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後七日御修法関連旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*『建保三年乙亥後七日御修法胎蔵界私記』:1215年(建保3年)の記録。『続群書類従』25下に所収。 | *『建保三年乙亥後七日御修法胎蔵界私記』:1215年(建保3年)の記録。『続群書類従』25下に所収。 | ||
*『禅信僧正後七日修法記』:1433年(永享5年)の記録か。『続群書類従』25下に所収。 | *『禅信僧正後七日修法記』:1433年(永享5年)の記録か。『続群書類従』25下に所収。 | ||
+ | *『義演准后日記』:醍醐寺義演による近世の復興の記録が記されている。 | ||
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2019年1月10日 (木) 時点における版
後七日御修法(ごしちにちみしほ)。勅会。
目次 |
歴史
空海は御修法を行う上奏文を提出し、834年(承和1年)12月、勅許を得る。835年(承和2年)1月8日に初めて行った。会場は勘解由使庁を改造して真言院とした。空海は同年死去。1353年(正平8年/文和2年)の真言院廃滅の後は、明治初年まで紫宸殿が道場となった。南北朝時代に百数十年中断。近世、醍醐寺義演の働き掛けで復興。1871年(明治4年)廃絶するが、1883年(明治16年)1月8日、東寺灌頂院を道場として復興した。
勧修寺流金剛界立と西院流胎蔵界立を交互に行う。
現在、清涼殿の二間観音の祭祀が継承され、1月12日に観音供が行われる。
関連旧跡
資料
古典籍
- 『御質抄』:後七日御修法の記録。『続群書類従』25下に所収。
- 『後七日御修法由緒作法』:『続群書類従』25下に所収。
- 『後七日御修法部類』:『続群書類従』25下に所収。
- 『永治二年真言院御修法記』:1142年(康治1年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
- 『養和二年後七日御修法記』:1182年(寿永1年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
- 『文治五年己酉真言院御修法胎蔵界日記』:1189年(文治5年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
- 『建保三年乙亥後七日御修法胎蔵界私記』:1215年(建保3年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
- 『禅信僧正後七日修法記』:1433年(永享5年)の記録か。『続群書類従』25下に所収。
- 『義演准后日記』:醍醐寺義演による近世の復興の記録が記されている。
文献
- 小田慈舟1940「高祖大師の鎮護国家思想とその事蹟」[1]
- 大山公淳1944「護国の仏教」[2]
- 高見寛恭・村主恵快1975「御修法について」『密教学研究』7
- 村主恵快1977「後七日御修法の伝承」『密教学』13・14
- 村主恵快1977「後七日御修法の伝承について」『密教思想』
- 村主恵快1986「後七日御修法の実録」『東洋文化学科年報』1
- 村主恵快1988「後七日御修法について(その二)」『密教学』24
- 石田尚豊1984「弘法大師と後七日御修法」『弘法大師と現代』
- 山折哲雄1985「後七日御修法と大嘗祭」『国立歴史民俗博物館研究報告』7[3]*武内孝善1986「後七日御修法交名綜覧(一)」『高野山大学論叢』21
- 武内孝善1987「後七日御修法交名綜覧(二)」『高野山大学論叢』22
- 武内孝善1988「後七日御修法交名綜覧(三)」『高野山大学論叢』23
- 武内孝善1988「後七日御修法関係典籍・文書目録(一)」『密教学会報』27
- 武内孝善1989「後七日御修法関係典籍・文書目録(二)」『密教学会報』28
- 武内孝善1990「後七日御修法関係典籍・文書目録(三)」『密教学会報』29
- 武内孝善2006「最晩年の空海」[4]
- 今井浄円1990「後七日御修法承仕出仕日記一」『龍谷大学仏教学研究室年報』4
- 今井浄円1992「後七日御修法承仕出仕日記二」『龍谷大学仏教学研究室年報』5
- 湯浅吉美1995「成田山新勝寺蔵『後七日御修法阿闍梨名帳』について」『成田山仏教研究所紀要』18
- 登坂高典1996「後七日御修法大阿付承仕荘厳記録」『豊山教学大会紀要』24
- 田中博美2000「後七日御修法翌年記元和十寛永元改」『醍醐寺文化財研究所研究紀要』18
- 水野真圓2002「後七日御修法西院聖天供次第について」『真言宗豊山派総合研究院紀要』7
- 水野真圓2002「(続)後七日御修法西院聖天供次第」『豊山教学大会紀要』30
- 登坂高典2004「後七日御修法聖天壇荘厳手控え私記西院胎蔵界立」『真言宗豊山派総合研究院紀要』9
- 内藤栄2005「後七日御修法における舎利の意味について」[5]
- 内藤栄2017「空海の舎利信仰の源流 後七日御修法とスリランカの仏歯供養」『鹿園雜集 奈良国立博物館研究紀要』[6]
- 斎木涼子2007「後七日御修法と「玉体安穏」」『南都仏教』90
- 斎木涼子2009「平安時代の宮中宗教儀礼と天皇像」要旨[7]
- 戸部憲海2011「後七日御修法について」『真言宗豊山派総合研究院紀要』16
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』1[8]
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』2[9]
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』3[10]
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』4[11]
- 広安恭寿 1893『宮中後七日御修法沿革記』[12]
- 祖風宣揚会編1915『皇室と真言宗』[13]
- 伊藤康安1942「後七日御修法と山門四箇大法」『坐禅十年』[14]
- 吉田敏雄1902「後七日御修法の再興」『釈雲照』[15]
- 葦原寂照1901「後七日御修法」『後七日御修法』[16]
- 山本忍梁1916「宮中後七日御修法」『東寺沿革略誌』[17]
- 実運「後七日御修法」『秘蔵金宝集上』[18]
- 伊藤宏見1975「雲照律師の思想と行動」[19]