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円応教
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*1887年(明治20年)10月3日:深田千代子(教祖と呼称)、兵庫県丹波市山南町井原で誕生。 | *1887年(明治20年)10月3日:深田千代子(教祖と呼称)、兵庫県丹波市山南町井原で誕生。 | ||
- | *1919年(大正8年) | + | *1919年(大正8年)7月16日:深田千代子、居住地の大阪市で「世の中の道具になれ」と天啓を受ける。天啓を下したのは大御親とされる。この時を立教とする。霊感、霊能力による人助けを行い、信者が集まっていく。菩提寺の霊雲寺住職との書簡による交流が続き、[[臨済宗]]の教義の影響を受けたとみられている。 |
*1922年(大正11年):葉村町の行場に移る。 | *1922年(大正11年):葉村町の行場に移る。 | ||
- | *1925年(大正14年) | + | *1925年(大正14年)1月6日:深田千代子、葉村町の行場で死去。39歳。「昇天」と呼ばれている。故郷の碁打山に埋葬?。霊雲寺より「円応智覚大姉」の法号を授かるが、これが円応教の教団名の由来となる。 |
- | *1925年(大正14年) | + | *1925年(大正14年)2月9日:35日忌の石塔建立を機に'''円応法修会'''を設立。佐々木俊蔵が会長に就任。横山仙太郎ら7人が中心か。 |
- | *1931年(昭和6年) | + | *1931年(昭和6年)2月6日:円応法修会を'''円応修法会'''と改称。霊雲寺住職の林誠道が会長に就任。霊雲寺の前に会堂を設置。 |
- | *1933年(昭和8年) | + | *1933年(昭和8年):伴仲実襄(のち屋島教会教会長)が別団体の'''円応報恩会'''を設立。 |
*1941年(昭和16年):宗教団体法施行による宗教統制の強化を受け、円応修法会と円応報恩会は解散。霊雲寺信徒として活動を続ける。 | *1941年(昭和16年):宗教団体法施行による宗教統制の強化を受け、円応修法会と円応報恩会は解散。霊雲寺信徒として活動を続ける。 | ||
*1948年(昭和23年)6月3日:旧円応修法会の門弟らが集まり、深田長治を管長とし、「円応教」の名称で教団設立を決定。 | *1948年(昭和23年)6月3日:旧円応修法会の門弟らが集まり、深田長治を管長とし、「円応教」の名称で教団設立を決定。 | ||
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*1949年(昭和24年):本部(本教庁)の増築移転計画が開始。11月に碁打山(知覚山)の麓を移転地と決める。 | *1949年(昭和24年):本部(本教庁)の増築移転計画が開始。11月に碁打山(知覚山)の麓を移転地と決める。 | ||
*1951年(昭和26年)6月26日:本部移転。 | *1951年(昭和26年)6月26日:本部移転。 | ||
- | *1951年(昭和26年) | + | *1951年(昭和26年)10月17日:[[新日本宗教団体連合会]]の設立と共に加盟。 |
*1952年(昭和27年)7月7日:宗教法人認証。 | *1952年(昭和27年)7月7日:宗教法人認証。 | ||
*1953年(昭和28年)10月:木造2階建ての修法殿が完成。 | *1953年(昭和28年)10月:木造2階建ての修法殿が完成。 |
2022年2月16日 (水) 時点における版
円応教(えんのうきょう)は、深田千代子(1887-1925)を教祖とし、京都府丹波市に本部を置く新宗教。主祭神とされる大御親(おおみおや)は理念的な位置付けだと推定され、汎神論的に解釈されているようだ。既存の日本の宗教観を前提としており、氏神や菩提寺などへの参拝については積極的に肯定する。修法(しゅうほう)と呼ばれる霊能儀礼と、「世の中の道具になれ」の言葉に象徴されるストイックな社会道徳の実践が主要な活動のようである。現在も力を発揮し続けているとされる教祖の霊能への関心が強く、教祖の言行を模範としており、大御親よりも教祖への崇敬の念が強調されている。戦前は臨済宗妙心寺派の寺院の傘下として活動し、影響を受けているとみられるため、仏教系の要素もあるが全体を特徴付けるほどではない。教主は教祖の子孫が世襲している。執行部のトップとして理事長が置かれている。政教分離・人権尊重を重視し、リベラルなスタンスを取っている。分布は本部のある兵庫県丹波地方を中心とした関西に集中している。
目次 |
施設・関連旧跡
- 円応教聖地:兵庫県丹波市山南町村森。本部。本殿の他、教祖や教主の墓などがある。
- 丹波・霊雲寺:兵庫県丹波市山南町井原。深田家の菩提寺。本部がそばにあった。臨済宗妙心寺派。
- 葉村町の行場:大阪府大阪市北区中崎西。教祖が最後に過ごした行場。没地。廃絶。
- 深田千代子初葬地:兵庫県丹波市山南町井原。井原の共同墓地か。跡地に記念碑。
歴史
- 1887年(明治20年)10月3日:深田千代子(教祖と呼称)、兵庫県丹波市山南町井原で誕生。
- 1919年(大正8年)7月16日:深田千代子、居住地の大阪市で「世の中の道具になれ」と天啓を受ける。天啓を下したのは大御親とされる。この時を立教とする。霊感、霊能力による人助けを行い、信者が集まっていく。菩提寺の霊雲寺住職との書簡による交流が続き、臨済宗の教義の影響を受けたとみられている。
- 1922年(大正11年):葉村町の行場に移る。
- 1925年(大正14年)1月6日:深田千代子、葉村町の行場で死去。39歳。「昇天」と呼ばれている。故郷の碁打山に埋葬?。霊雲寺より「円応智覚大姉」の法号を授かるが、これが円応教の教団名の由来となる。
- 1925年(大正14年)2月9日:35日忌の石塔建立を機に円応法修会を設立。佐々木俊蔵が会長に就任。横山仙太郎ら7人が中心か。
- 1931年(昭和6年)2月6日:円応法修会を円応修法会と改称。霊雲寺住職の林誠道が会長に就任。霊雲寺の前に会堂を設置。
- 1933年(昭和8年):伴仲実襄(のち屋島教会教会長)が別団体の円応報恩会を設立。
- 1941年(昭和16年):宗教団体法施行による宗教統制の強化を受け、円応修法会と円応報恩会は解散。霊雲寺信徒として活動を続ける。
- 1948年(昭和23年)6月3日:旧円応修法会の門弟らが集まり、深田長治を管長とし、「円応教」の名称で教団設立を決定。
- 1948年(昭和23年)6月10日:宗教法人令に基づく「円応教」設立登記。深田長治、管長に就任。
- 1948年(昭和23年)6月26日:円応教に旧円応報恩会の門弟らも合流。
- 1949年(昭和24年):本部(本教庁)の増築移転計画が開始。11月に碁打山(知覚山)の麓を移転地と決める。
- 1951年(昭和26年)6月26日:本部移転。
- 1951年(昭和26年)10月17日:新日本宗教団体連合会の設立と共に加盟。
- 1952年(昭和27年)7月7日:宗教法人認証。
- 1953年(昭和28年)10月:木造2階建ての修法殿が完成。
- 1954年(昭和29年):円応青年会設立。
- 1956年(昭和31年):墓所を上手の地に改葬し、本部聖地を大規模に造成した。
- 1958年(昭和33年):「管長」を「教主」に変更。
- 1966年(昭和41年):本殿造営中に豪族の墓が出土
- 1970年(昭和45年)10月6日:立教50周年記念で本殿完成。
- 1972年(昭和47年):大地の御親、本殿の南側に鎮座
- 1976年(昭和51年)4月3日:初代教主深田長治、死去。
- 1976年(昭和51年)4月6日:深田充啓、2代教主に就任。
- 1986年(昭和61年)7月13日:教祖生誕100年祭記念で五法閣を建立。
- 1991年(平成3年)10月6日:深田恵子を恵主(教主後継者)に推戴。
- 1999年(平成11年)7月16日:立教80周年。
- 2011年(平成23年):大地の御親、慈照殿の横に遷座
- 2015年(平成27年)7月18日:本殿と修法殿を改築
- 2019年(令和1年)7月16日:立教100周年。
- 新宗教事典
- 円応教ウェブサイト
- 宗教情報リサーチセンター教団データベース
- 新日本宗教団体連合会ウェブサイト
- 1992「円応教」『現代宗教研究』26[1]
組織
教主
- 教祖:深田千代子(1887-1925)<>:
- 初代教主:深田長治(1908-1976)<>:
- 2代教主:深田充啓(1937-)<>:
- (恵主):深田恵子()<>:後継者。
理事長
- 林卓道()<>:林誠道の養子。霊雲寺住職。
- 坂野守信()<-2000->:2000年(平成12年)頃在職。
- 小泉圭修()<-2007->:小黒教会教会長。2007年(平成19年)
- 赤銅重夫()<2009?-2019>:大和教会教会長。2009年(平成21年)頃、理事長に就任。
- 中村史郎()<2019->:桃山教会教会長。2019年(令和1年)、理事長・代表役員に就任。