の姉妹がおり、二人は尼となり願西と願証と称した。 故郷にある当麻寺が浄土教の聖地だったことはその後の歩みに影響を与えたと推測される。出家の経緯は分からないが、信心深かった母の影響が指摘されている。 年ははっきりしないが、10代で比叡山横川に入り、良源に師事した。ちょうど良源が横川復興を進めた時期に重なる。後年、朝廷の論義法要で得た褒賞を母に送ったところ、母は遁世修行を望むと嘆いた逸話が有名だ。康保3年(966)、師の良源が天台座主となる。広学竪義を経て天延2年(974)5月8日、宮中での論義に出仕。この時、議論を交わした相手は奝然だった。 当時、既に浄土教を信奉する僧のグループが生まれ始めており、源信の周辺にも慶滋保胤、増賀や性空といった遁世を望む僧俗がいた。『往生要集』は彼らへの指南書として書かれた。 『往生要集』が完成した翌年の寛和2年(985)、二十五三昧会が始まる。横川の僧侶が集まり臨終行儀を実践する集いで、まもなく源信も加わる。慶滋保胤がその指針となる「起請八箇条」を起草。源信も続けて「起請十二箇条」を記した。 永延元年(987)、九州に向かう。博多で宋の商人に出会い、自分や知人の著書を託した。 正暦2年(991)9月、中国の雲黄山双林寺の行〓という僧から往生要集を受け取った旨の手紙が届いた。手紙は北宋の淳化元年(990)4月付だった。『往生要集』は[[国清寺]]にまで送られ賞賛されたという。入宋した慶滋保胤や寂照は同寺に往生要集があったことを報告している。 寛和元年(985)に師の良源が死去。跡を継いだのは源信の兄弟弟子に当たる尋禅だった。兄弟子の尋禅から良源の始めた四季講の運営を託された。四季講は春に涅槃経、夏に華厳経、秋に法華経、冬に大集経を講義する法要。横川の学問興隆の中心的役割を担う。この頃から朝廷からも重用されるようになる。永延2年(987)10月、横川の堂塔を新造するが、大江為基に助力をこうた。同年、内供奉十禅師。長保3年(1001)仁王会に出仕した。 しかし寛弘2年(1005)権少僧都を辞任。以降、隠棲を志す。翌寛弘3年(1006)、横川に[[華台院]]を創建。華台院には丈六の阿弥陀仏を祀り、迎講を始めた。全国で行われている練り供養の起源とされる。また華台院の南に[[霊山院]]を建て釈迦講を組織。生身の霊山釈迦として供養を行なったが、これは同じく生身の釈迦の信仰で興隆してきた清凉寺への対抗として建てられたともいう。清凉寺を建てた奝然は愛宕山を比叡山に対抗する仏教の拠点にすることを企てていた。 他に地蔵像の造立の逸話が著名。戒心谷の知見坊に祀られた。多数の納入品があるのが特徴。臨終の時に阿弥陀仏とともに現れ、また地獄にいる衆生を救うとされた。原像は現存しないが、模像が清凉寺、寂光院、金剛心院、ケルン東洋美術館に伝わる。 寛仁元年(1017)6月10日死去。少し前から体調を崩し、臨終の準備を整えていたが、阿弥陀仏の手に結ばれたひもを持ち、念仏を唱えながら、眠るように静かに息を引き取ったという。 同時代の藤原道長は直接的な交流はなかったものの、源信に私淑し、『往生要集』を読み、臨終行儀の方法に従い、最期を迎えた。 『往生要集』は後世に多大な影響を与え、浄土宗、浄土真宗、時宗などの成立の基礎となった。源信の著作に基づく、浄土図、阿弥陀図、地獄図が多数作られた。 == 一覧 == ===旧跡=== *生誕地碑:奈良県香芝市。 *[[阿日寺]]:奈良県香芝市。生誕地。恵心堂に両親の位牌を祀る。 *[[高雄寺]]観音堂:奈良県葛城市。源信生誕にまつわる観音堂。 *[[比叡山]]:滋賀県大津市。 **[[横川中堂]]: **[[恵心院]]:跡地に恵心堂。 **[[華台院]]:兜率谷の本堂とされる。首楞厳院の南東、恵心院の近くにあったという。廃絶。源信が権少僧都を辞任し、横川に隠棲し始めた時の庵が起源という。丈六阿弥陀仏3体があり、源信は迎講(練り供養)を始めたという。源信没後も迎講が行われた記録があるが、寺の歴史ははっきりせず、織田信長焼き討ち後に再建された記録もないという。(日本歴史地名大系) **[[霊山院]]:兜率谷。源信墓の南方、行者道の傍にあったと伝わるが、正確な位置は不明。廃絶。比叡山五別所の一つ。正暦年間の創建。本尊は釈迦如来で、毎月晦日に霊山釈迦講が行われた。本尊は生身の釈迦とされ、清凉寺への対抗として造立されたとも言われる。永仁4年(1296)の文書によれば当時、本堂の他、鐘楼、経蔵、三十番神、如法普賢道場、また妙釈房、法釈房、蓮釈房、花釈房、如法経料紙供台、大湯屋の6坊があった。織田信長の焼き討ち後は再建されなかった。(日本歴史地名大系) *[[広隆寺]]:京都府京都市右京区。講堂を阿弥陀像を尊崇したという。 *[[播磨・円教寺|円教寺]]:兵庫県姫路市。友人の性空が建てた寺院で、源信も訪ねた。書写山。 ===伝承地=== *[[誓願寺]]:京都府京都市中京区。源信が参籠。 *[[武蔵・誓願寺|誓願寺]]:東京都足立区。源信が東国に降った時に創建 *[[武蔵・善福寺|善福寺]]:東京都港区。本尊は源信の作(江戸名所図会) *[[安養寺]]:京都府京都市中京区。京都新京極。源信が創建。 *[[増上寺]]:東京都港区。本尊は源信作。 *[[金戒光明寺]]:京都府京都市左京区。本尊「乙如来」は源信の最後の作という。 *[[安楽律院]]:滋賀県大津市。二十五三昧会の会場になぞらえられている??本尊は源信作の阿弥陀三尊だったが焼失。 *[[三千院]]:京都府京都市左京区。本堂極楽院の本尊阿弥陀三尊は源信作と伝える。 *[[伝通院]]:東京都文京区。本尊は源信作と伝える(江戸名所図会) *[[法然院]]:京都府京都市左京区。本尊は源信作 *[[専修寺京都別院|本誓寺]]:本尊は源信作 *[[吉田寺]]:奈良県生駒郡斑鳩町。源信創建と伝える。 *[[西教寺]]:滋賀県大津市。源信が念仏道場とした。 *[[当麻寺]]:奈良県葛城市。源信が来迎会を始めたとも伝える。 *[[常陸・普門寺|普門寺]]:茨城県つくば市。本尊は源信作 *[[深大寺]]:東京都調布市。本尊阿弥陀仏は源信作 *[[祐天寺]]:東京都目黒区。本尊は源信作(江戸名所図会) *[[杉本寺]]:神奈川県鎌倉市。本尊の千手観音3体のうち1体が源信作。 *[[満月寺]]:滋賀県大津市。浮御堂。源信が創建 *[[大御堂寺]]:愛知県知多郡美浜町。本尊は源信作(日本歴史地名大系) *[[清浄華院]]:京都府京都市。阿弥陀堂本尊は源信作(日本歴史地名大系) *[[泉涌寺即成院]]:京都府京都市東山区。[[泉涌寺]]塔頭。源信が創建。本尊は源信作。 *[[石峰寺]]:京都府京都市伏見区。本尊は源信作 *[[多田院]]:兵庫県川西市。源信に教化された多田満仲が創建。 *[[聖衆来迎寺]]:滋賀県大津市。源信が現在名に改めた。 *宇治恵心院:京都府宇治市。 *福応寺: ==御影== 古い御影像は少ないが、浄土真宗で祖師を並べて描いた図に現れるのは初期に属する。 *入宋の御影:「入唐の御影」とも。聖衆来迎寺蔵。南北朝時代の作だが、最古の御影画像として、生前に宋に送られた御影を偲ばせるものとしてこう呼ばれる。他に延暦寺本、三千院本がある。 ==著書== *『白毫観法』:天元4年(981)。観想念仏、特に白毫観を勧める。 *『因明論疏四相違略註釈』:貞元3年(987)、同門の厳久の依頼で執筆。因明学の書。 *『往生要集』:永観2年(984)から寛和元年(985)4月まで執筆。 *『普賢講作法』:988年。 *『天台宗疑問二十七条』:天台宗の疑問をまとめ、入宋する弟子の寂照に託した手紙。寂照は延慶寺の四明知礼に渡し、回答を得た。 *『大乗対倶舎抄』:寛弘2年(1005)。大乗仏教の概説書。 *『一乗要決』:寛弘3年(1006)。 *『霊山院釈迦堂毎日作法』:寛弘4年(1007)7月3日付。 *『観心略要集』:寛弘4年(1007)。 *『阿弥陀経略記』:1014年。 *『極楽六時讃』:源信作と言われる。時宗では主要な和讃として用いられている。 著作は『恵心僧都全集』全5巻(1927-1928)に収録されている。 ==信奉者== *[[藤原道長]] *[[多田満仲]] *[[永観]] *[[実範]] *珍海 *[[覚鑁]] *[[法然]] *[[親鸞]] *[[真盛]] ==資料== ===伝記=== *『りょう厳院二十五三昧過去帳』:弟子の覚超が執筆 *『大日本国法華験記』所収:鎮源著。1043年 *『源信僧都伝』:大江佐国著。『過去帳』を元に補足。 *『続本朝往生伝』:大江匡房著。 ===文献=== *『図録源信展』 [[category:人物旧跡]]
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