ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

摂津・真光寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
1行: 1行:
-
'''真光寺'''(しんこうじ)は、兵庫県神戸市兵庫区にある[[一遍墓]]がある[[時宗]]寺院。時宗の元[[時宗の本山寺院|檀林寺院]]。(参考:同名寺院[[真光寺]])
+
'''真光寺'''(しんこうじ)は、兵庫県神戸市兵庫区松原通にある[[一遍]]ゆかりの[[時宗]]寺院。一遍墓がある。本尊は一遍。時宗の元[[時宗の本山寺院|檀林寺院]]。山号は西月山。(参考:同名寺院[[真光寺]])
 +
 
 +
== 歴史 ==
 +
この地には兵庫観音堂があった。
 +
1289年(正応2年)6月、一遍は阿波で発病。7月18日、明石に入る。迎えに船に乗り、兵庫観音堂に入った。8月22日には西宮神社神幸祭の和田岬渡御があり、見舞いに来た[[西宮神社]]の神主に十念を授けた。翌8月23日に死去した。
 +
 
 +
一遍は遺言で遺体を野に捨てるように言い残したが、地元の人々の結縁で火葬して墓を建てたという。
 +
1299年(正安1年)には御影堂があったという。
 +
 
 +
1301年(正安3年)8月、[[他阿真教]]が御影堂を訪れて十三回忌を営んだ。
 +
 
 +
他阿真教は上奏して[[伏見上皇]]から真光寺の号を賜り
 +
[[他阿呑海]]は[[後醍醐天皇]]から西月山の号を賜ったという。
 +
 
 +
播磨守護の赤松氏の庇護を受け、発展。本堂、観音堂、御影堂などが建てられ、子院38寺があったという。
 +
1468年(応仁2年)11月21日、一条政房が滞在。
 +
 
 +
1469年(文明1年)10月16日、山名赤松と大内の合戦で焼失。
 +
慶長年間、再建。
 +
 
 +
長年、清浄光寺の兼務だったが、遊行上人48世・藤沢上人23世の他阿賦国が真光寺に院代を置いた。
 +
1716年(享保1年)御影堂を再建。
 +
(日本歴史地名大系)
== 子院 ==
== 子院 ==
-
*修善院
+
*修善院:
-
*龍蔵院
+
*龍蔵院:
-
*陽徳院
+
*陽徳院:
-
*西北院
+
*西北院:
[[category:兵庫県]]
[[category:兵庫県]]

2019年3月18日 (月) 時点における版

真光寺(しんこうじ)は、兵庫県神戸市兵庫区松原通にある一遍ゆかりの時宗寺院。一遍墓がある。本尊は一遍。時宗の元檀林寺院。山号は西月山。(参考:同名寺院真光寺

歴史

この地には兵庫観音堂があった。 1289年(正応2年)6月、一遍は阿波で発病。7月18日、明石に入る。迎えに船に乗り、兵庫観音堂に入った。8月22日には西宮神社神幸祭の和田岬渡御があり、見舞いに来た西宮神社の神主に十念を授けた。翌8月23日に死去した。

一遍は遺言で遺体を野に捨てるように言い残したが、地元の人々の結縁で火葬して墓を建てたという。 1299年(正安1年)には御影堂があったという。

1301年(正安3年)8月、他阿真教が御影堂を訪れて十三回忌を営んだ。

他阿真教は上奏して伏見上皇から真光寺の号を賜り 他阿呑海後醍醐天皇から西月山の号を賜ったという。

播磨守護の赤松氏の庇護を受け、発展。本堂、観音堂、御影堂などが建てられ、子院38寺があったという。 1468年(応仁2年)11月21日、一条政房が滞在。

1469年(文明1年)10月16日、山名赤松と大内の合戦で焼失。 慶長年間、再建。

長年、清浄光寺の兼務だったが、遊行上人48世・藤沢上人23世の他阿賦国が真光寺に院代を置いた。 1716年(享保1年)御影堂を再建。 (日本歴史地名大系)

子院

  • 修善院:
  • 龍蔵院:
  • 陽徳院:
  • 西北院:
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E3%83%BB%E7%9C%9F%E5%85%89%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール