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金原寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月13日 (水)
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'''金原寺'''は、[[平安京]]近郊の山城国乙訓郡金原(京都府長岡京市金ケ原金原寺)にあった[[土御門天皇]]の菩提寺。承久の乱後、天皇は、父帝が配流されたのに自分が京都に留まるのは忍びないとして自ら進んで土佐、そして阿波に流された。1231年(寛喜3年)10月11日に崩御して、阿波で[[土御門天皇火葬塚|火葬]]されるが、遺骨は京都に帰還し、1233年(天福1年)12月12日、この地に埋葬されたという。母の承明門院は、陵に'''金原法華堂'''('''金原御堂''')を建立し、のち堂宇管理のために金原寺が設置されたという。しかし、江戸時代には荒廃していた。文久の修陵のときに寺跡の石塚を御堂跡と断定し[[土御門天皇陵]]と定められた。近くの地蔵院は金原寺の別院といい、本尊[[阿弥陀如来]]像に「本山金原寺当仏」との墨書が残る。 | '''金原寺'''は、[[平安京]]近郊の山城国乙訓郡金原(京都府長岡京市金ケ原金原寺)にあった[[土御門天皇]]の菩提寺。承久の乱後、天皇は、父帝が配流されたのに自分が京都に留まるのは忍びないとして自ら進んで土佐、そして阿波に流された。1231年(寛喜3年)10月11日に崩御して、阿波で[[土御門天皇火葬塚|火葬]]されるが、遺骨は京都に帰還し、1233年(天福1年)12月12日、この地に埋葬されたという。母の承明門院は、陵に'''金原法華堂'''('''金原御堂''')を建立し、のち堂宇管理のために金原寺が設置されたという。しかし、江戸時代には荒廃していた。文久の修陵のときに寺跡の石塚を御堂跡と断定し[[土御門天皇陵]]と定められた。近くの地蔵院は金原寺の別院といい、本尊[[阿弥陀如来]]像に「本山金原寺当仏」との墨書が残る。 | ||
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2023年12月13日 (水) 時点における最新版
金原寺は、平安京近郊の山城国乙訓郡金原(京都府長岡京市金ケ原金原寺)にあった土御門天皇の菩提寺。承久の乱後、天皇は、父帝が配流されたのに自分が京都に留まるのは忍びないとして自ら進んで土佐、そして阿波に流された。1231年(寛喜3年)10月11日に崩御して、阿波で火葬されるが、遺骨は京都に帰還し、1233年(天福1年)12月12日、この地に埋葬されたという。母の承明門院は、陵に金原法華堂(金原御堂)を建立し、のち堂宇管理のために金原寺が設置されたという。しかし、江戸時代には荒廃していた。文久の修陵のときに寺跡の石塚を御堂跡と断定し土御門天皇陵と定められた。近くの地蔵院は金原寺の別院といい、本尊阿弥陀如来像に「本山金原寺当仏」との墨書が残る。