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宇多天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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『日本紀略』によると承平元年(931)7月19日、宇多天皇は自らが建てた[[仁和寺]]にて65歳で崩御。『帝王編年記』によると8月5日、仁和寺裏山の大内山で火葬されたが、遺詔により山陵と国忌は設けられなかったという。しかし日本紀略の9月5日条に「大内山陵」に「改葬」したとある。 | 『日本紀略』によると承平元年(931)7月19日、宇多天皇は自らが建てた[[仁和寺]]にて65歳で崩御。『帝王編年記』によると8月5日、仁和寺裏山の大内山で火葬されたが、遺詔により山陵と国忌は設けられなかったという。しかし日本紀略の9月5日条に「大内山陵」に「改葬」したとある。 | ||
- | + | 長年、所在不明だったが1855年の浅野長祚著『歴代廟陵考補遺』で大内山内の「'''宇多冢'''」と呼ばれていた現在地が示され、 | |
+ | 1863年の文久の修陵で陵墓として整備した。(『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』、『文久山陵図』228) | ||
2019年11月1日 (金) 時点における版
京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある宇多天皇の陵墓。大内山陵。仁和寺関連旧跡。
歴史
『日本紀略』によると承平元年(931)7月19日、宇多天皇は自らが建てた仁和寺にて65歳で崩御。『帝王編年記』によると8月5日、仁和寺裏山の大内山で火葬されたが、遺詔により山陵と国忌は設けられなかったという。しかし日本紀略の9月5日条に「大内山陵」に「改葬」したとある。 長年、所在不明だったが1855年の浅野長祚著『歴代廟陵考補遺』で大内山内の「宇多冢」と呼ばれていた現在地が示され、 1863年の文久の修陵で陵墓として整備した。(『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』、『文久山陵図』228)