ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
清水寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
清水寺
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
{|class="wikitable" style="width:350px;" align=right |- |style="text-align:center;background-color:#ededed" colspan="2"|'''清水寺'''<br>きよみずでら <!-- |- |style="text-align:center;" colspan="2"|[[|350px]] --> |- |style="background-color:#ededed;width:100px;"|概要 | |- |style="background-color:#ededed"|奉斎 |十一面千手千眼観音 |- |style="background-color:#ededed"|所在地 |京都府京都市東山区清水1 |- |style="background-color:#ededed"|所在地(旧国郡) |山城国愛宕郡 |- |style="background-color:#ededed"|所属(現在) |北法相宗 |- |style="background-color:#ededed"|格式など |北法相宗大本山 |- |style="background-color:#ededed"|関連記事 | *[[観音信仰]] *[[法然上人二十五霊場]] |- |style="text-align:center;" colspan="2"| <googlemap version="0.9" lat="34.994883" lon="135.784943" type="map" zoom="16" width="350" height="300" controls="large"> 34.994833, 135.784961, 清水寺 </googlemap> |} [[category:個別記事]] [[category:京都府]] ==概要== '''清水寺'''(きよみずでら)は、京都府京都市東山区(山城国愛宕郡八坂郷)にある、[[清水観音信仰]]の[[南都仏教]]寺院。本尊は[[十一面千手観音]]。[[西国三十三所観音霊場]]第16番札所で、日本を代表する観音霊場の一つ。全国に同名の寺院がある。有名な「清水の舞台」も観音は崖上に現れるという信仰の表現である。延鎮が[[坂上田村麻呂]]を開基として創建。[[坂上氏]]の氏寺という説もある。平安時代末から[[興福寺]]末となり、[[一乗院門跡]]が清水寺別当を兼ねた。そのため興福寺と対立した[[延暦寺]]やその末寺の[[感神院]]とたびたび戦火を交えた。応仁の乱で焼失。願阿弥という時宗僧の勧進で文明16年に再建。現在の本堂は寛永10年(1633)の再建。幕末には本坊[[清水寺成就院|成就院]]住職だった月照が勤皇僧として活躍した。戦後、大西良慶が独立教団を立て、[[北法相宗]][[南都仏教の本山寺院|大本山]]と称す。[[清水寺阿弥陀堂|阿弥陀堂]]は[[法然]]が常行念仏の道場とした旧跡と伝え、[[法然上人二十五霊場]]の第13番札所。境内にある奥院とは別に山科に奥院と伝わる[[法厳寺]]がある。鎮守は[[清水寺・地主神社|地主神社]]。北に[[八坂神社]]が近く、南に[[大谷本廟]](西大谷)が接する。'''清水観音'''。南観音寺と呼ばれる[[子島寺]]に対して'''北観音寺'''とも。山号は音羽山。(参考:同名寺院[[清水寺 (同名)]]) ==歴史== ===縁起=== 『扶桑略記』や『今昔物語集』によると、宝亀9年4月、延鎮(当時は賢心と名乗る)が夢告を得て北に向かうと、一筋の金色の水が流れているのを見つけた。水源を訪ねると、滝の傍に草庵があり、行叡という行者に出会った。「お前を待っていた。ここにある木株で観音を造れ」と言い、姿を消した。後を追うと、山科のある峰に靴だけが落ちていて、行叡が観音の化身だと分かった。その後、坂上田村麻呂の支援で清水寺を創建した。 清水寺境内の奥院が行叡の草庵跡といい、山科区の[[法厳寺]]が行叡の靴を延鎮が発見した場所という。 ===古代=== 嘉保元年(1094)、興福寺隆禅が復興 興福寺の出張所のような存在となる。 ===中世=== 願阿弥が中興。 ===近世=== ===近代=== == 伽藍== ===伽藍=== *本堂:本尊は[[十一面千手観音]]。脇侍として勝敵[[毘沙門天]]と[[勝軍地蔵]]がある。三尊とも秘仏。その姿を見ることはできないが、一番上の脇手を頭上で組み、化仏を持つ清水式の形を御前立に見ることができる。 *朝倉堂:本尊は本堂と同じ。法華三昧堂。朝倉貞景の寄進で建立。 *開山堂:大本願の[[坂上田村麻呂]]夫妻、延鎮、行叡を祀る。田村堂とも。 *中興堂:大西良慶を祀る。 *春日社:[[法相宗]]の守護神[[春日神]]を祀る。 *随求堂:慈心院の本堂。本尊は[[大随求菩薩]]。 *善光寺堂:地蔵院の本堂。本尊は[[地蔵菩薩]]。[[如意輪観音]]と[[善光寺如来]]も祀る。善光寺如来は、明治に合併した奥院の善光寺如来堂のもの。 *三重塔:本尊は[[大日如来]]。 *経堂:本尊は[[釈迦三尊]]。経堂というが経典は現存しない。講堂。 *西門:日想観の聖地だったとみられている。 *[[清水寺・地主神社|地主神社]]:地主神。 *大講堂:仏舎利と仏足石を祀る。 ===奥院=== *奥の院本堂:本尊は三面千手観音。脇侍として毘沙門天と地蔵を祀る。他に二十八部衆、風神雷神を祀る。音羽の滝の上にある。延鎮の草庵の跡という。本堂のミニ版の舞台造。本尊の三面千手観音坐像は本面の左右に大き目の脇面がある。別に頭上に二十四面がある。「奥の千手堂」 *[[清水寺阿弥陀堂|阿弥陀堂]]:本尊は阿弥陀如来。法然が常行念仏の道場とした旧跡と伝え、法然上人二十五霊場の第13番札所。 *釈迦堂: *音羽の滝:行叡が修行していた旧跡 ===その他=== *子安塔:泰産寺の本堂に当たる。本尊は千手観音。 *経書堂:来迎院の本堂。本尊は[[聖徳太子]]。「きょうかくどう」。 *大日堂:真福寺の本堂。本尊は大日如来。 ==組織== ===諸役=== *[[清水寺成就院|成就院]]:本願を務めた旧本坊。財政を司る。清水寺中興の願阿弥の住房が起源で元は本願院といった。中世、五条橋を管理していた。江戸時代中期以降は塔頭の輪番。現存。 *宝性院:執行を務めた塔頭。現存。 *慈心院:目代を務めた塔頭。本堂は随求堂。現存。 ===六坊=== *光乗坊: *蓮養坊:寛永年間には廃絶か。 *義観坊:寛永年間には廃絶か。 *智文坊: *義乗坊: *真乗坊:織田信長によって廃絶。 *円養院: *延命院:現存。 ===その他=== *来迎院:本堂は経書堂。参道沿いの清水坂と三年坂が交わる場所にある。現存。耒迎院。 *地蔵院:本堂は善光寺堂。法人格はなし。 *泰産寺:子安塔を管理。現存。 *真福寺:本堂は大日堂。現存。 ===初期=== *延鎮(生没年不詳):[[子島寺]][[報恩]]の弟子。 ===清水寺別当=== *清範(962-999):文殊菩薩の化身と言われた。 *康成:仏師 *定朝(?-1057):仏師。 *定深:祇園神人に危害を加える事件を起こす。 *円勢(?-1134):天台系の仏師。永久元年(1113)に別当に任命されると、清水寺の激しい反発が起こり、強訴まで行われたことから辞退。 *長円(?-1150):天台系の仏師。円勢の子。大治4年(1129)別当に就任。 (清水寺別当次第[http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=29456]) ===近代=== *園部忍慶(1842-1890)<1875-1890>:清水寺の僧侶。月照の弟子。明治元年、成就院住職。明治8年清水寺住職。(以上、法隆寺辞典)明治14年8月29日から(『法隆寺年表』)、一度廃絶した[[興福寺]]を兼務し、その復興にも尽力した。明治20年7月、法相宗管長(法隆寺辞典)。明治23年2月22日死去(法隆寺年表。23日とする資料も)。49歳。 *千早定朝(1823-1899)<1890-1891>:本務は[[法隆寺]]。園部の死去で明治23年3月23日から翌年2月16日まで兼務。(法隆寺年表では23年6月30日まで)。(略歴は、[[法隆寺#組織]]を参照) *雲井良海(1836-1894)<1891-1894>:郡山藩足立家の出身。興福寺一同と共に還俗。雲井春影と名乗る。明治11年東大寺東南院で得度。高志大了に密教を学ぶ。同年、豊山に入る。明治21年長徳寺住職。明治24年2月16日、興福寺住職兼清水寺住職に就任(法隆寺年表では明治23年7月1日清水寺住職となり翌年2月16日に興福寺住職・法相宗管長)。明治27年5月20日、清水寺のトラブルの責任感から自害(法隆寺年表では19日死去とある)。 *千早定朝(1823-1899)<1895->:明治28年4月14日再任(『法隆寺年表』)。本務は法隆寺。 *(佐伯寛応)(1852-1930):明治27年5月、住職代理に就任。 *(楓実賢):明治30年11月、住職代理に就任。明治32年3月に千早定朝に死去したが、5月6日から引き続き「寺務管理」に就任。 *楓実賢(-1907)<1899-1907>:元は法隆寺の僧侶。明治32年5月、興福寺の要請で清水寺住職に就任。法隆寺内宗源寺、同興善院の住職を兼務。明治40年10月9日死去。 *井坊忍教(1873-1914): *大西良慶(1875-1983)<1914-1983>:清水寺中興。奈良県出身。明治8年12月21日生。父は妙楽寺智光院の僧侶。明治22年、興福寺に入寺。園部忍慶に師事。法隆寺勧学院で佐伯定胤に学ぶ。明治32年(1899)興福寺住職。日露戦争に従軍。大正3年(1814)、清水寺住職を兼務。昭和17年(1942)、興福寺住職を退任して清水寺住職に専念。昭和40年(1965)、北法相宗を設立して初代管長。昭和58年2月15日死去。 *松本大円(1922-2012)<1983-1988>:北法相宗2代管長。古都税紛争中、拝観を再開しようとして反発を受け、辞職に追い込まれる。平成24年8月18日死去。 *森清範(1940-)<1988->:北法相宗3代管長。 ==参考文献== *国史大事典 *日本歴史地名大系 *図録『京都清水寺』2013 *清水寺ウェブサイト ==脚注== <references/>
清水寺
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ