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淳和天皇火葬塚

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年4月12日 (水)

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'''淳和天皇火葬塚'''は、京都府向日市物集女町出口(山城国乙訓郡)にある[[淳和天皇]]の火葬塚。皇室治定。江戸時代の一時期にはここが淳和天皇陵とみなされていた。通称は'''御廟塚'''。
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[[File:淳和天皇火葬塚_(5).jpg|thumb|500px|拝所]]
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'''淳和天皇火葬塚'''は、京都府向日市物集女町出口(山城国乙訓郡)にある[[淳和天皇]]の[[火葬塚]]。皇室治定。江戸時代の一時期にはここが淳和天皇陵とみなされていた。通称は'''御廟塚'''。
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==歴史==
 
天皇は遺言として散骨を指示。
天皇は遺言として散骨を指示。
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840年5月8日崩御した。
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840年(承和7年)5月8日崩御した。
5月13日、乙訓郡物集村で火葬し、大原野の西山の嶺の上に散骨した(続日本後紀)。
5月13日、乙訓郡物集村で火葬し、大原野の西山の嶺の上に散骨した(続日本後紀)。
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江戸幕府による元禄の修陵で1699年、物集の御廟塚と呼ばれる塚を陵墓に擬したが、 幕末の文久の修陵では散骨の場所を考証して大原野に陵墓([[淳和天皇陵]])を定めた。
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江戸幕府による元禄の修陵で1699年(元禄12年)、物集の御廟塚と呼ばれる塚を陵墓に擬したが、 幕末の文久の修陵では散骨の場所を考証して大原野に陵墓([[淳和天皇陵]])を定めた。
そのため、物集の塚は改めて淳和天皇の火葬塚とされた。
そのため、物集の塚は改めて淳和天皇の火葬塚とされた。
南東300mに遺骸を運んだ霊車を埋納したと伝わる車塚(物集女車塚古墳)がある。
南東300mに遺骸を運んだ霊車を埋納したと伝わる車塚(物集女車塚古墳)がある。
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File:淳和天皇火葬塚_(1).jpg|参道入口。「淳和天皇御火葬所」碑。
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File:淳和天皇火葬塚_(2).jpg|制札
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File:淳和天皇火葬塚_(3).jpg|墳丘
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File:淳和天皇火葬塚_(4).jpg|墳丘全景
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[[category:京都府]]
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2023年4月12日 (水) 時点における最新版

拝所

淳和天皇火葬塚は、京都府向日市物集女町出口(山城国乙訓郡)にある淳和天皇火葬塚。皇室治定。江戸時代の一時期にはここが淳和天皇陵とみなされていた。通称は御廟塚

天皇は遺言として散骨を指示。 840年(承和7年)5月8日崩御した。 5月13日、乙訓郡物集村で火葬し、大原野の西山の嶺の上に散骨した(続日本後紀)。 江戸幕府による元禄の修陵で1699年(元禄12年)、物集の御廟塚と呼ばれる塚を陵墓に擬したが、 幕末の文久の修陵では散骨の場所を考証して大原野に陵墓(淳和天皇陵)を定めた。 そのため、物集の塚は改めて淳和天皇の火葬塚とされた。

南東300mに遺骸を運んだ霊車を埋納したと伝わる車塚(物集女車塚古墳)がある。

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B7%B3%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E7%81%AB%E8%91%AC%E5%A1%9A」より作成

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