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山口護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''山口護国神社'''は兵庫県朝来市山口にある[[招魂社]]。[[官祭招魂社]]。'''山口招魂社'''。 | '''山口護国神社'''は兵庫県朝来市山口にある[[招魂社]]。[[官祭招魂社]]。'''山口招魂社'''。 | ||
- | *1868年(明治1年) | + | ==歴史== |
- | * | + | *1863年(文久3年)10月12日:福岡藩士平野国臣と鹿児島藩士美玉三平らが沢宣嘉を奉じて天誅組に応じて挙兵。生野代官所を占拠した。 |
+ | *1863年(文久3年)10月13日:沢宣嘉が本陣を脱出。 | ||
+ | *1863年(文久3年)10月14日:壊滅 | ||
+ | *1868年(明治1年)1月:山口招魂社を創建(靖国神社誌)(会通雑誌では2月)。河上弥市、戸原卯橘ら17柱を祀る。山陰道鎮撫総督の西園寺公望がこの地に巡視した際に地元の有志が創立したという(随在天神[https://dl.ndl.go.jp/pid/3545826/1/13])。 | ||
+ | *1887年(明治20年)4月:山口村民、祭神に平野国臣ら13柱を合祀し、元の祭神と合わせて官祭招魂社への編入を請願(会通雑誌)。あるいは15柱とも(随在天神)。 | ||
+ | *1888年(明治21年)9月19日:官祭招魂社に編入(兵庫県訓令488号[https://dl.ndl.go.jp/pid/797614/1/58]。1889年(明治22年)とあるのは誤記とみられる)。平野国臣ら13柱は私祭祭神として許可(会通雑誌[https://dl.ndl.go.jp/pid/3545267/1/4])。毎年金39円25銭を祭祀料として下付。 | ||
+ | *1888年(明治21年)10月14日:例祭。兵庫県知事代理として郡長が参拝(会通雑誌)。 | ||
+ | *1889年(明治22年)11月9日:兵庫県、私祭祭神に出石藩の高橋甲太郎と尾張の三牧庄蔵を合祀することを許可し、この日官報で告知する[https://dl.ndl.go.jp/pid/2945160/1/2]。 | ||
*1890年(明治23年)4月1日:受持神官を設置し、招魂社費と招魂社営繕費を支給することを通達。兵庫県訓令庶甲1214号・甲1215号[https://dl.ndl.go.jp/pid/797614/1/58][https://dl.ndl.go.jp/pid/797614/1/59] | *1890年(明治23年)4月1日:受持神官を設置し、招魂社費と招魂社営繕費を支給することを通達。兵庫県訓令庶甲1214号・甲1215号[https://dl.ndl.go.jp/pid/797614/1/58][https://dl.ndl.go.jp/pid/797614/1/59] | ||
+ | *某年:靖国神社合祀を申請 | ||
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2023年7月1日 (土) 時点における版
山口護国神社は兵庫県朝来市山口にある招魂社。官祭招魂社。山口招魂社。
歴史
- 1863年(文久3年)10月12日:福岡藩士平野国臣と鹿児島藩士美玉三平らが沢宣嘉を奉じて天誅組に応じて挙兵。生野代官所を占拠した。
- 1863年(文久3年)10月13日:沢宣嘉が本陣を脱出。
- 1863年(文久3年)10月14日:壊滅
- 1868年(明治1年)1月:山口招魂社を創建(靖国神社誌)(会通雑誌では2月)。河上弥市、戸原卯橘ら17柱を祀る。山陰道鎮撫総督の西園寺公望がこの地に巡視した際に地元の有志が創立したという(随在天神[1])。
- 1887年(明治20年)4月:山口村民、祭神に平野国臣ら13柱を合祀し、元の祭神と合わせて官祭招魂社への編入を請願(会通雑誌)。あるいは15柱とも(随在天神)。
- 1888年(明治21年)9月19日:官祭招魂社に編入(兵庫県訓令488号[2]。1889年(明治22年)とあるのは誤記とみられる)。平野国臣ら13柱は私祭祭神として許可(会通雑誌[3])。毎年金39円25銭を祭祀料として下付。
- 1888年(明治21年)10月14日:例祭。兵庫県知事代理として郡長が参拝(会通雑誌)。
- 1889年(明治22年)11月9日:兵庫県、私祭祭神に出石藩の高橋甲太郎と尾張の三牧庄蔵を合祀することを許可し、この日官報で告知する[4]。
- 1890年(明治23年)4月1日:受持神官を設置し、招魂社費と招魂社営繕費を支給することを通達。兵庫県訓令庶甲1214号・甲1215号[5][6]
- 某年:靖国神社合祀を申請