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神嘉殿
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*1740年11月24日、新嘗祭復興。[[紫宸殿]]を神嘉殿代とした。この時、古例と異なり、桜町天皇の強い意志で荒妙と和妙が神座のそばに供えられたという。 | *1740年11月24日、新嘗祭復興。[[紫宸殿]]を神嘉殿代とした。この時、古例と異なり、桜町天皇の強い意志で荒妙と和妙が神座のそばに供えられたという。 | ||
*1749年11月22日、新嘗祭。[[桃園天皇]]は幼少のため行幸なく内侍が参向した。この時は荒妙和妙は設けられなかった。 | *1749年11月22日、新嘗祭。[[桃園天皇]]は幼少のため行幸なく内侍が参向した。この時は荒妙和妙は設けられなかった。 | ||
- | *1791年(寛政3年) | + | *1791年(寛政3年)、光格天皇、神嘉殿を再興。この時はこけら葺きだった。 |
*1854年(安政1年)焼失。 | *1854年(安政1年)焼失。 | ||
- | * | + | *1855年、再建。この時、檜皮葺となる。 |
*東京遷都後は1872年(明治5年)に皇居の山里に造営したが火災で焼失。しばらく御殿がなかった。 | *東京遷都後は1872年(明治5年)に皇居の山里に造営したが火災で焼失。しばらく御殿がなかった。 | ||
*1889年(明治22年)に宮中三殿と共に現在地に設けられた。 | *1889年(明治22年)に宮中三殿と共に現在地に設けられた。 | ||
*1889年、[[明治天皇]]、[[橿原神宮]]造営のために[[京都御所]]神嘉殿を下賜。 | *1889年、[[明治天皇]]、[[橿原神宮]]造営のために[[京都御所]]神嘉殿を下賜。 | ||
- | == | + | ==造営と旧殿== |
*石上神宮拝殿 | *石上神宮拝殿 | ||
- | * | + | *寛政神嘉殿:1791年(寛政3年)竣工。1854年(安政1年)焼失。 |
+ | *安政神嘉殿:1855年竣工。東京遷都で神嘉殿の機能を失う。1889年、新たに造営される橿原神宮の拝殿として下賜。橿原神宮の昭和の大造営で、旧神嘉殿は神楽殿となる。神楽殿は失火で焼失。 | ||
+ | *明治神嘉殿:1872年(明治5年)に皇居の山里に造営したが火災で焼失。 | ||
+ | *[[宮中三殿・神嘉殿]]:1889年(明治22年)に宮中三殿と共に現在地に設けられた。 | ||
+ | *橿原神宮神楽殿:復元 | ||
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2022年5月20日 (金) 時点における版
神嘉殿は天皇が新嘗祭を執り行う神殿。現在は皇居の宮中三殿に付属する。 古代は中和院の正殿。
- 平安宮において初めて設置されたと推測され、日本後紀804年8月に暴風雨で中和院西楼が倒れたとあるので、この時点までには神嘉殿も成立していたのだろうとされる。
- 1081年、白河天皇、神嘉殿を石上神宮に移築。
- 1463年、この年を最後に新嘗祭中絶。
- 1737年、朝廷この頃から新嘗祭再興に動き出す。幕府と折衝。関白一条兼香が尽力。
- 1738年、桜町天皇、大嘗祭。
- 1740年11月24日、新嘗祭復興。紫宸殿を神嘉殿代とした。この時、古例と異なり、桜町天皇の強い意志で荒妙と和妙が神座のそばに供えられたという。
- 1749年11月22日、新嘗祭。桃園天皇は幼少のため行幸なく内侍が参向した。この時は荒妙和妙は設けられなかった。
- 1791年(寛政3年)、光格天皇、神嘉殿を再興。この時はこけら葺きだった。
- 1854年(安政1年)焼失。
- 1855年、再建。この時、檜皮葺となる。
- 東京遷都後は1872年(明治5年)に皇居の山里に造営したが火災で焼失。しばらく御殿がなかった。
- 1889年(明治22年)に宮中三殿と共に現在地に設けられた。
- 1889年、明治天皇、橿原神宮造営のために京都御所神嘉殿を下賜。
造営と旧殿
- 石上神宮拝殿
- 寛政神嘉殿:1791年(寛政3年)竣工。1854年(安政1年)焼失。
- 安政神嘉殿:1855年竣工。東京遷都で神嘉殿の機能を失う。1889年、新たに造営される橿原神宮の拝殿として下賜。橿原神宮の昭和の大造営で、旧神嘉殿は神楽殿となる。神楽殿は失火で焼失。
- 明治神嘉殿:1872年(明治5年)に皇居の山里に造営したが火災で焼失。
- 宮中三殿・神嘉殿:1889年(明治22年)に宮中三殿と共に現在地に設けられた。
- 橿原神宮神楽殿:復元