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播磨国分寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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敷地は約210m四方ある。昭和43年(1968)から13次にわたって発掘調査が行われた。出土瓦の様式から8世紀中頃に建造されたと推定されている。南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並ぶ伽藍配置が確認され、回廊が中門と金堂をつなぐ様式だったことが分かった。現存寺の山門の位置に金堂があり、本堂の位置に講堂があった。塔跡は、東南にあり、礎石17個がほぼ全て当時のまま置かれていた。10世紀から11世紀前半の土師器が出土し、また12世紀末まで瓦の補修が行われていたことが判明しており、この頃までは寺院が機能していたらしい。しかし、13世紀以降は側溝が埋没するなど、管理が放置され衰退していった様子が分かる。跡地北側には現存寺があるが、南側には一部の遺構が復元されている。 | 敷地は約210m四方ある。昭和43年(1968)から13次にわたって発掘調査が行われた。出土瓦の様式から8世紀中頃に建造されたと推定されている。南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並ぶ伽藍配置が確認され、回廊が中門と金堂をつなぐ様式だったことが分かった。現存寺の山門の位置に金堂があり、本堂の位置に講堂があった。塔跡は、東南にあり、礎石17個がほぼ全て当時のまま置かれていた。10世紀から11世紀前半の土師器が出土し、また12世紀末まで瓦の補修が行われていたことが判明しており、この頃までは寺院が機能していたらしい。しかし、13世紀以降は側溝が埋没するなど、管理が放置され衰退していった様子が分かる。跡地北側には現存寺があるが、南側には一部の遺構が復元されている。 | ||
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+ | [[播磨国分尼寺]]跡は、北約700mの台地にあり、同時期に建造されたとみられている。現存寺はない。 | ||
また室町時代の[[播磨安国寺]]は加東郡に、[[播磨利生塔]]は赤穂郡の[[法雲寺]]に建てられた。 | また室町時代の[[播磨安国寺]]は加東郡に、[[播磨利生塔]]は赤穂郡の[[法雲寺]]に建てられた。 |
2015年4月5日 (日) 時点における版
概要
播磨国分寺(はりま・こくぶんじ)は、播磨国飾磨郡にあった古代国分寺の一つ。跡地は、兵庫県姫路市御国野町国分寺にある現国分寺一帯に確定している。国指定史跡。
現存寺の由緒書きによると、国分寺以前から聖徳太子が建てた伽藍があったという。 播磨国府の遺構は発見されていないが、現市街地中心部にある播磨総社の射楯兵主神社周辺と言われる。国分寺の地は、そこから市川を挟んで東南約4kmに位置する。この地域は国府から少し離れているが、近隣に古墳などもあり、古代豪族の拠点だったと指摘されている。
敷地は約210m四方ある。昭和43年(1968)から13次にわたって発掘調査が行われた。出土瓦の様式から8世紀中頃に建造されたと推定されている。南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並ぶ伽藍配置が確認され、回廊が中門と金堂をつなぐ様式だったことが分かった。現存寺の山門の位置に金堂があり、本堂の位置に講堂があった。塔跡は、東南にあり、礎石17個がほぼ全て当時のまま置かれていた。10世紀から11世紀前半の土師器が出土し、また12世紀末まで瓦の補修が行われていたことが判明しており、この頃までは寺院が機能していたらしい。しかし、13世紀以降は側溝が埋没するなど、管理が放置され衰退していった様子が分かる。跡地北側には現存寺があるが、南側には一部の遺構が復元されている。
播磨国分尼寺跡は、北約700mの台地にあり、同時期に建造されたとみられている。現存寺はない。
また室町時代の播磨安国寺は加東郡に、播磨利生塔は赤穂郡の法雲寺に建てられた。
参考文献
- 姫路市埋蔵文化センター資料
- 『国分寺を歩く』