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秩父・観音院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
秩父・観音院
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[[ファイル:Mitsumine-jinja (27).jpg|thumb|300px|旧観音院本堂(三峰神社の小教院という建物になっている)]] '''観音院'''(かんのんいん)は、武蔵国秩父郡の[[三峰山]]にあった[[修験道]][[本山派]]の寺院。本山派[[二十七先達]]の一つ。廃絶。[[三峰神社]]別当。'''高雲寺'''と号す。(参考:同名寺院[[観音院]]) ==歴史== 日本武尊が三峰神社を祀っていたが、737年(天平9年)、[[光明皇后]]が葛城好久に命じて観音菩薩を祀ったのが観音院の起源。 745年(天平17年)、月慶(月桂)を住職とした。1502年(文亀2年)、月観道満が中興。1533年(天文2年)、龍栄が[[聖護院門跡]]に謁見してその末寺となったらしい。長年、[[山本坊]]の配下だったが、争論があり、1665年(寛文5年)、聖護院直末となった。 江戸時代、住職の「不行跡」により無住になる。 1718年(享保3年)、真言宗僧の元良が看坊となり、1721年(享保6年)、真言宗の日光が看坊となる。 1733年(享保18年)、日光が正式な住職に就任。日光は眷属信仰を導入した。再中興と呼ばれた。以後、真言宗[[智積院]]末の僧侶が天台宗に改宗して住職になる慣習が生まれた。 神仏分離で廃絶となった。(日本歴史地名大系) ==組織== ===歴代1=== *1月桂(生没年不詳)<745->:開山。月慶とも。 *2月観道満(生没年不詳)<1502->:中興。1502年(文亀2年)に三峰山に来訪。1533年(天文2年)に再建を果たした。退任・没年不詳。 *3栄円(?-1591)<1507->:1507年(永正4年)就任。1591年(天正19年)死去。 *4龍栄(?-1643)<1532->:1532年(天文1年)就任。1533年(天文2年)聖護院門跡に謁見。1643年(寛永20年)死去。 *5龍雲(?-1633)<1628->:1628年(寛永5年)就任。1633年(寛永10年)死去。 *6龍誉(?-1661)<1644->:1644年(正保1年)就任。1661年(寛文1年)死去。 *7龍慶(生没年不詳)<1661->:1661年(寛文1年)就任。退任・没年不詳。 *8(兼帯)(生没年不詳)<1670-1670>:1670年(寛文10年)就任。同年退任。 *9龍興(?-1687)<1671->:1671年(寛文11年)就任。1687年(貞享4年)死去。 *10龍代(?-1691)<1687->:1687年(貞享4年)就任。1691年(元禄4年)死去。 *11一如(?-1703)<1692->:1692年(元禄5年)就任。1703年(元禄16年)死去。 *12覚雄(?-1710)<1704->:1704年(宝永1年)就任。1710年(宝永7年)死去。 *13元良(生没年不詳)<1718-1724>:1718年(享保3年)就任。1724年(享保9年)退任。 ===歴代2=== 江戸時代には、[[智積院]]末の[[真言宗]]僧侶が[[天台宗]]に改宗して入寺し、[[花山院家]]の猶子となった。 *1日光()<1733->:再中興。多宝寺住職。1720年(享保5年)3月に看坊となる。1733年(享保18年)正式な住職となる。1752年(宝暦2年)死去。 *2日恵()<1743->:1743年(寛保3年)11月就任。1760年(宝暦10年)死去。 *3日照()<1761->:1761年(宝暦11年)10月(1760年(宝暦10年)9月とも)就任。1776年(安永5年)死去。 *4日翁()<1775->:1775年(安永4年)5月就任。1800年(寛政12年)死去。 *5性幢()<1783->:1783年(天明3年)8月就任。1786年(天明6年)死去。 *6日高()<>:1786年(天明6年)8月就任。1794年(寛政6年)聖護院から先達職を与えられた。1795年(寛政7年)死去。 *7日俊()<>:1795年(寛政7年)5月就任。1806年(文化3年)参仕修学者。大僧都。1809年(文化6年)直参。同年、花山院家の猶子となる。1812年(文化9年)権僧正。同年紫衣緋衣着用勅許。1815年(文化12年)江戸城登城独礼、乗輿許可。1819年(文政2年)隠居。1825年(文政8年)9月死去。 *8日雅(?-1839)<1819->:福井出身。初名は観雅。[[越前・性海寺]]で出家。師はのち[[智積院]]29世となる観豪。福井神明社別当寿福院に住す。智積院集議席か。1819年(文政2年)10月就任。1839年(天保10年)9月15日死去。福井の浄土宗清円寺に分骨墓がある。権僧正。鑁明房。鑁明光院。(『越前人物志』[https://books.google.co.jp/books?id=YvYfC-myLR0C&pg=PP190]) *9観巍(?-1854)<>:[[智積院]]集議席だった。[[三宝院流]]も継ぐ。1832年(天保3年)就任。1840年(天保11年)、聖護院から永院室の格式を与えられた。1831年(天保2年)権僧正。1835年(天保6年)僧正。1848年(嘉永1年)隠居。[[伽耶院]]を兼務した。1854年(安政1年)7月18日死去。融天光院と号す。 *10観深()<>:1841年(天保12年)就任。1843年(天保14年)死去。大僧都。 *11観宝()<>:1848年(嘉永1年)就任。1857年(安政4年)死去。権僧正。僧正。 *12観禅()<>:1856年(安政3年)就任。1867年(慶応3年)死去。権僧正。僧正。真寿院と号す。 *13到阿()<>:1865年(慶応1年)就任。権僧正。1869年(明治2年)還俗して高室自在(のち高室祥峰)を名乗る。1873年(明治6年)[[三峰神社]]祠官となるが、1875年(明治8年)退職。 (『三峰山誌』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764408]) [[category:埼玉県]]
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