ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
僧官僧位制度
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
僧官僧位制度
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
'''僧官・僧位'''は国家公務員としての僧侶の官職と位階。政教分離が定められた現在でも変容しながらも各教団の僧階の名称に使われている。[[玄蕃寮]]の管轄にあった。 ==年表== *624年(推古32年):僧綱を設置。観勒を僧正、鞍部徳積を僧都に任命。 *645年(大化1年):十師を設置。 *673年(天武2年):この年までに僧都が大僧都と少僧都に分かれる。 *683年(天武12年):律師を設置。地方に三綱を設置。 *701年(大宝1年):大宝律令 *702年(大宝2年):諸国に国師を設置。 *718年(養老2年):養老律令で「僧尼令」を制定。 *722年(養老6年):[[僧綱所]]が[[薬師寺]]に定まる(これ以前の所在地は不明)。 *745年(天平17年):[[行基]]を大僧正に任命。大僧正の初例。 *786年(延暦5年)3月6日:威儀師の定員を6人とする。 *788年(延暦7年)4月9日:僧位の俗位相当を定める。 *795年(延暦14年)8月13日:諸国の国師を講師と改称。読師には[[国分寺]]の僧侶を序列により任命することとする。 *806年(大同1年)1月26日:宗ごとに年分度者を定め、試験の合格基準と定数を定める。(この時、[[天台宗]]も宗派の一つとして認められた) *819年(弘仁10年):この時点での僧綱の構成と定員は僧正1人、大僧都1人、少僧都1人、律師4人、威儀師6人、従儀師8人。 *850年(嘉祥3年):道雄が権少僧都に任命。権少僧都の初例。 *853年(仁寿3年):真済が権大僧都に任命。権大僧都の初例。 *864年(貞観6年):この年までに僧綱所が[[西寺]]に移る。 *864年(貞観6年):官位相当を定める。 *865年(貞観7年):壱演を権僧正に任命。権僧正の初例。 *938年(天慶1年):僧綱所に長官として法務2人を設置する。 *981年(天元4年):[[良源]]を大僧正とする。以後、僧正は大僧正、僧正(正僧正)、権僧正の3段階となり、人数が増加していった。 *1167年(仁安2年):僧綱所威儀師が[[仁和寺門跡]]の管轄となる。 *1695年(元禄8年)9月18日:[[護持院]][[隆光]]が大僧正となる。[[真言宗新義派]]で初の大僧正。 *1872年(明治5年):僧官僧位を廃止。 ==各宗派== ===真言宗新義派=== 近世の新義派では僧階は重視されなかった。形式的には律師、僧都、僧正で権正、大小の別があったが、事実上は「四部階官」と呼ばれる4段階で、権律師、権少僧都、権大僧都、法印と昇進した。住職になるには談林や本山で修学20年を必要としたが、その間に昇進するものとされた。 僧正は一般の僧侶は任命されず、一部の特別な寺院の住職のみだった。将軍家の御沙汰を経て朝廷から宣下された。智積院玄宥と小池坊専誉が権僧正だったため智積院と長谷寺は権僧正が極官だった。隆光時代の1691年(元禄4年)6月18日に知足院、智積院、長谷寺が同時に正僧正となったが一時的なものか。ほか、上品蓮台寺、江戸・護持院が権僧正地だった。また個別に宮門跡から権僧正の推薦を受ける場合もあるが江戸触頭は容易には請書を出さなかった。触頭は事情を調査し協議の上、申請者の住職に公式の場でも権僧正の衣体を着用することはないとの誓約書を提出させた上で許可した。大僧正は1695年(元禄8年)9月18日の隆光が初例だがその後は不詳。(「新義真言教団の宗教行政」ほか) [[category:系譜記事]]
僧官僧位制度
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ