ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
光善寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
光善寺
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
'''光善寺'''(こうぜんじ)は、大阪府枚方市出口(河内国茨田郡)にある[[浄土真宗]]の[[御坊寺院]]。1475年(文明7年)8月から1478年(文明10年)1月まで滞在した[[蓮如旧跡]]。[[真宗大谷派]]。[[相伝五箇寺]]の筆頭。通称は'''出口坊'''、'''出口御坊'''、'''梓原堂'''。山号は淵埋山。(参考:同名寺院[[光善寺_(同名)]]) == 歴史 == 1475年(文明7年)8月21日、[[吉崎御坊]]を去った[[蓮如]]は小浜、摂津唐崎を経て、9月5日、河内国茨田郡中振郷山本の出口に至り、草庵を建てた。 御厨光善(空念)が支援者となり、その名を取って「光善寺」と称した。 蓮如自筆の裏書きがある1475年(文明7年)の親鸞絵像がある。 蓮如は1478年(文明10年)1月まで滞在した。その後は長男で[[近松顕証寺]]にいた順如を招いて住職とした。 天文年間に焼失。衰退。住職は摂津国島下郡鳥養、河内国茨田郡大庭を転々とした。慶長年間、出口に帰還。 1560年(永禄3年)12月、[[正親町天皇]]から[[院家]]の勅許を受けた。 1602年(慶長7年)の[[本願寺]]の東西分裂から百年近く帰属が決まらなかったが、 1711年(正徳1年)になって[[東本願寺]]末となった。 天明年間焼失。1782年(天明2年)8月本堂上棟。(日本歴史地名大系) == 伽藍== *本堂: *蓮如腰掛石:南にある。 *蓮如墓:光善寺の東1kmにある。 == 組織 == ===歴代=== *[[蓮如]](1415-1499)<>: *1順如(1442-1483)<>:初代住職。蓮如の長男。 *2光淳(?-1497)<>:[[常楽寺]]光信の三男。蓮如の外孫。 *3実順(?-1549)<>: *4実玄(?-1570)<1549>: *5顕証(?-1606)<1570>: *6准勝(?-1639)<1606>: *7准玄(?-1648)<1639>:西本願寺学寮初代能化。 *8良玄(?-1680)<>: *9寂玄(?-1726)<>:西本願寺末から東本願寺末に転属。 *10一玄(?-1746)<>: *11真玄(?-1752)<>: *12従玄(?-1814)<>: *13乗玄(?-1836)<>: *14達玄(?-1871)<>: *15厳玄(?-1899)<>: *16厳智(?-1931)<>: *17演良(?-1976)<>: *18暢信(?-)<>: (光善寺ウェブサイト) [[category:大阪府]]
光善寺
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ