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名田庄・泰山府君社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年3月11日 (土)
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泰山府君社は福井県大飯郡おおい町名田庄納田終にあった[[陰陽道]]・[[土御門神道]]の神社。祭神は[[泰山府君]]。[[土御門家]]ゆかり。 | 泰山府君社は福井県大飯郡おおい町名田庄納田終にあった[[陰陽道]]・[[土御門神道]]の神社。祭神は[[泰山府君]]。[[土御門家]]ゆかり。 | ||
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+ | [[ファイル:名田庄加茂神社006.jpg|thumb|400px|泰山府君社を合祀した名田庄加茂神社]] | ||
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*永正年間、土御門有宣が屋敷地に創建 | *永正年間、土御門有宣が屋敷地に創建 | ||
- | * | + | *土御門家帰洛後は谷川家が守った。 |
- | * | + | *1854年(安政1年)願書[https://dl.ndl.go.jp/pid/9536110/1/213] |
- | * | + | *1908年(明治41年)あるいは1917年(大正6年)に[[名田庄・加茂神社]]に合祀された(わかさ名田庄村誌[https://dl.ndl.go.jp/pid/9536110/1/100]、[https://dl.ndl.go.jp/pid/2274592/1/11])。 |
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+ | [[file:名田庄泰山府君社・天壇01.jpg|thumb|500px|「天壇」と呼ばれる祭壇。詳細不明]] | ||
+ | *泰山府君社:跡地がある。名田庄・加茂神社に合祀された。旧社殿は「口坂本の神社」(末多徒神社か)に移築されたという[https://dl.ndl.go.jp/pid/9536110/1/100]。 | ||
+ | *天壇:どのような性格の祭壇なのか不詳。沿革も不詳。中国の[[天壇]]との関係も不明。 | ||
+ | *葛の葉稲荷神社 | ||
+ | *祠:不詳 | ||
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+ | *安倍晴明不動明王: | ||
+ | *[[天社土御門神道本庁]]: | ||
+ | *禅定寺跡:屋敷跡という。 | ||
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+ | file:名田庄泰山府君社・参道1.jpg|参道。鳥居に「土御門総社」の扁額がある。 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・参道2.jpg|参道 | ||
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+ | file:名田庄泰山府君社・泰山府君社跡2.jpg|泰山府君社跡 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・泰山府君社跡1.jpg|泰山府君社跡 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・天壇04.jpg|天壇 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・天壇03.jpg|天壇 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・天壇02.jpg|天壇 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・天壇01.jpg|天壇 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・葛の葉稲荷神社.jpg|葛の葉稲荷神社 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・祠2.jpg|祠 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・祠1.jpg|祠 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・境内・七福神.jpg|七福神 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・境内2.jpg|境内 | ||
+ | file:名田庄泰山府君社・境内1.jpg|境内 | ||
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==資料== | ==資料== | ||
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*木場明志1996「近代における陰陽師のゆくえ」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4437204/1/9] | *木場明志1996「近代における陰陽師のゆくえ」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4437204/1/9] | ||
*高原豊明1995「安倍晴明伝説―京の晴明伝説を中心に」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4426847/1/7] | *高原豊明1995「安倍晴明伝説―京の晴明伝説を中心に」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4426847/1/7] | ||
+ | *長谷川靖高2005『大阪安倍晴明神社関係資料集』 | ||
*仲田篤史2013「天社土御門神道の一考察―天社神道行事壇の復元」 | *仲田篤史2013「天社土御門神道の一考察―天社神道行事壇の復元」 | ||
*須川建美2019『写真集・天社土御門神道の祭り―若狭のまつり』 | *須川建美2019『写真集・天社土御門神道の祭り―若狭のまつり』 |
2023年3月11日 (土) 時点における最新版
泰山府君社は福井県大飯郡おおい町名田庄納田終にあった陰陽道・土御門神道の神社。祭神は泰山府君。土御門家ゆかり。
目次 |
歴史
- 永正年間、土御門有宣が屋敷地に創建
- 土御門家帰洛後は谷川家が守った。
- 1854年(安政1年)願書[1]
- 1908年(明治41年)あるいは1917年(大正6年)に名田庄・加茂神社に合祀された(わかさ名田庄村誌[2]、[3])。
境内
- 泰山府君社:跡地がある。名田庄・加茂神社に合祀された。旧社殿は「口坂本の神社」(末多徒神社か)に移築されたという[4]。
- 天壇:どのような性格の祭壇なのか不詳。沿革も不詳。中国の天壇との関係も不明。
- 葛の葉稲荷神社
- 祠:不詳
- 祠:不詳
- 祠:不詳
- 安倍晴明不動明王:
- 天社土御門神道本庁:
- 禅定寺跡:屋敷跡という。
資料
陰陽道#資料や土御門家#資料も参照。この欄は名田庄関連にしぼる予定。
地誌など
- 牧田近俊1693年(元禄6年)頃『若狭郡県誌』「土御門家宅跡」[5]
- 牧田近俊1693年(元禄6年)頃『若狭郡県誌』「泰山府君ノ祠」[6]
- 伴信友1837年(天保8年)『若狭国神名帳私考』「正五位善積河上明神」[7]
- 1922年(大正11年)『若狭遠敷郡誌』「加茂神社」[8]
- 1971年(昭和46年)『わかさ名田庄村誌』
文献
- 藤田義男1951『古暦の信仰―こよみの見方秘法』
- 藤田義男1970『天社土御門神道沿革概史』
- 藤田義男1970『安倍家若狭納田終在城考』
- 藤田義男1971『若狭名田荘々園の研究』
- 陰陽道額田歴代組編史委員会1957『陰陽道と額田歴代組』[19]、図「若狭名田庄に於ける土御門家の旧跡」[20]
- 1973『若狭土御門霊場付近の神々』
- 1986『市町村で見る福井県の歴史』「暦のふる里」[21]
- 山本信哉1912「土御門神道1」[22]
- 山本信哉1912「土御門神道2」[23]
- 山本信哉1912「土御門神道3」[24]
- 山本信哉1912「土御門神道4」[25]
- 山本信哉1913「土御門神道5」[26]
- 山上伊豆母1961「陰陽道の伝流と土御門「歴代組」の一考察」[27]
- 和島芳男1969「高岡本孟子抄について下」[28]
- 西田長男1976「明治維新政府の宗教改革」[29]
- 岩佐貫三1979「土御門家・天曹地府祭の性格と実態」[30]
- 遠藤克己1987「陰陽道祭についての一考察―若杉文書を中心として」[31]
- 木場明志1992「明治以降の土御門系陰陽師」[32]
- 木場明志1996「近代における陰陽師のゆくえ」[33]
- 高原豊明1995「安倍晴明伝説―京の晴明伝説を中心に」[34]
- 長谷川靖高2005『大阪安倍晴明神社関係資料集』
- 仲田篤史2013「天社土御門神道の一考察―天社神道行事壇の復元」
- 須川建美2019『写真集・天社土御門神道の祭り―若狭のまつり』
- 菊地卓「「土御門神道」と晃麓の神職たち」『鹿沼史林』42