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廬山寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
廬山寺
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'''廬山寺'''(ろざんじ)は、京都府京都市にある[[皇室]]ゆかりの[[天台宗]]寺院。天台円浄宗総本山を名乗る。[[慶光天皇]]らを葬る[[廬山寺陵墓地]]がある。名称は中国廬山に由来する。与願金剛院と号す。 == 歴史 == == 伽藍 == == 子院 == *竹中坊 *金光院 *宝林院 *十輪院 *不動院 == 組織== ===歴代住職=== *[[良源]](912-985): *覚瑜:住心房。 *1本光禅仙 *2禅月心善 *3照源(1298-1368):六条有房の六男。延暦寺で遍照光院仲円に師事。最初は常住房房雲と称すが、浄土宗西山派を学び、明導房照源と改名。後醍醐天皇に講じ、御衣を賜ったという。暦応頃、廬山寺に住し、典籍を整備し、学僧が集まった。講義録を『猪熊抄』という。1368年(正平23年/応安1年)死去。仁空と共に廬山寺流の祖。 *4仁空実導(1309-1388)<1368->:[[三鈷寺]]10世(11世?)。藤原為信の子。天台宗、密教、戒律、浄土宗西山派を学ぶ。照源と共に仲円に師事。1368年(正平23年/応安1年)廬山寺を兼務。1388年(元中5年/嘉慶2年)12月死去。80歳。勅諡は円応。『大日経義釈捜決抄』『遮那業案立』など著作多数。照源とと共に天台宗廬山寺流の祖。現在では天台宗の僧侶とも、浄土宗西山派(本山流)の僧侶ともみなされる。 *5 *6 *7 *8明空志玉(?-1406)<-1400->:1400年(応永7年)時点で在職。帰国して遣明使に同行して明に渡る途中、船中で死去。没年については諸説あり。普一志玉と混同されることがあるが別人。 *9 *10 *11 *12大用照珍()<>:明空志玉の侍者だった。6年間、入宋して1404年(応永11年)1月帰国。廬山寺に住す。 未見:「廬山寺代々住持」(『京天台四箇寺歴代略譜』) ==資料== ===古典籍=== *『廬山寺縁起』:1569年(永禄12年)。『大日本仏教全書』収録[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952821/234]。 *卍元師蛮「京兆廬山寺沙門照源伝」『本朝高僧伝』 *『続天台宗全書』圓戒2 ===文献=== *獅子王圓信1929「台密廬山寺流の伝燈」『密教研究』33[https://doi.org/10.11168/jeb1918.1929.33_125] *岩田教圓1933「大日経義釈捜決抄の刊本と廬山寺流の教学に就て」『新山家学報』新8 *山口光圓1956「安居院流から廬山寺流へ」『台門學報』1 *山口光圓1958「宗淵僧都の天台教学―特に廬山寺流の教学について」『天台学僧宗淵の研究』 *藤平寛田1992「明導照源と廬山寺流義科書『廬談』について」『天台学報』35 *加藤繁生2008「廬山寺墓地の石造遺構―伝『雲水の井』について」『史迹と美術』78(1) *大塚紀弘2009「教院興行と三鈷寺流の成立―康空から仁空・照源へ」『中世禅律仏教論』 [[category:京都府]]
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