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清水寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
清水寺
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[[file:Kokudo0146.jpg|thumb|300px|清水寺(国土地理院空中写真より)]] '''清水寺'''(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水(山城国愛宕郡八坂郷)にある、[[清水観音信仰]]の[[南都仏教]]寺院。本尊は[[十一面千手観音]]。[[西国三十三所観音霊場]]第16番札所で、日本を代表する観音霊場の一つ。全国に同名の寺院がある。有名な「清水の舞台」も観音は崖上に現れるという信仰の表現である。延鎮が[[坂上田村麻呂]]を開基として創建。[[坂上氏]]の氏寺という説もある。平安時代末から[[興福寺]]末となり、[[一乗院門跡]]が清水寺別当を兼ねた。そのため興福寺と対立した[[延暦寺]]やその末寺の[[感神院]]とたびたび戦火を交えた。応仁の乱で焼失。願阿弥という時宗僧の勧進で文明16年に再建。現在の本堂は寛永10年(1633)の再建。幕末には本坊[[清水寺成就院|成就院]]住職だった月照が勤皇僧として活躍した。戦後、大西良慶が独立教団を立て、[[北法相宗]][[南都仏教の本山寺院|大本山]]と称す。[[清水寺阿弥陀堂|阿弥陀堂]]は[[法然]]が常行念仏の道場とした旧跡と伝え、[[法然上人二十五霊場]]の第13番札所。境内にある奥院とは別に山科に奥院と伝わる[[法厳寺]]がある。鎮守は[[清水寺・地主神社|地主神社]]。北に[[八坂神社]]が近く、南に[[大谷本廟]](西大谷)が接する。'''清水観音'''。南観音寺と呼ばれる[[子島寺]]に対して'''北観音寺'''とも。山号は音羽山。(参考:同名寺院[[清水寺 (同名)]]) ==本尊== *十一面千手千眼観音菩薩 清水型観音。四十二臂。秘仏でその姿を見ることはできないが、一番上の脇手を頭上で組み、化仏を持つ。御前立が厨子の前にある。 ==歴史== [[file:Kokudo0137.jpg|thumb|300px|知恩院~八坂神社~大谷祖廟~高台寺~清水寺(国土地理院空中写真より)]] [[file:Kokudo0145.jpg|thumb|300px|清水寺・大谷本廟の周辺(国土地理院空中写真より)]] ===縁起=== 『扶桑略記』や『今昔物語集』によると、778年(宝亀9年)4月、延鎮(当時は賢心と名乗る)が夢告を得て北に向かうと、一筋の金色の水が流れているのを見つけた。水源を訪ねると、滝の傍に草庵があり、行叡という行者に出会った。「お前を待っていた。ここにある木株で観音を造れ」と言い、姿を消した。後を追うと、山科のある峰に靴だけが落ちていて、行叡が観音の化身だと分かった。その後、坂上田村麻呂の支援で清水寺を創建した。798年(延暦17年)、寺域を広げ、脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天を祀った。 清水寺境内の奥院が行叡の草庵跡といい、山科区の[[法厳寺]]が行叡の靴を延鎮が発見した場所という。 ===古代=== 1094年(嘉保1年)、興福寺隆禅が復興 興福寺の出張所のような存在となる。 貴族の信仰を集め、源氏物語、枕草子、今昔物語にも登場する。 ===中世=== 願阿弥が中興。 能の「熊野」「田村」「盛久」に東條。 ===近世=== ===近代=== == 伽藍== ===本堂周辺=== *本堂:本尊は[[十一面千手観音]]。脇侍として勝敵[[毘沙門天]]と[[勝軍地蔵]]がある。三尊とも秘仏。1633年(寛永10年)再建。舞台造は最大高15m。礼堂に1633年(寛永10年)の懸仏が掛かる。大悲閣ともいう。正面36m。側面30m。高さ18m。寝殿造風の仏堂で寄棟造の檜皮葺。外陣(礼堂)、内陣、内内陣に分かれる。和様・漆塗りの大須弥壇があり、その上に厨子3基を奉安する。二十八部衆が厨子と厨子の間に並び、風神・雷神が両端にいる。轟門と回廊でつながる。外縁に出世大黒天を祀る。西脇に塩断ち阿弥陀如来を祀る。 *朝倉堂:本尊は本堂と同じ。法華三昧堂。1510年(永正7年)朝倉貞景の寄進で建立。回廊の北側にある。1631年(寛永8年)~1633年(寛永10年)再建。正面五間、側面三間。本瓦葺き。入母屋造り。素木。堂内の厨子は宝形造り唐様。東脇に仏足石がある。 *開山堂:大本願の[[坂上田村麻呂]]夫妻、延鎮、行叡を祀る。田村堂とも。経堂の東にある。1631年(寛永8年)~1633年(寛永10年)頃に再建。三間四方。入母屋造り。檜皮葺。謡曲「田村」に登場する。 *中興堂:大西良慶(1875-1983)を祀る。1997年(平成9年)10月建立。 *春日社:[[法相宗]]の守護神[[春日神]]を祀る。江戸時代初期の再建。典型的な春日造。桃山様式の彫刻がある。1629年(寛永6年)の火災を免れた。鎮守堂。 *随求堂:慈心院の本堂。本尊は[[大随求菩薩]]。秘仏。梵字の大随求陀羅尼を模した円形光背を持ち、七重の獅子蓮華台座に座る元禄様式の質の高い像。毘沙門天と吉祥天を脇侍とする。歓喜天や粟島明神も祀る。特異な形状の堂宇。胎内めぐりがある。江戸時代中期の享保年間の再建。 *善光寺堂:地蔵院の本堂。本尊は[[地蔵菩薩]](首ふり地蔵)。[[如意輪観音]]と[[善光寺如来]]も祀る。善光寺如来は、明治に合併した奥院の善光寺如来堂のもの。「清水善光寺」。1984年(昭和59年)改築。 *三重塔:本尊は[[大日如来]]。四方の壁に真言八祖像を描く。初代は897年(寛平9年)建立という。1632年(寛永9年)再建。高さ約31m。総丹塗。桃山様式の文様を施す。1987年(昭和62年)解体修理で造営時の姿に復元。 *経堂:本尊は[[釈迦三尊]]。経堂というが経典は現存しない。講堂を兼ねる。三重塔の東に立つ。1633年(寛永10年)再建。正面五間、側面四間。本瓦葺き。入母屋造り。 *西門:持国天と増長天を祀る。日想観の聖地だったとみられている。「拝殿」風の他に類例のない形式で、木階があり高欄を設け、切妻屋根の庇を持つ。背面に軒唐破風がある。檜皮葺。三重塔の前に立つ。桃山様式の三間一戸の八脚門。1631年(寛永8年)再建。1994年(平成6年)修復。 *[[清水寺・地主神社|地主神社]]:地主神。 *大講堂:仏舎利と仏足石を祀る。多宝閣に4mの巨大な仏足石があり、釈迦十一霊相を表す。高さ20mの壁面には東面に薬師如来、南面に釈迦如来、西面に阿弥陀如来、北面に多宝如来の鋳像4076体を祀る。大講堂には宝蔵殿もある。1984年(昭和59年)建立。清水寺開創1200年記念。四階建て。三棟が連結。多宝閣、円通殿、迎賓殿、宝蔵殿、寺務所がある。 *仁王門:金剛力士(高さ3.6m、鎌倉時代)を祀る。室町時代15世紀末の再建。正面10m。側面8.4m。高さ14m。入母屋造り。檜皮葺。丹塗。扁額の「清水寺」は藤原行成の筆という。赤門とも呼ばれる。2004年(平成16年)修復。北脇に1875年(明治8年)の基準点標石が残る。 *水子観音堂:1982年(昭和57年)建立。 *馬駐:室町時代後期の建築。全国的に希少。正面10m。側面5m。5頭の馬をつなぐことができる。 *弁財天社:1991年(平成3年)改築。 *千体石仏:鎌倉時代の石仏も含む。 *月照碑 *円通殿 *寺務所 *鐘楼:1607年(慶長12年)再建。瓦葺き。切妻造り。6本柱。四方転び。桃山様式。1999年(平成11年)修復。1478年(文明10年)に願阿が鋳造した梵鐘が掛かる。 *轟門:持国天と広目天(平安時代末)を祀る。1631年(寛永8年)~1633年(寛永10年)再建。普門閣の扁額を掲げる。切妻造り。本瓦葺き。三間一戸の八脚門。東大寺転害門を模した建築。 *北総門:元は成就院の正門。薬医門。本瓦葺き。切妻造り。 ===奥院=== 本堂の西口を出ると、南に曲がる崖が続き、北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥院本堂と並ぶ。奥院本堂は音羽の滝の直上に位置する。 *奥院本堂:本尊は三面千手観音。脇侍として[[毘沙門天]]と[[地蔵]]を祀る。空海も祀る。他に[[二十八部衆]]、風神雷神を祀る。延鎮の草庵の跡という。本堂のミニ版の舞台造。本尊の三面千手観音坐像は本面の左右に大き目の脇面がある。別に頭上に二十四面がある。1633年(寛永10年)再建。五間四方。寄棟造。檜皮葺。[[夜叉神堂]]が付属する。「奥の千手堂」 *[[清水寺阿弥陀堂|阿弥陀堂]]:本尊は丈六[[阿弥陀如来]]。1188年(文治4年)[[法然]]が常行念仏の道場とした旧跡と伝え、[[法然上人二十五霊場]]の第13番札所。1633年(寛永10年)再建。三間四方。入母屋造り。桟瓦葺。前面一間は吹き放ちで礼堂兼通路。右脇に法然像を祀る。両聯に「洛陽六阿弥陀如来念仏道場」「円光大師廿五拝十三番遺跡」とある。 *釈迦堂:本尊は[[釈迦如来]](平安末)と普賢菩薩・文殊菩薩(鎌倉時代末)。1631年(寛永8年)再建。1975年(昭和50年)豪雨被害。三間四方。寄棟造。檜皮葺。 *石塔:法華塔と刻まれている。阿弥陀堂と奥院本堂の間の奥にある。 *銅塔:阿弥陀仏が納められている。阿弥陀堂の前にある。 *百体地蔵堂:多数の石地蔵を祀る。釈迦堂と阿弥陀堂の間の奥にある。1918年(大正7年)建立。 *濡れ手観音:奥院本堂の裏の小池の中に立つ石仏。 *西向地蔵堂:1885年(明治18年)再建。1975年(昭和50年)復旧。 *宝篋印塔:西向地蔵堂のそばに宝篋印塔2基がある。 *音羽の滝:行叡が修行していた旧跡。清水寺の名の由来という。不動明王や行叡を祀る。「黄金水」「延命水」 *滝宮:明治初年に地主神社に合祀された。 *アテルイ・モレ碑:1994年(平成6年)11月建立。関西胆江同郷会などの発起による。清水寺開基の坂上田村麻呂とアテルイが戦った縁による。 *十一重石塔: ===その他=== *子安塔:泰産寺の本堂に当たる。本尊は千手観音(子安観音)。寛永頃の再建。高さ約15m。檜皮葺。1911年(明治44年)仁王門前から移築。 *経書堂:来迎院の本堂。本尊は[[聖徳太子]]。「きょうかくどう」。 *大日堂:真福寺の本堂。本尊は大日如来。参道沿いにある。 *姥堂:金性院の本堂。本尊は[[奪衣婆]]と[[愛染明王]]。経書堂の南向にあった。廃絶。 *清水寺経塚:1912年出土 ==子院== ===諸役=== *[[清水寺成就院|成就院]]:清水寺本願職(勧進職)を務めた。旧本坊。財政を司る。807年(大同2年)の創建。清水寺中興の願阿弥の住房が起源で元は本願院(本願寺)といった。中世、五条橋を管理していた。江戸時代中期以降は子院の輪番。現存。庭園が有名。1639年(寛永16年)東福門院の寄進で再建。 *宝性院:清水寺執行職を務めた。現存。1928年(昭和3年)改築。 *[[清水寺慈心院|慈心院]]:清水寺目代職を務めた。本堂の随求堂のみ残る。807年(大同2年)の創建。[[足利将軍家]]と関係が深い。1677年(延宝5年)、[[後水尾上皇]]の勅願所となる。現存。 ===六坊=== *義乗院:義乗坊。 *延命院:六坊で唯一現存する。 *智文院:智文坊。 *光乗院:光乗坊。 *円養院: *真乗院:真乗坊。織田信長によって廃絶。 *蓮養坊:寛永年間には廃絶か。 *義観坊:寛永年間には廃絶か。 ===その他=== *来迎院:本堂は経書堂。参道沿いの清水坂と三年坂が交わる場所にある。成就院の子院。現存。耒迎院。 *地蔵院:本堂は善光寺堂。法人格はなし。 *泰産寺:子安塔を管理。1911年(明治44年)仁王門下から現在地に移転。現存。 *真福寺:本堂は大日堂。宝性院の子院。現存。 *法成寺:本堂は姥堂。1893年2月に廃絶。金性院、愛染院とも。 *南蔵院:本尊は虚空蔵菩薩。元は大和国内山([[永久寺]]?)にあり主膳寺と称したという。音羽の滝の下にあった。廃絶。 ===周辺寺院=== 参道沿いに多くの寺院がある。 *宝徳寺:浄土宗。本尊は阿弥陀如来。[[浄土宗西山深草派]]。1667年徳空が創建。あるいは1604年に念仏道場が建てられ、1663年に徳空が寺として伽藍を建てたともいう。山号は霊光山。現存。 *[[京都・宝福寺|宝福寺]]:[[時宗]]。[[鳥辺野墓地]]ゆかり。廃絶。東山通り沿いに地蔵堂が残る。 *金剛院:不詳。八坂庚申堂? *影向寺:不詳。 *大漸寺:[[日蓮宗]]。本尊は[[日蓮]]。1555年創建。元は山科にあった。1742年、日琢が清水坂に移転。初名は桂林庵。山号は宝林山。現存。 *日体寺:日蓮宗。本尊は釈迦如来。1732年日忍が創建。師の日体を開山とし、名を取って寺号とした。[[本圀寺]]末。[[日蓮宗久遠寺派]]。山号は常照山。現存。 *[[東山・西光寺|西光寺]]:浄土宗。本尊は阿弥陀如来。元は山科にあった。[[空也墓]]がある。[[浄土宗知恩院派]]。現存。 *西向寺:浄土宗。元は西七条にあった。1894年に移転。浄土宗知恩院派。 *仲光院:本尊は[[愛染明王]]と[[歓喜天]]。大日堂の南にあった。 *北斗堂:謡曲「熊野」に登場。廃絶。 *観持庵:[[臨済宗]]。本尊は阿弥陀如来。[[南禅寺]]末。山号は大梅山。善応寺とも。廃絶。 *花蔵院:臨済宗。柏厳が創建。廃絶。 *定水庵:廃絶。 *常楽庵:廃絶。 *松林庵:禅宗。1521年、宗胤が創建。元は音羽の滝の下にあった。のちに清水坂に移転。廃絶。 *満福寺:臨済宗。廃絶。 *慈願寺:本尊は釈迦如来。1498年創建。廃絶。 *滝尾不動堂:『源平盛衰記』に1165年焼失とある。 *晴尾観音寺:同上。 *本願院:成就院のことか?? *一心庵:日蓮宗。本尊は釈迦如来。1690年に日観が創建とも、1673年に馬町に創建され1759年に尼知光が移転とも。1907年4月、本山[[京都・本法寺]]に合併して廃絶。 ==組織== ===清水寺別当=== *[[報恩]](?-795):延鎮の師。古代の備前などで活躍したとされる伝説的な僧侶。吉野で修行。報恩大師。[[報恩大師創建四十八寺]]が著名。 *延鎮(生没年不詳):開山。 *願預(): *安興(): *隆原(): *〓宗(): *寿曜(): *道歴?(): *興法(): *名誉(): *〓源(): *禅連?(): *真寵(): *長代(): *増延(): *康信(): *朝源(): *康尚():「康成」とも。 *[[定朝]](?-1057):仏師。 *定源(): *定範(): *定俊(): *定深():祇園神人に危害を加える事件を起こす。 *勝快(): *永縁(1048-1125):興福寺別当31世。円勢就任に反発が起こったため就任。 *有禅():興福寺僧。 *無円():興福寺僧。 *長円(?-1150):天台系の仏師。円勢の子。大治4年(1129)別当に就任。 *隆覚(1074-1158):興福寺別当35世。 *定耀():興福寺僧。 *恵信(1124-1171):興福寺別当39世。「覚継」とも称す。 *乗範():西大寺別当50世。興福寺権別当。 *玄縁(?-1179):興福寺別当43世。 *範玄(?-1199):興福寺別当46世。 *勝朝(): *舜覚(): *円長():興福寺僧。 *範玄(?-1199):再任。 *信家():興福寺僧。元興寺別当。 *玄信():興福寺僧。 *円経():興福寺僧。元興寺別当。 *範信():興福寺僧。 *玄信():再任。 *基円():興福寺僧。 *経円():興福寺僧。 *定玄(?-1247):興福寺別当60世。 *経円():再任。 *定玄():再任。 *親縁(生没年不詳):興福寺別当67世。 *定玄():再任。 *円憲():興福寺僧。元興寺別当。 *良盛(1196-1262):興福寺別当68世。 *尋性():興福寺僧。 *頼円(生没年不詳):興福寺別当71世。 *宗懐(?-1289):興福寺別当79世。 *〓範():興福寺僧。 *〓遍(): (以上、清水寺別当次第[http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=29456]) *清範(962-999):文殊菩薩の化身と言われた。 *円勢(?-1134):天台系の仏師。永久元年(1113)に別当に任命されると、清水寺の激しい反発が起こり、強訴まで行われたことから辞退。 *円玄:経円の直前にいたらしいが別当次第にない。(大日本史料総合DB) *俊円:東北院。法隆寺別当。(大日本史料総合DB) *光政:俊円の後任。(大日本史料総合DB) *隆秀:(大日本史料総合DB) *兼雅:興福寺松林院。隆秀の後任。(大日本史料総合DB) *任円:興福寺浄法院。兼雅の後任。(大日本史料総合DB) *一乗院真敬親王:1665年(寛文5年)就任。(大日本史料総合DB) ===近現代の貫主=== *現在は「貫主」と称す。 *『清水寺史』 *世数は近代の便宜上付した。 {|class="wikitable" |+近代の清水寺の歴代住職 !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:65%;"|略歴 |- |1 |園部忍慶 |1842-1890 |1875-1890 |清水寺の僧侶。月照の弟子。和泉国堺出身。1842年(天保13年)生。12歳で成就院月照に師事。15歳で光乗院住職となる。[[高野山遍照院]]の栄秀から灌頂。1868年(明治1年)、成就院住職。慣例に従い、中納言園基茂の猶子となる。1875年(明治8年)清水寺住職。1881年(明治14年)8月29日から(『法隆寺年表』)、一度廃絶した[[興福寺]]を兼務し、その復興にも尽力した。[[教導職]]大講義。1887年(明治20年)7月、[[法相宗]]管長(法隆寺辞典)。1890年(明治23年)2月22日死去(『法隆寺年表』、『日本仏教基礎講座』「法相宗興福寺」。『清水寺史』では23日)。49歳。(法隆寺辞典、法隆寺年表、日本仏教基礎講座) |- |2 |千早定朝 |1823-1899 |1890-1891 |本務は[[法隆寺]]。園部の死去で1890年(明治23年)3月23日から翌年2月16日まで兼務。(法隆寺年表では23年6月30日まで)。(略歴は、[[法隆寺#組織]]を参照) |- |3 |雲井良海 |1836-1894 |1891-1894 |郡山藩足立家の出身。興福寺一同と共に還俗。雲井春影と名乗る。1878年(明治11年)[[東大寺東南院]]で得度。高志大了に密教を学ぶ。同年、[[長谷寺]]末に入る。1888年(明治21年)東京長徳寺住職。1890年(明治23年)7月1日清水寺住職。1891年(明治24年)2月16日に興福寺住職・法相宗管長を兼務。1893年(明治26年)9月、財政再建のため子院処分・財産売却を進めていたが、実務にあたっていた執事が不正を行ったとして内部で告発され、これを契機に雲井体制への不信感が高まり、自らも告訴された。執事が勾留された後、辞意を表明。しかし住職派と反住職派の対立が激化。疑惑が高まり、1894年(明治27年)1月、未決ながら収監された。5月19日、清水寺に帰還。その夜に自決した。 |- |4 |千早定朝 |1823-1899 |1895-1899 |1895年(明治28年)4月14日、興福寺住職兼清水寺住職に再任(『法隆寺年表』)。本務は法隆寺。1899年(明治32年)3月21日死去。 |- | |(佐伯寛応) |1853-1930 |1895-1897? |1853年(嘉永6年)生。1895年(明治28年)住職代理に就任。奈良にいる千早住職の下、清水寺を担当した。1930年(昭和5年)死去。法隆寺辞典に79歳死去とある。 |- | |(楓実賢) |1837-1907 |1897-1899 |1897年(明治30年)11月、住職代理に就任。1899年(明治32年)3月21日に千早定朝が死去したが、5月6日から引き続き「寺務管理」に就任。 |- |5 |楓実賢 |1837-1907 |1899-1907 |元は法隆寺の僧侶。1837年(天保8年)生。1897年(明治30年)11月、清水寺住職代理に就任。1899年(明治32年)3月21日に千早定朝が死去したが、5月6日から引き続き「寺務管理」に就任。まもなく正式な住職に就任した。法隆寺内宗源寺、同興善院の住職を兼務。1907年(明治40年)10月9日死去。 |- |6 |井坊忍教 |1873-1914 |1907-1914 |奈良角振出身。1873年(明治6年)生。1884年(明治17年)清水寺に入り、園部忍慶に師事。1887年(明治20年)円養院住職。1891年(明治24年)延命院を兼務。高野山で学び、法隆寺勧学院で学んだ。1893年(明治26年)円養院住職を退任し、延命院住職のみとなる。1907年(明治40年)清水寺住職。1914年(大正3年)9月8日死去。42歳。 |- |7 |大西良慶 |1875-1983 |1914-1983 |清水寺中興。[[北法相宗]]初代管長。奈良県出身。1875年(明治8年)12月21日生。父は[[多武峰]]妙楽寺智光院の大西広海。興福寺の嘱望により県立郡山中学を中退し1889年(明治22年)、興福寺に入寺。園部忍慶に師事。1890年(明治23年)千早定朝のもと受戒得度。1893年(明治26年)法隆寺勧学院で佐伯定胤に学ぶ。1898年(明治31年)興福寺副住職。1899年(明治32年)興福寺住職(1900年(明治33年)とも)。[[室生寺]]丸山貫長に三宝院流灌頂。1903年(明治36年)鶯滝で荒行。1904年(明治37年)中国北京の東文学舎に留学。1905年(明治38年)日露戦争の従軍僧を務めた。同年、法相宗管長(1908年(明治41年)まで)、大僧正探題。1911年(明治44年)管長再任(1914年(大正3年)まで)。1914年(大正3年)10月9日、清水寺住職を兼務。11月8日晋山式。成就院・延命院・慈心院・竹林院・来迎院・山科[[法厳寺]]を兼務。1915年(大正4年)8月、早朝の暁天法話を始める。暁天法話の活動は全国に広まり、良慶は67年間毎年続ける。1920年(大正9年)1月、京都仏教護国団(和敬会)団長(1955年(昭和30年)まで)。同年管長(1923年(大正12年)まで)1921年(大正10年)9月、京都養老院(同和園)を創設。1924年(大正13年)和敬学園創設。同年、朝鮮仏教団常任顧問。1929年(昭和4年)管長再任(1932年(昭和7年)まで)。1935年(昭和10年)日華仏教研究会を創設。1938年(昭和13年)管長(1941年(昭和16年)まで)。1942年(昭和17年)2月、興福寺住職を退任して清水寺住職に専念。1965年(昭和40年)5月28日、北法相宗を設立して初代管長。7月1日、立宗奉告法要。1966年(昭和41年)7月、[[霊山観音]]座主。同じく1966年(昭和41年)7月、[[叡福寺]]座主。1974年(昭和49年)日中友好仏教協会名誉会長。1983年(昭和58年)2月15日死去。 |- |8 |松本大円 |1922-2012 |1983-1988 |北法相宗2代管長。京都府綾部市出身。1922年(大正11年)生。1935年(昭和10年)入寺得度。宝性院住職。執事長・宗務長を経て1983年(昭和58年)清水寺貫主・管長に就任。1984年(昭和59年)3月10日晋山式。古都税紛争中、拝観を再開しようとして反発を受け、1988年(昭和63年)辞職に追い込まれる。清水寺長老・名誉管長となる。2012年(平成24年)8月18日死去。 |- |9 |森清範 |1940- |1988- |北法相宗3代管長。1940年(昭和15年)生。1955年(昭和30年)得度。法務部長を経て1988年(昭和63年)4月、清水寺貫主・管長。 |} == 画像 == <gallery> ファイル:Sdre-056.JPG ファイル:Sdre-057.JPG file:清水寺001.jpg| file:清水寺002.jpg| file:清水寺003.jpg| file:清水寺004.jpg| file:清水寺005.jpg| file:清水寺006.jpg| file:清水寺007.jpg| file:清水寺008.jpg| file:清水寺009.jpg| file:清水寺010.jpg| file:清水寺011.jpg| file:清水寺012.jpg| file:清水寺014.jpg| file:清水寺016.jpg| file:清水寺017.jpg| file:清水寺018.jpg| file:清水寺019.jpg| file:清水寺020.jpg| file:清水寺021.jpg| file:清水寺022.jpg| file:清水寺023.jpg| file:清水寺024.jpg| file:清水寺025.jpg| file:清水寺026.jpg| file:清水寺027.jpg| file:清水寺028.jpg| file:清水寺029.jpg| file:清水寺030.jpg| file:清水寺031.jpg| file:清水寺032.jpg| file:清水寺033.jpg| file:清水寺034.jpg| file:清水寺035.jpg| file:清水寺036.jpg| file:清水寺038.jpg| file:清水寺039.jpg| file:清水寺040.jpg| file:清水寺041.jpg| file:清水寺043.jpg| file:清水寺044.jpg| file:清水寺045.jpg| file:清水寺048.jpg| file:清水寺049.jpg| file:清水寺050.jpg| file:清水寺051.jpg| </gallery> ==資料== ===古典籍=== *『清水寺成就院日記』 *『清水寺縁起絵巻』:土佐光信筆。1517年(永正14年)頃。 ===文献=== *図録『京都清水寺』2013 [[category:京都府]]
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