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野中寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[file:yachuji (3).JPG|350px|thumb|野中寺]] '''野中寺'''(やちゅうじ)は、大阪府羽曳野市(河内国丹南郡)にある[[太子信仰]]の[[真言宗]]寺院。本尊は[[薬師如来]]。[[聖徳太子建立四十六寺]]の一つ。古代には船氏の氏寺だったという。近世には戒律復興運動の拠点となる[[律院]]となった。[[仲哀天皇陵]]の南にある。河内国丹南郡。[[叡福寺]]と[[大聖勝軍寺]]と共に'''河内三太子'''の一つで通称は'''中之太子'''。[[京都・西明寺|西明寺]]・[[神鳳寺]]と共に[[西明寺流]]の三僧坊の一つ。[[高野山真言宗]]。'''野中律寺'''。山号は青龍山。近くの[[法泉寺]]が野中寺奥之院を称す。 ==歴史== ===古代~中世=== 聖徳太子を開基として蘇我馬子が創建したとされる。調査では奈良時代前期の法隆寺式の古代伽藍跡が確認されている。 『日本霊異記』に登場する野中堂は野中寺に当たるとされる。 南北朝時代に全焼。 ===近世=== 政賢覚栄が[[西明寺]]の慈忍慧猛を招いて律院として復興した。ここで学んだ僧として洪善普摂(法楽寺中興)、忍綱貞紀、忍綱門下の[[慈雲]]([[長栄寺]]中興、[[高貴寺]]中興)(1718-1804)がいた。 (日本歴史地名大系) == 組織 == ===歴代=== *1世から15世まで『日本における戒律伝播の研究』による。 *16世以降は不詳。輪番制だったので短期で交代したか。 {|class="wikitable" |+ !style="width:3%;"|世数 !style="width:6%;"|名 !style="width:8%;"|生没年 !style="width:8%;"|在職年 !style="width:30%;"|略歴 |- |1 |慈忍慧猛 |1613-1675 |1669- |真言律宗野中寺流の祖。1613年(慶長18年)生。1641年(寛永18年)春、西明寺で具足戒受戒。泉涌寺の正専如周に師事する一方、槙尾西明寺の真空了阿にも学ぶ。さらに西大寺で伝法灌頂を受けた。1646年(正保3年)巌松院住職。寛文年間、巌松院に僧坊を設けようとして西明寺から抵抗に遭う。泉涌寺に寓居。1669年(寛文9年)2月、招かれて野中寺に入り律僧坊とした。浄土律の性憲慈空(1646-1719)、黄檗宗の鉄眼道光(1630-1682)に菩薩戒を授ける。1675年(延宝3年)3月21日死去。62歳。慈忍恵猛。 |- |2 |慈門信光 |1624-1707 |?-1703 |1624年(寛永1年)生。慈忍慧猛の弟子。1703年(元禄16年)8月8日退任(安養寺文書)。1707年(宝永4年)7月10日死去。84歳。1701年(元禄14年)作の彫像が野中寺に現存。弟子に通玄直心(1656-1731)。 |- |3 |戒山慧堅 |1649-1704 |1703-1704 |安養寺中興。久留米出身。1649年(慶安2年)生。元は黄檗宗の僧侶で鉄眼道光のもとで出家。鉄眼道光の戒師でのある野中寺慈忍慧猛に戒律を学ぶ。1670年(寛文10年)具足戒受戒。1685年(貞享2年)[[近江・安養寺]]を中興する。1689年(元禄2年)『律苑僧宝伝』を刊行。浄土律の霊潭性澂(1676-1734)、敬首祖海(1683-1748)の受戒の証明師となる。1703年(元禄16年)8月8日、野中寺住職(安養寺文書)。1704年(宝永1年)3月4日死去。退耕道人。 |- |4 |玄道慈観 |1653-1729 |1704-1705 |京都出身。1653年(承応2年)生。大応寺で参禅。1704年(宝永1年)3月3日、野中寺を継承。1705年(宝永2年)8月23日退任。1729年(享保14年)5月17日死去。51歳。 |- |5 |行海満空 |1636-1719 | |[[矢田寺]]中興。1636年(寛永13年)生。1719年(享保4年)10月21日死去。84歳。矢田寺に供養塔がある。 |- |6 |湛堂慧淑 |1669-1720 | |安養寺2世。京都出身。1669年(寛文9年)生。戒山慧堅の弟子。最初、泉涌寺で学び、のち安養寺で戒山慧堅に学ぶ。1688年(元禄1年)冬、野中寺で具足戒を受ける。律僧伝の続編『律門西生録』を編纂。1714年(正徳4年)『青龍山清規』(龍山清規)を制定。浄土律の霊潭性澂(1676-1734)、天台安楽律院流の霊空光謙(1652-1739)、園城寺の義瑞性慶(1667-1737)の授戒の証明師を務めた。1720年(享保5年)5月15日死去。51歳。 |- |7 |洪善普摂 |1647-1724 | |[[法楽寺]]中興。肥前国出身。1647年(正保4年)生。慈忍慧猛に師事。1724年(享保9年)4月18日死去。78歳。 |- |8 |慧燈玄光 |?-1739 | |南都出身。1739年(元文4年)5月9日死去。 |- |9 |戒龍唯如 |1666-1747 | |名古屋出身。1666年(寛文6年)生。[[尾張・興正寺]]で学ぶ。美濃三光寺中興に招かれる。1747年(延享4年)5月10日死去。82歳。 |- |10 |高忍道量 |?-1730 | |[[真宗院]]慈空性憲(浄土律)の弟子。浄土宗から転派。1730年(享保15年)12月13日死去。 |- |11 |実門慧亨 |1666-1740 | |安養寺3世。江戸出身。1666年(寛文6年)生。黒田家家臣の子。戒山慧堅の弟子。1740年(元文5年)8月19日死去。75歳。初名は実門元透。 |- |12 |秀厳性賢 |?-1737 | |河内国出身。1737年(元文2年)8月3日死去。秀巌性賢。 |- |13 |桂嶽慈香 |1687-1745 | |大和国出身。1687年(貞享4年)生。長谷寺で学ぶ。1717年(享保2年)11月12日野中寺で受戒。1745年(延享2年)9月6日死去。59歳。 |- |14 |慧行行円 |生没年不詳 |?-1746 |大和国出身。元の名は慧海行円だったが、1746年(延享3年)9月に住職を譲り、幕府に本山として認められた時、宛名が「瑞龍慧海」となっていたため「慧海」の名を「慧行」と改めた。 |- |15 |瑞龍慧海 |1707-1781 |1746- |1707年(宝永4年)生。1746年(延享3年)9月、野中寺住職。初名は秀全英郁、ついで智岳覚高、瑞龍堂海と改名。さらに住職就任に際に幕府の任命書に「瑞龍慧海」とあったため改名したという。1781年(天明1年)死去。 |} *法操智瑞?(1772-1844) *野口明運()<>: *野口明真 ()<>: *野口真戒()<>: ==画像== <gallery perrow="3"> file:yachuji (1).JPG file:yachuji (2).JPG file:yachuji (3).JPG file:yachuji (4).JPG file:yachuji (5).JPG file:yachuji (6).JPG </gallery> ==資料== [[category:大阪府]]
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