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中正寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2015年3月6日 (金)
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- | '''中正寺'''(ちゅうしょうじ)は、群馬県多野郡上野村の[[三笠山]]登山口近くにある、[[木曽御嶽信仰]]関連の[[天台宗]]寺院。[[普寛]]直弟子の'''寛鈴坊''' | + | '''中正寺'''(ちゅうしょうじ)は、群馬県多野郡上野村の[[三笠山]]登山口近くにある、[[木曽御嶽信仰]]関連の[[天台宗]]寺院。[[普寛]]直弟子の'''寛鈴坊'''がいた。木曽御嶽信仰において、三笠山を発祥とする'''三笠山大神'''は、御嶽三神の一神で、その成立に寛鈴坊は、重要な役割を果たした可能性がある。上野国甘楽郡。[[天台宗延暦寺派]]。'''中越山中正寺'''。 |
延長年間に[[比叡山]]東塔北谷の円忍坊実仙が盧舎那仏を背負ってきて、仏堂を建立したのが始まり。1512年(永正9年)洪水で流出したが、天正年間に順海が復興した。現在の本堂は1882年(明治15年)に造営したものだという。寛鈴坊は天台宗系の[[御嶽講]]の元祖となる。毎年4月17日(近年は五月連休)に「中正寺の火渡り」(上野村無形民俗文化財)が行われており、「三笠山の火渡り」として知られている。(『群馬県多野郡誌』) | 延長年間に[[比叡山]]東塔北谷の円忍坊実仙が盧舎那仏を背負ってきて、仏堂を建立したのが始まり。1512年(永正9年)洪水で流出したが、天正年間に順海が復興した。現在の本堂は1882年(明治15年)に造営したものだという。寛鈴坊は天台宗系の[[御嶽講]]の元祖となる。毎年4月17日(近年は五月連休)に「中正寺の火渡り」(上野村無形民俗文化財)が行われており、「三笠山の火渡り」として知られている。(『群馬県多野郡誌』) |
2015年3月6日 (金) 時点における最新版
中正寺 ちゅうしょうじ | |
概要 | |
奉斎 | |
所在地 | 群馬県多野郡上野村楢原146 |
所在地(旧国郡) | 上野国甘楽郡 |
所属(現在) | 天台宗延暦寺派 |
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目次 |
概要
中正寺(ちゅうしょうじ)は、群馬県多野郡上野村の三笠山登山口近くにある、木曽御嶽信仰関連の天台宗寺院。普寛直弟子の寛鈴坊がいた。木曽御嶽信仰において、三笠山を発祥とする三笠山大神は、御嶽三神の一神で、その成立に寛鈴坊は、重要な役割を果たした可能性がある。上野国甘楽郡。天台宗延暦寺派。中越山中正寺。
延長年間に比叡山東塔北谷の円忍坊実仙が盧舎那仏を背負ってきて、仏堂を建立したのが始まり。1512年(永正9年)洪水で流出したが、天正年間に順海が復興した。現在の本堂は1882年(明治15年)に造営したものだという。寛鈴坊は天台宗系の御嶽講の元祖となる。毎年4月17日(近年は五月連休)に「中正寺の火渡り」(上野村無形民俗文化財)が行われており、「三笠山の火渡り」として知られている。(『群馬県多野郡誌』)
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