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後亀山天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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山陵の記録は存在しないが、京都嵯峨の福田寺(浄土宗)の、同寺にある五輪塔が天皇陵であるという伝承から、1754年(宝暦4年)成立の『山城名跡巡行志』において、現在地が比定された。これに基づき、文久の修陵では、五輪塔を中心に整備され、周堀と外堤が造営され、「福田寺陵」とされた。明治以降、拝所が西面から南面に付け替えられ、また陵名は、「嵯峨小倉陵」に変更された。文久山陵図227 | 山陵の記録は存在しないが、京都嵯峨の福田寺(浄土宗)の、同寺にある五輪塔が天皇陵であるという伝承から、1754年(宝暦4年)成立の『山城名跡巡行志』において、現在地が比定された。これに基づき、文久の修陵では、五輪塔を中心に整備され、周堀と外堤が造営され、「福田寺陵」とされた。明治以降、拝所が西面から南面に付け替えられ、また陵名は、「嵯峨小倉陵」に変更された。文久山陵図227 | ||
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2011年8月22日 (月) 時点における版
山陵の記録は存在しないが、京都嵯峨の福田寺(浄土宗)の、同寺にある五輪塔が天皇陵であるという伝承から、1754年(宝暦4年)成立の『山城名跡巡行志』において、現在地が比定された。これに基づき、文久の修陵では、五輪塔を中心に整備され、周堀と外堤が造営され、「福田寺陵」とされた。明治以降、拝所が西面から南面に付け替えられ、また陵名は、「嵯峨小倉陵」に変更された。文久山陵図227