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木本八幡宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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(ページの作成:「'''木本八幡宮'''は、紀伊上陸のときの行在所旧跡にある八幡宮。あるいは日前・国懸神宮の旧鎮座地。祭神は、「応神天皇...」)
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2011年4月3日 (日) 時点における版
木本八幡宮は、紀伊上陸のときの行在所旧跡にある八幡宮。あるいは日前・国懸神宮の旧鎮座地。祭神は、「応神天皇、神功皇后、日〓大神」である(『和歌山県神社誌』、『神道史大辞典』1105)。あるいは「神功皇后、応神天皇、姫大神」である(『紀伊続風土記』505)。神武天皇東征のとき、天道根命が天照大御神の霊代を奉じて紀伊加太浦に上陸し、厳橿の木の本に奉斎したのが「木本宮」の始まりとされる(日前国懸神宮との関連は未調査)。また別に、神功皇后が新羅出兵より帰還のとき、応神天皇は南海ルートにて紀伊水門に到着し、芝原に行在所が設けられた。その後、欽明天皇23年に勅によって行在所跡に「芝原八幡宮」が創建された。現在の権殿の地であるという。1585年(天正13年)の豊臣秀吉の紀伊攻略によって両社とも焼失した。1618年(元和4年)、木本宮に芝原八幡宮を合祀して社殿を再建し、木本八幡宮と称したという。このときの社殿が現在の社殿である。1873年(明治6年)村社に列格し、1875年(明治8年)10月に県社に昇格した。(『紀伊続風土記』、『和歌山県神社誌』、『神道史大辞典』「府県社一覧」)