ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
後七日御修法関連旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(版間での差分)
(?関連旧跡) |
(?資料) |
||
13行: | 13行: | ||
*村主恵快1977「後七日御修法の伝承」『密教学』13・14 | *村主恵快1977「後七日御修法の伝承」『密教学』13・14 | ||
*村主恵快1977「後七日御修法の伝承について」『密教思想』 | *村主恵快1977「後七日御修法の伝承について」『密教思想』 | ||
+ | *村主恵快1986「後七日御修法の実録」『東洋文化学科年報』1 | ||
*村主恵快1988「後七日御修法について(その二)」『密教学』24 | *村主恵快1988「後七日御修法について(その二)」『密教学』24 | ||
*石田尚豊1984「弘法大師と後七日御修法」『弘法大師と現代』 | *石田尚豊1984「弘法大師と後七日御修法」『弘法大師と現代』 | ||
- | *武内孝善1986「後七日御修法交名綜覧(一)」『高野山大学論叢』21 | + | *山折哲雄1985「後七日御修法と大嘗祭」『国立歴史民俗博物館研究報告』7[http://doi.org/10.15024/00000364]*武内孝善1986「後七日御修法交名綜覧(一)」『高野山大学論叢』21 |
*武内孝善1987「後七日御修法交名綜覧(二)」『高野山大学論叢』22 | *武内孝善1987「後七日御修法交名綜覧(二)」『高野山大学論叢』22 | ||
*武内孝善1988「後七日御修法交名綜覧(三)」『高野山大学論叢』23 | *武内孝善1988「後七日御修法交名綜覧(三)」『高野山大学論叢』23 | ||
27行: | 28行: | ||
*登坂高典1996「後七日御修法大阿付承仕荘厳記録」『豊山教学大会紀要』24 | *登坂高典1996「後七日御修法大阿付承仕荘厳記録」『豊山教学大会紀要』24 | ||
*田中博美2000「後七日御修法翌年記元和十寛永元改」『醍醐寺文化財研究所研究紀要』18 | *田中博美2000「後七日御修法翌年記元和十寛永元改」『醍醐寺文化財研究所研究紀要』18 | ||
+ | *水野真圓2002「後七日御修法西院聖天供次第について」『真言宗豊山派総合研究院紀要』7 | ||
*水野真圓2002「(続)後七日御修法西院聖天供次第」『豊山教学大会紀要』30 | *水野真圓2002「(続)後七日御修法西院聖天供次第」『豊山教学大会紀要』30 | ||
+ | *登坂高典2004「後七日御修法聖天壇荘厳手控え私記西院胎蔵界立」『真言宗豊山派総合研究院紀要』9 | ||
*内藤栄2005「後七日御修法における舎利の意味について」[https://doi.org/10.20588/nbs.3.0_37] | *内藤栄2005「後七日御修法における舎利の意味について」[https://doi.org/10.20588/nbs.3.0_37] | ||
+ | *内藤栄2017「空海の舎利信仰の源流 後七日御修法とスリランカの仏歯供養」『鹿園雜集 奈良国立博物館研究紀要』[http://id.nii.ac.jp/1631/00000013/] | ||
*斎木涼子2007「後七日御修法と「玉体安穏」」『南都仏教』90 | *斎木涼子2007「後七日御修法と「玉体安穏」」『南都仏教』90 | ||
+ | *戸部憲海2011「後七日御修法について」『真言宗豊山派総合研究院紀要』16 | ||
2019年1月10日 (木) 時点における版
後七日御修法
関連旧跡
資料
- 小田慈舟1940「高祖大師の鎮護国家思想とその事蹟」[1]
- 大山公淳1944「護国の仏教」[2]
- 高見寛恭・村主恵快1975「御修法について」『密教学研究』7
- 村主恵快1977「後七日御修法の伝承」『密教学』13・14
- 村主恵快1977「後七日御修法の伝承について」『密教思想』
- 村主恵快1986「後七日御修法の実録」『東洋文化学科年報』1
- 村主恵快1988「後七日御修法について(その二)」『密教学』24
- 石田尚豊1984「弘法大師と後七日御修法」『弘法大師と現代』
- 山折哲雄1985「後七日御修法と大嘗祭」『国立歴史民俗博物館研究報告』7[3]*武内孝善1986「後七日御修法交名綜覧(一)」『高野山大学論叢』21
- 武内孝善1987「後七日御修法交名綜覧(二)」『高野山大学論叢』22
- 武内孝善1988「後七日御修法交名綜覧(三)」『高野山大学論叢』23
- 武内孝善1988「後七日御修法関係典籍・文書目録(一)」『密教学会報』27
- 武内孝善1989「後七日御修法関係典籍・文書目録(二)」『密教学会報』28
- 武内孝善1990「後七日御修法関係典籍・文書目録(三)」『密教学会報』29
- 武内孝善2006「最晩年の空海」[4]
- 今井浄円1990「後七日御修法承仕出仕日記一」『龍谷大学仏教学研究室年報』4
- 今井浄円1992「後七日御修法承仕出仕日記二」『龍谷大学仏教学研究室年報』5
- 湯浅吉美1995「成田山新勝寺蔵『後七日御修法阿闍梨名帳』について」『成田山仏教研究所紀要』18
- 登坂高典1996「後七日御修法大阿付承仕荘厳記録」『豊山教学大会紀要』24
- 田中博美2000「後七日御修法翌年記元和十寛永元改」『醍醐寺文化財研究所研究紀要』18
- 水野真圓2002「後七日御修法西院聖天供次第について」『真言宗豊山派総合研究院紀要』7
- 水野真圓2002「(続)後七日御修法西院聖天供次第」『豊山教学大会紀要』30
- 登坂高典2004「後七日御修法聖天壇荘厳手控え私記西院胎蔵界立」『真言宗豊山派総合研究院紀要』9
- 内藤栄2005「後七日御修法における舎利の意味について」[5]
- 内藤栄2017「空海の舎利信仰の源流 後七日御修法とスリランカの仏歯供養」『鹿園雜集 奈良国立博物館研究紀要』[6]
- 斎木涼子2007「後七日御修法と「玉体安穏」」『南都仏教』90
- 戸部憲海2011「後七日御修法について」『真言宗豊山派総合研究院紀要』16
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』1[7]
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』2[8]
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』3[9]
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』4[10]
- 広安恭寿 1893『宮中後七日御修法沿革記』[11]
- 祖風宣揚会編1915『皇室と真言宗』[12]
- 伊藤康安1942「後七日御修法と山門四箇大法」『坐禅十年』[13]
- 吉田敏雄1902「後七日御修法の再興」『釈雲照』[14]
- 葦原寂照1901「後七日御修法」『後七日御修法』[15]
- 山本忍梁1916「宮中後七日御修法」『東寺沿革略誌』[16]
- 実運「後七日御修法」『秘蔵金宝集上』[17]
- 伊藤宏見1975「雲照律師の思想と行動」[18]