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養林庵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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当初は園家出身者により住職が継承された。 | 当初は園家出身者により住職が継承された。 | ||
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江戸時代の寺領は30石だった。 | 江戸時代の寺領は30石だった。 | ||
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+ | (『日本歴史地名大系』、『国史大辞典』、「養林庵文書について」) | ||
== 組織 == | == 組織 == |
2020年10月23日 (金) 時点における版
養林庵(ようりんあん)は京都府京都市上京区畠中町にある院家級寺院。宝鏡寺門跡に所属。元は臨済宗だが現在は曹洞宗。
目次 |
歴史
1585年の創建と伝える。 ただし『国史大辞典』には大永年間(1521-1528)に宝鏡寺の「上臈」として成立し、天文年間(1532-1555)には継孝院に上臈の地位を奪われ、「小上臈」となったとある。
当初は園家出身者により住職が継承された。
徳川家康の姪の春松院寿光が復興。 江戸時代の寺領は30石だった。 武家関係者の入寺が続き、人事などを巡り本寺の宝鏡寺とたびたび衝突した。
寂宗観光の入寺で実質的に曹洞宗となり、 1884年、臨済宗相国寺派宝鏡寺末を離れ、正式に曹洞宗に改宗し、天寧寺末となる。 (『日本歴史地名大系』、『国史大辞典』、「養林庵文書について」)
組織
住職
- 1春松院寿光(-1631)<>:中興。徳川家康の姪。母が家康の異父妹の天桂院。父は松平家清。松平忠利の正室となるが、夫の死去で出家。荒廃した養林庵の寺地を入手し再興した。
- 永松院玉清()<>:織田信長の姪。佐治信方の娘。永昌院とも。
- 2白堂祖倫(-1686)<>:玉清の孫。
- 3梅月祖俊(-1689)<>:
- 4月海祖澄(-1724)<>:綾小路猶子。
- 5如桂祖璋(-?)<1729->:清閑寺猶子。住職就任に当たって宝鏡寺と争論になるが、幕府に働き掛けて実現したらしい。
- 6真厚祖欽(-1740)<1731-1740>:山本猶子。
- 7大峰祖仙(-1758)<1740-1758>:六条猶子。
- 8白光祖雪(1727-1810)<1758-1810>:六条猶子。
- 9千巌祖松(1786-1848)<1834-1848>:六条猶子。
- 10寂宗観光(1785-1868)<1849->:曹洞宗。丹波国桑田郡出身。尾張国の微笑堂(愛知県常滑市)に住す。1868年(明治1年)11月10日死去。84歳。
- 11宗家祖田観苗(-1894)<1861->:六条猶子。
- 12天明常倫(1848-1927)<1884->:水野常倫。旧姓は清水。微笑堂で寂宗観光に師事。1884年(明治17年) 養林庵住職。1902年(明治35年)全国尼僧取締役。翌年、愛知県に尼僧学林を開く。1927年(昭和2年)5月5日死去。80歳。
- 13霊室見光(-1930)<>:
(「養林庵文書について」ほか)
資料
- 西口順子・佐藤文子2000「養林庵文書について:由緒と沿革の紹介をかねて」[1]