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御所八幡宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | '''御所八幡宮'''(ごしょ・はちまんぐう)は、京都府京都市中京区亀甲屋町にある[[足利家]]ゆかりの[[八幡宮]]。祭神は[[応神天皇]]・[[神功皇后]]・[[比売神]]。[[ | + | '''御所八幡宮'''(ごしょ・はちまんぐう)は、京都府京都市中京区亀甲屋町にある[[足利家]]ゆかりの[[八幡宮]]。祭神は[[応神天皇]]・[[神功皇后]]・[[比売神]]。[[等持寺]]の鎮守だった。'''御池八幡宮'''、'''三条坊門八幡宮'''、'''高倉八幡宮'''、'''等持院八幡宮'''、'''等持寺八幡宮'''、'''御所八幡宮社'''とも呼ばれる。村社。 |
- | 1279年(弘安2年)、[[後宇多天皇]] | + | 1279年(弘安2年)、[[後宇多天皇]]の勅で御所([[二条高倉内裏]]か)内に創建し、1344年(興国5年/康永3年)、[[足利尊氏]]が卜部兼豊に命じて邸内(二条万里小路第か)に改めて勧請したという。そして尊氏館を寺にした[[等持寺]]の鎮守となった。あるいは足利直義(尊氏の弟)が[[以仁王]]御所の高倉殿の跡地に邸宅([[三条御所]])を構えて古くからあった八幡宮を鎮守としたともいう。足利尊氏の館に由来するものなのか、三条御所に由来するものなのかはっきりしないが、どちらも足利家にとって重要な地であり、場所も近接してしたため伝承に混乱が生じたのかもしれない。 |
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応永年間、[[三宝院門跡]]の満済が別当となった。 | 応永年間、[[三宝院門跡]]の満済が別当となった。 | ||
応仁の乱で等持寺は廃絶したが、八幡宮は残った。 | 応仁の乱で等持寺は廃絶したが、八幡宮は残った。 |
2021年8月9日 (月) 時点における版
御所八幡宮(ごしょ・はちまんぐう)は、京都府京都市中京区亀甲屋町にある足利家ゆかりの八幡宮。祭神は応神天皇・神功皇后・比売神。等持寺の鎮守だった。御池八幡宮、三条坊門八幡宮、高倉八幡宮、等持院八幡宮、等持寺八幡宮、御所八幡宮社とも呼ばれる。村社。
1279年(弘安2年)、後宇多天皇の勅で御所(二条高倉内裏か)内に創建し、1344年(興国5年/康永3年)、足利尊氏が卜部兼豊に命じて邸内(二条万里小路第か)に改めて勧請したという。そして尊氏館を寺にした等持寺の鎮守となった。あるいは足利直義(尊氏の弟)が以仁王御所の高倉殿の跡地に邸宅(三条御所)を構えて古くからあった八幡宮を鎮守としたともいう。足利尊氏の館に由来するものなのか、三条御所に由来するものなのかはっきりしないが、どちらも足利家にとって重要な地であり、場所も近接してしたため伝承に混乱が生じたのかもしれない。
応永年間、三宝院門跡の満済が別当となった。
応仁の乱で等持寺は廃絶したが、八幡宮は残った。
のち天台宗吉祥院が別当となった。
天正年間に再建。宝永、天明、元治に焼失。
1905年(明治38年)に再建。
1945年(昭和20年)、空襲対策として御池通南側一体の強制疎開が行われ、中京区御所八幡町から数十m南の現在地に遷座した。
(日本歴史地名大系、国史大辞典ほか)