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肥後・本妙寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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1583年(天正11年)、加藤清正が父の加藤清忠の菩提寺として日真を招いて[[大坂]]に創建。所在地は不詳。当初は'''瑞龍院'''と称したという説もある。1588年(天正16年)、清正が熊本に移封すると、日真も従い、最初は熊本城内の旧[[天台宗]]三宝院に滞在した。1600年(慶長5年)に寺も移した。本妙寺と改称したのはこの時からとも。1605年(慶長10年)、[[後陽成天皇]]の勅願寺となり1606年(慶長11年)[[永代紫衣]]を許された。寺領700石を領した。1611年(慶長16年)6月24日に加藤清正が亡くなると中尾山に葬られた。1612年(慶長17年)、一周忌に頓写会が始まる。頓写会の名称は、3回忌の時に大勢が筆を執ることで法華経69384文字を一夜にして写経できたことに由来する。
1583年(天正11年)、加藤清正が父の加藤清忠の菩提寺として日真を招いて[[大坂]]に創建。所在地は不詳。当初は'''瑞龍院'''と称したという説もある。1588年(天正16年)、清正が熊本に移封すると、日真も従い、最初は熊本城内の旧[[天台宗]]三宝院に滞在した。1600年(慶長5年)に寺も移した。本妙寺と改称したのはこの時からとも。1605年(慶長10年)、[[後陽成天皇]]の勅願寺となり1606年(慶長11年)[[永代紫衣]]を許された。寺領700石を領した。1611年(慶長16年)6月24日に加藤清正が亡くなると中尾山に葬られた。1612年(慶長17年)、一周忌に頓写会が始まる。頓写会の名称は、3回忌の時に大勢が筆を執ることで法華経69384文字を一夜にして写経できたことに由来する。
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1614年(慶長19年)、熊本城内の火災で本妙寺が焼失したのを機に加藤清正の廟に移転。1616年(元和2年)、清正七回忌を前に落慶。1632年(寛永9年)、加藤忠広が改易となり、細川忠利が入国する。1633年(寛永10年)300石を寄進し、1634年(寛永11年)、400石に増やした。以後、細川家の祈祷所・連枝位牌所として重視されると共に領民にも日蓮宗を布教した。死後およそ100年を過ぎた享保年間には清正公信仰が浸透し、法華経の守護神としての地位も確立した。1791年(寛政3年)、本堂焼失。1810年(文化7年)清正200年遠忌で本堂など再興。1877年(明治10年)、西南戦争で大本堂焼失。1884年(明治17年)大本堂再建。2016年(平成28年)の熊本地震で被災。
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1614年(慶長19年)、熊本城内の火災で本妙寺が焼失したのを機に加藤清正の廟に移転。1616年(元和2年)、清正七回忌を前に落慶。1632年(寛永9年)、加藤忠広が改易となり、細川忠利が入国する。1633年(寛永10年)300石を寄進し、1634年(寛永11年)、400石に増やした。以後、細川家の祈祷所・連枝位牌所として重視されると共に領民にも日蓮宗を布教した。死後およそ100年を過ぎた享保年間には清正公信仰が浸透し、法華経の守護神としての地位も確立した。1791年(寛政3年)、本堂焼失。1810年(文化7年)清正200年遠忌で本堂など再興。
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1868年(明治1年)、浄池廟を神式で祭祀を行い、神仏分離に伴い、1871年(明治4年)に神霊を熊本城内に遷座して[[加藤神社]]が創建されるが、浄池廟も存続した。1877年(明治10年)、西南戦争で大本堂焼失。1884年(明治17年)大本堂再建。2016年(平成28年)の熊本地震で被災。
(日本歴史地名大系、寺院ウェブサイト、境内由緒書)
(日本歴史地名大系、寺院ウェブサイト、境内由緒書)

2020年1月4日 (土) 時点における版

本妙寺(ほんみょうじ)は、熊本県熊本市西区花園にある日蓮宗寺院。本尊は大曼荼羅加藤清正菩提寺で清正の墓廟浄池廟がある。細川家の祈祷所・菩提所でもある。六条門流の九州総本寺だった。後陽成天皇の勅願寺。紫衣勅許寺院日蓮宗久遠寺派。山号は発星山(元は法性山)。(参考:同名寺院本妙寺

歴史

1583年(天正11年)、加藤清正が父の加藤清忠の菩提寺として日真を招いて大坂に創建。所在地は不詳。当初は瑞龍院と称したという説もある。1588年(天正16年)、清正が熊本に移封すると、日真も従い、最初は熊本城内の旧天台宗三宝院に滞在した。1600年(慶長5年)に寺も移した。本妙寺と改称したのはこの時からとも。1605年(慶長10年)、後陽成天皇の勅願寺となり1606年(慶長11年)永代紫衣を許された。寺領700石を領した。1611年(慶長16年)6月24日に加藤清正が亡くなると中尾山に葬られた。1612年(慶長17年)、一周忌に頓写会が始まる。頓写会の名称は、3回忌の時に大勢が筆を執ることで法華経69384文字を一夜にして写経できたことに由来する。

1614年(慶長19年)、熊本城内の火災で本妙寺が焼失したのを機に加藤清正の廟に移転。1616年(元和2年)、清正七回忌を前に落慶。1632年(寛永9年)、加藤忠広が改易となり、細川忠利が入国する。1633年(寛永10年)300石を寄進し、1634年(寛永11年)、400石に増やした。以後、細川家の祈祷所・連枝位牌所として重視されると共に領民にも日蓮宗を布教した。死後およそ100年を過ぎた享保年間には清正公信仰が浸透し、法華経の守護神としての地位も確立した。1791年(寛政3年)、本堂焼失。1810年(文化7年)清正200年遠忌で本堂など再興。 1868年(明治1年)、浄池廟を神式で祭祀を行い、神仏分離に伴い、1871年(明治4年)に神霊を熊本城内に遷座して加藤神社が創建されるが、浄池廟も存続した。1877年(明治10年)、西南戦争で大本堂焼失。1884年(明治17年)大本堂再建。2016年(平成28年)の熊本地震で被災。

(日本歴史地名大系、寺院ウェブサイト、境内由緒書)

伽藍

本堂ではなく浄池廟を中心として伽藍配置となっている。大本堂から浄池廟に登る参道を胸突雁木と呼ぶ。

  • 大本堂:本尊は大曼荼羅。西南戦争で焼失後、1884年(明治17年)起工し、1894年(明治27年)に落慶した。
  • 法皇閣:本尊は釈迦如来。丈六の立像という。釈迦堂ともいう。
  • 仁王門:1917年(大正6年)建立。鉄筋コンクリート造。
  • 浄池廟加藤清正の墓廟。清正公信仰の総本社。名称は清正の法名「浄池院殿永運日乗大居士」に由来する。拝殿と本殿から構成。本殿内に木像を祀り、その下に遺骸が埋葬されているという。参道の途中に常夜燈があり、夜闇で熊本城から遥拝する目印にしたという。加藤家の廃絶後、常夜燈もなくなったが、1974年(昭和49年)に市民の篤信者が寄進。
  • 六喜廟:胸突雁木の途中にある。加藤忠広らの墓。傍らに国柱会開祖田中智学撰文揮毫の「六喜廟碑」がある。
  • 良甫鑑墓:浄池廟の傍らにある。良甫鑑は朝鮮出兵で加藤清正が捕虜として連れてきた朝鮮人。側近として仕えた。1617年(元和3年)の清正七回忌に殉死した。「金宦之墓」。
  • 大木兼能墓:浄池廟の傍らにある。大木兼能は加藤清正の重臣。清正死去の翌日に殉死。
  • 栗毛堂:加藤清正の愛馬を祀る。
  • 論語猿:
  • 加藤清正銅像:浄池廟からさらに325段の石段を登ったところにある。台座含め約17m。1935年(昭和10年)に325年祭で建立。彫刻家の北村西望作。1945年(昭和20年)に金属供出で撤去されたが、1960年(昭和35年)4月、350年祭で再び北村西望の手により再建。
  • 津波供養塔:宝篋印塔。1792年(寛政4年)の雲仙岳爆発にともなう大津波の犠牲者を供養する。

子院など

  • 本院:
  • 宗務所:
  • 妙心院:
  • 龍渕院:
  • 延寿院:
  • 雲晴院:
  • 本地院:
  • 静明院:
  • 常住院:
  • 東光院:
  • 仙乗院:
  • 智運院:
  • 林蔵院:廃絶か。
  • 元昭坊:廃絶か。
  • 正善院:廃絶か。
  • 妙音坊:廃絶か。
  • 元陽院:廃絶か。
  • 玉泉坊:廃絶か。
  • 唯心院:廃絶か。
  • 蓮浄院:廃絶か。
  • 堯心院:廃絶か。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E3%83%BB%E6%9C%AC%E5%A6%99%E5%AF%BA」より作成

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