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山口護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年7月5日 (水)

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山口護国神社は兵庫県朝来市山口(但馬国朝来郡)にある招魂社。生野義挙(生野の変、生野事変)の殉難志士32柱を祀る。最初は墓碑のみで社殿が設けられたのは大正時代のようだ。官祭招魂社指定外護国神社山口招魂社

目次

祭神

  • 典拠は『振武余光』[1]と『随在天神』[2]。順番は『振武余光』に従った。
  • 官祭祭神17柱と私祭祭神15柱の32柱を祀る。生野義挙関連以外の合祀はされていないようだ。3柱は靖国神社合祀が確認できない。
  • 遺体と首級が共に山伏岩の裏に埋葬された人物のみが官祭祭神となったようだ。中島太郎兵衛もこの地に埋葬されたはずだが、首級は生家の近くの墓に埋葬された。
  • 山口藩関係が10柱を占める。農民出身が7柱。
  • 32柱のほか、河上弥市の従者の「徳蔵」という人物が生野義挙関係の殉難者とされており、靖国神社に合祀されているが(1888年(明治21年)5月5日[3])、山口護国神社への合祀は確認できない。
  • 贈位の最高位は贈正四位の平野国臣。贈従四位は官祭祭神で河上弥市、戸原卯橘、美玉三平、私祭で中島太郎兵衛、多田弥太郎の計5人。
一般名 生没年 靖国神社合祀 他の招魂社 官修墳墓 贈位 略歴
官1 河上弥市 1843-1863 1888年(明治21年)5月5日[4] 桜山神社 贈従四位 山口藩士。山伏岩で自刃。変名は南八郎。『振武余光』では「河上弥一」とあり、『随在天神』では「河上弥一正義」とある。
官2 戸原卯橘 1835-1863 1891年(明治24年)11月5日[5] 贈従四位 秋月藩士。山伏岩で自刃。1868年(明治1年)9月、白川家から「伊蘇志神霊」の諡号[6]。『振武余光』では「戸原卯橘」とあり、『随在天神』では「戸原卯橘継明」とある。
官3 長野熊之允 1842-1863 1888年(明治21年)5月5日か[7] 贈従五位 山口藩士。山伏岩で自刃。長野熊之丞。『振武余光』では「長野熊之允」とあり、『随在天神』では「長野熊之允正明」とある。
官4 下瀬熊之進 1843-1863 1888年(明治21年)5月5日[8] 贈従五位 山口藩士。山伏岩で自刃。『振武余光』では「下瀬熊之進」とあり、『随在天神』では「下瀬熊之進頼高」とある。
官5 小田村信之進 1838-1863 1888年(明治21年)5月5日か[9] 贈従五位 周防出身。山伏岩で自刃。『振武余光』では「小田村信之進」とあり、『随在天神』では「小田村信之進敬」とある。
官6 伊藤百合五郎 1845-1863 1891年(明治24年)11月5日[10] 贈従五位 山口藩の奇兵隊士。山伏岩で自刃。『振武余光』では「伊藤百合五郎」とあり、『随在天神』では「伊藤百合五郎定徳」とある。
官7 白石廉作 1828-1863 1888年(明治21年)5月5日[11] 桜山神社 贈正五位 奇兵隊士。白石正一郎の弟。山伏岩で自刃。『振武余光』では「白石廉作」とあり、『随在天神』では「白石廉作資敏」とある。
官8 井関英太郎 1846-1863 1888年(明治21年)5月5日[12] 贈従五位 山口藩の奇兵隊士。山伏岩で自刃。『振武余光』では「井関英太郎」とあり、『随在天神』では「山県英太郎忠国」とある。
官9 久富豊 1844-1863 1888年(明治21年)5月5日か[13] 贈従五位 山口藩の奇兵隊士。山伏岩で自刃。変名は久留惣介、久留惣兵衛。『振武余光』では「久富豊」とあり、『随在天神』では「久富豊通融」とある。
官10 和田小伝次 1835-1863 1888年(明治21年)5月5日[14] 贈従五位 山口藩の奇兵隊士。山伏岩で自刃。『振武余光』では「和田小伝次」とあり、『随在天神』では「和田小伝次唯之」とある。
官11 氷田左衛門 ?-1863 確認できず なし 出身は薩摩とも、京都とも、河内ともいう。山伏岩で自刃。『振武余光』『随在天神』とも「氷田左衛門」とある。「肥田左衛門」とも。
官12 西村清太郎 1846-1863 1888年(明治21年)5月5日[15] 贈従五位 山口藩の奇兵隊士。山伏岩で自刃。『振武余光』では「西村清太郎」とあり、『随在天神』では「西村清太郎則義」とある。
官13 草我部某 ?-1863 1891年(明治24年)11月5日[16] なし 出身は和歌山とも水戸ともいう。山伏岩で自刃。『振武余光』『随在天神』とも「草我部某」とある。
官14 小河吉三郎 1837-1863 1889年(明治22年)5月5日[17] 贈従五位 水戸藩士。江戸で1860年(万延1年)林忠左衛門らと共に鹿児島藩邸で攘夷を訴えるが水戸に送還。変名は大川藤蔵。朝来市山内の殉難地に記念碑。『振武余光』では「小河吉三郎」とあり、『随在天神』では「小川吉三郎」とある。
官15 中条右京 1843-1863 1891年(明治24年)11月5日[18][19] 贈従五位 出石藩士の子。姉小路公知に仕える。没地の神河町猪篠に記念碑。『振武余光』では「中条右京」とあり、『随在天神』では「中条右京基好」とある。
官16 長曽我部太七郎 ?-1863 1891年(明治24年)11月5日[20] なし 徳島藩士。没地の神河町猪篠に記念碑。『振武余光』『随在天神』とも「長曽我部太七郎」とある。
官17 美玉三平 1822-1863 1891年(明治24年)11月5日[21] 贈従四位 鹿児島藩士。寺田屋事件に連座して藩邸に幽閉されたが脱出。生野義挙に参加。没地に記念碑。『振武余光』では「美玉三平」とあり、『随在天神』では「美玉三平親輔」とある。
私1 平野国臣 1828-1864 1891年(明治24年)11月5日[22] 贈正四位 福岡藩士。禁門の変の混乱に乗じて六角獄舎で殺害された。捕縛の地に記念碑。福岡・平野神社祭神。『振武余光』では「平野次郎」とあり、『随在天神』では「平野次郎国臣」とある。
私2 横田友次郎 1834-1864 1891年(明治24年)11月5日[23] 霊山官修墳墓唱義7号 贈正五位 鳥取藩士。禁門の変の混乱に乗じて六角獄舎で殺害された。捕縛の地に記念碑。『振武余光』では「横田友次郎」とあり、『随在天神』では「横田友次郎靖之」とある。
私3 川又左一郎 1817-1863 1889年(明治22年)5月5日[24] 贈従五位 水戸藩士。11月23日、出石で獄死。『振武余光』では「川俣左一郎」とあり、『随在天神』では「川俟左一郎」とある。
私4 大村辰之助 ?-1863 1888年(明治21年)5月5日[25] 霊山官修墳墓唱義7号 なし 出身は山口とも鳥取とも。1864年(元治1年)7月20日、六角獄舎で刑死。『振武余光』『随在天神』とも「大村辰之助」とある。
私5 片山九市 1828-1864 1891年(明治24年)11月5日[26] 霊山官修墳墓唱義7号 贈従五位 氷上郡黒井村の庄屋の家の出身。1864年(元治1年)7月19日、六角獄舎で刑死。 『振武余光』では「木村愛之助」とあり、『随在天神』では「千賀九左衛門」とある(共に変名)。
私6 伊藤龍太郎 1835-1867 1891年(明治24年)11月5日[27] 霊山官修墳墓唱義7号 贈従五位 丹波国氷上郡の豪農。水戸藩校弘道館の教授。1867年(慶応3年)11月18日、京都で獄死。『振武余光』では「伊藤良太郎」とあり、『随在天神』では「伊藤龍太郎祐之」とある。
私7 本多小太郎 1820-1864 1891年(明治24年)11月5日[28] 霊山官修墳墓唱義16号 贈正五位 膳所藩士。失態を犯して士籍を削除され、虚無僧となる。六角獄舎で獄死。本多素行。『振武余光』では「本田小太郎」とあり、『随在天神』では「山元吉之允英郁」とある。
私8 太田六右衛門 1823-1865 1891年(明治24年)11月5日[29] 霊山官修墳墓唱義16号 贈従五位 朝来郡竹田町の庄屋。出石藩兵に捕縛。1865年(慶応1年)4月24日京都で獄死。『振武余光』では「太田六右衛門」とあり、『随在天神』では「太田六右衛門雅義」とある。
私9 中島太郎兵衛 1825-1863 1891年(明治24年)11月5日[30] 贈従四位 養父郡の大庄屋の家の出身。足代弘訓に国学を学ぶ。10月14日自刃。没地に記念碑。生家近くに墓。『振武余光』では「中島太郎兵衛」とあり、『随在天神』では「中島太郎兵衛重孝」とある。
私10 黒田与一郎 1834-1866 1891年(明治24年)11月5日[31] 霊山官修墳墓唱義7号 贈正五位 中島太郎兵衛の弟。江戸で贄善右衛門に槍術を学び大坂で道場を開いていた。兄の自刃を介錯。1866年(慶応2年)12月19日獄死。墓は兄と共にある。『振武余光』では「黒田与一郎」とあり、『随在天神』では「黒田与一郎重一」とある。
私11 多田弥太郎 1826-1864 1889年(明治22年)11月5日か[32] 贈従四位 出石藩士。8年間幽閉される。敗走して1864年(元治1年)2月28日殺害された。浅間坂に記念碑[33]。『振武余光』では「多田弥太郎」とあり、『随在天神』では「多田弥太郎立徳」とある。
私12 西村哲二郎 1844-1866 確認できず 贈従五位 但馬の郷士。挙兵に間に合わなかった。第二次長州征伐で徳山集義隊に参加。隊長と対立。1866年(慶応2年)7月27日、周防富田の建笑院で自刃。変名は太田二郎。『振武余光』では「西村哲次郎」とあり、『随在天神』では「西村哲次郎正哲」とある。
私13 小山六郎 1835-1871 確認できず 贈従五位 朝来郡の農家。長門に逃れ遊撃隊に所属。のち帰郷。1871年(明治4年)12月24日、政府批判の上表文を残して自決。楽音寺に記念碑[34]。墓碑銘[35]。『振武余光』では「小山六左衛門」とあり、『随在天神』では「小山六郎喜昌」とある。
私14 高橋甲太郎 1824-1867 1891年(明治24年)11月5日[36] 贈正五位 出石藩士。第二次長州征伐で負傷して、1867年(慶応3年)3月2日死去。『振武余光』では「高橋甲太郎」とあり、『随在天神』では「高橋甲太郎重健」とある。
私15 三牧謙蔵 1839-1865 1891年(明治24年)9月17日[37] 霊山官修墳墓唱義7号 なし 尾張国海西郡の農民。江戸で出家するが還俗。1865年(慶応1年)1月、六角獄舎で病死。三牧謙助秀胤。『振武余光』では「三牧庄蔵」とあり、『随在天神』では「江上庄蔵秀胤」とある。

歴史

  • 1863年(文久3年)9月25日:養父神社で美玉三平と本田小太郎が会合。
  • 1863年(文久3年)10月12日:福岡藩士平野国臣と鹿児島藩士美玉三平らが沢宣嘉を奉じて天誅組に応じて挙兵。生野代官所を占拠した。
  • 1863年(文久3年)10月13日:13人は西念寺に入る。沢宣嘉が本陣を脱出。妙見山の妙見堂に17人が名前を残す。
  • 1863年(文久3年)10月14日:壊滅。妙見山の麓の山伏岩で13人が自刃。5人も各地で自刃戦死。18人の首級は出石藩が回収し、和田山村の陣所に置かれる。平野国臣と横田友次郎は捕縛された。
  • 1863年(文久3年)10月15日:18人の首級、生野代官の川上猪太郎の陣中に送られ、のち生野獄庭に埋められる。
  • 1864年(元治1年)7月20日:禁門の変に乗じて平野国臣、横田友次郎、大村辰之助、本田小太郎が殺害された。前日にも片山九市が刑死。
  • 1868年(明治1年)2月8日:村民有志、山伏岩の自刃の地に17人の首級(地元出身の中島太郎兵衛は遺族の願いにより家の墓に埋葬)を葬り、「殉節忠士之墓」を建立。拝殿を建てて祭典を行ったという(振武余光[38])。これをもって山口招魂社の創立としているようだ(靖国神社誌では1月)。河上弥市、戸原卯橘ら17柱を祀る。山陰道鎮撫総督の西園寺公望がこの地に巡視した際に地元の有志が創立(随在天神[39])。墓碑銘を西園寺公望が揮毫した。
  • 1868年(明治1年)6月:「殉節忠士之墓誌銘」碑を建立。折田年秀が撰文。
  • 1868年(明治1年)9月:白川家から戸原卯橘に「伊蘇志神霊」の諡号[40]
  • 1887年(明治20年)4月:山口村民、祭神に平野国臣ら13柱を合祀し、元の祭神と合わせて官祭招魂社への編入を請願(振武余光、会通雑誌)。あるいは15柱とも(随在天神)。
  • 1888年(明治21年)7月25日:内務省から17人は官祭、13人は私祭とする旨が達せられる(振武余光)。
  • 1888年(明治21年)9月19日:官祭招魂社に編入(兵庫県訓令488号[41]。1889年(明治22年)とあるのは誤記とみられる)。平野国臣ら13柱は私祭祭神として許可(会通雑誌[42])。毎年金39円25銭を祭祀料として下付。『校補但馬考』に「明治二十一年詔して碑を官祭招魂社に列し」[43]とあるので、この時点では墓碑しかなかったのかもしれない。
  • 1888年(明治21年)10月14日:例祭。兵庫県知事代理として郡長が参拝(会通雑誌)。
  • 1889年(明治22年)10月18日:兵庫県、私祭祭神に出石藩の高橋甲太郎と尾張の三牧庄蔵を合祀することを許可(振武余光[44]、11月9日官報で告知[45])。
  • 1890年(明治23年)4月1日:受持神官を設置し、招魂社費と招魂社営繕費を支給することを通達。兵庫県訓令庶甲1214号・甲1215号[46][47]
  • 1893年(明治26年)11月10日:山田顕義、山口招魂社参拝[48]。直後に鉱山で転落して死去。
  • 1915年(大正4年)10月:「山口招魂祠碑」建立。この時に初めて社殿を設けたか。
  • 1939年(昭和14年)4月:護国神社制度施行により山口護国神社と改称。指定外護国神社となる。
  • 1940年(昭和15年):生野代官所跡に「生野義挙阯」碑建立。
  • 1963年(昭和38年)11月10日:兵庫県神社庁などの主催で100年祭[49]

境内

  • 社殿
  • 「殉節忠士之墓」
  • 「殉節忠士之墓誌銘」
  • 祭神名碑
  • 山伏岩:「正義十三士自尽之址」碑
  • 「正義十七士之神霊」碑
  • 「征清紀念碑」

資料

  • 1891「義士合祭」『随在天神』182[50]
  • 1903『朝来志』「招魂社」[51]
  • 1904『振武余光』[52]
  • 1904『振武余光』「官祭招魂社」[53]
  • 桜井良翰1922『校補但馬考』「山口招魂社」[54]
  • 木村発1924『生野挙兵始末』「生野一挙志士氏名」[55]
  • 馬場尚1928「生野銀山勤王三十二烈士」[56]
  • 武藤正行1944『勤皇家戸原卯橘』官祭祭神一覧[57]
  • 宿南保1979『但馬史』「生野の変」[58]
  • 1984『靖国神社百年史』「山口護国神社」[59]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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