ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
梅津・長福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(版間での差分)
(ページの作成:「'''長福寺'''は京都府京都市右京区梅津中村町にある臨済宗寺院。本尊阿弥陀如来。臨済宗南禅寺派。山号は大梅山。 (参考...」) |
|||
1行: | 1行: | ||
- | '''長福寺'''は京都府京都市右京区梅津中村町にある[[臨済宗]] | + | '''長福寺'''は京都府京都市右京区梅津中村町にある[[臨済宗]]寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。[[臨済宗南禅寺派]]。山号は大梅山。 |
(参考:同名寺院[[長福寺]]) | (参考:同名寺院[[長福寺]]) | ||
==歴史== | ==歴史== | ||
- | 1169年(嘉応1年) | + | 1169年(嘉応1年)、真理という尼僧が創建。[[天台宗]]寺院だった。 |
1177年(治承1年)『長福寺縁起』成立。 | 1177年(治承1年)『長福寺縁起』成立。 | ||
1190年(建久1年)に別に堂を建てこれを新御堂と称した。旧来の堂は本御堂と呼ばれた。 | 1190年(建久1年)に別に堂を建てこれを新御堂と称した。旧来の堂は本御堂と呼ばれた。 | ||
1339年(延元4年/暦応2年)月林道皎(普光大幢国師)が復興し、臨済宗となる。同年に本御堂が月林道皎の管理となり、1345年(興国6年/貞和1年)に新御堂も管理化となる。 | 1339年(延元4年/暦応2年)月林道皎(普光大幢国師)が復興し、臨済宗となる。同年に本御堂が月林道皎の管理となり、1345年(興国6年/貞和1年)に新御堂も管理化となる。 | ||
- | + | 同年、[[花園上皇]]が荘園寄進。 | |
- | 1350年(正平5年/観応1年) | + | 1350年(正平5年/観応1年)[[勅願所]]となる。 |
花園天皇の御影堂が建てられた。 | 花園天皇の御影堂が建てられた。 | ||
- | + | [[光厳天皇]]妃で[[崇光天皇]]・[[後光厳天皇]]の生母の陽禄門院は長福寺に葬られた(陵墓は現存せず)。 | |
1358年(正平13年/延文3年)、崇光天皇が行幸。 | 1358年(正平13年/延文3年)、崇光天皇が行幸。 | ||
応仁の乱後は山名宗全が復興。 | 応仁の乱後は山名宗全が復興。 | ||
- | 1592年(文禄1年) | + | 1592年(文禄1年)諸山に列す。江戸時代には[[南禅寺]]末となる。朱印地350石。『長福寺文書』が各所に散逸しつつも伝わる。 |
(日本歴史地名大系、国史大辞典) | (日本歴史地名大系、国史大辞典) | ||
==塔頭== | ==塔頭== |
2020年12月23日 (水) 時点における版
長福寺は京都府京都市右京区梅津中村町にある臨済宗寺院。本尊は阿弥陀如来。臨済宗南禅寺派。山号は大梅山。 (参考:同名寺院長福寺)
歴史
1169年(嘉応1年)、真理という尼僧が創建。天台宗寺院だった。 1177年(治承1年)『長福寺縁起』成立。 1190年(建久1年)に別に堂を建てこれを新御堂と称した。旧来の堂は本御堂と呼ばれた。
1339年(延元4年/暦応2年)月林道皎(普光大幢国師)が復興し、臨済宗となる。同年に本御堂が月林道皎の管理となり、1345年(興国6年/貞和1年)に新御堂も管理化となる。 同年、花園上皇が荘園寄進。 1350年(正平5年/観応1年)勅願所となる。 花園天皇の御影堂が建てられた。 光厳天皇妃で崇光天皇・後光厳天皇の生母の陽禄門院は長福寺に葬られた(陵墓は現存せず)。 1358年(正平13年/延文3年)、崇光天皇が行幸。 応仁の乱後は山名宗全が復興。 1592年(文禄1年)諸山に列す。江戸時代には南禅寺末となる。朱印地350石。『長福寺文書』が各所に散逸しつつも伝わる。 (日本歴史地名大系、国史大辞典)
塔頭
- 清涼院:月林道皎の塔所
- 瑞篁院?
- 正法院
- 大慈院
- 瑞光院
- 蔵龍院
- 牧雲軒
- 梅南軒
- 知是軒:知足軒?
- 意春軒
- 長徳軒
- 即心軒