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深草北陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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後深草天皇の遺骨を収めるために、法華堂が建立された。付属寺院として[[安楽行院]]が創建された。持明院統の天皇がこの法華堂に次々に葬られた。しかし、深草法華堂および安楽行院は、戦国時代の戦乱で荒廃した。 | 後深草天皇の遺骨を収めるために、法華堂が建立された。付属寺院として[[安楽行院]]が創建された。持明院統の天皇がこの法華堂に次々に葬られた。しかし、深草法華堂および安楽行院は、戦国時代の戦乱で荒廃した。 | ||
江戸時代になり、1617年(元和3年)、後陽成天皇の葬送の際に深草法華堂が再建された。一間四方の宝形造の小堂であった。1662年(寛文2年)には空心という僧により安楽行院も復興した(同時に安楽行院内に文徳天皇勅願で仁明天皇菩提寺の[[深草・嘉祥寺]]を復興したが、嘉祥寺の旧地とは異なるという。)。しかし、法華堂はまもなく荒廃して元禄年間には三度の修復を受けている。 | 江戸時代になり、1617年(元和3年)、後陽成天皇の葬送の際に深草法華堂が再建された。一間四方の宝形造の小堂であった。1662年(寛文2年)には空心という僧により安楽行院も復興した(同時に安楽行院内に文徳天皇勅願で仁明天皇菩提寺の[[深草・嘉祥寺]]を復興したが、嘉祥寺の旧地とは異なるという。)。しかし、法華堂はまもなく荒廃して元禄年間には三度の修復を受けている。 | ||
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後深草天皇の陵墓としては、文久の修陵の際には現在地のほかに、後深草天皇が崩御した伏見殿跡に「後深草帝 御火所」が定められたが、別説に基づき、同地はのちに[[後崇光太上天皇陵]]に変更された。(『文久山陵図』224・同所収「山陵考」281-283・京都市「嘉祥寺現地解説板」・嘉祥寺「嘉祥寺由緒」) | 後深草天皇の陵墓としては、文久の修陵の際には現在地のほかに、後深草天皇が崩御した伏見殿跡に「後深草帝 御火所」が定められたが、別説に基づき、同地はのちに[[後崇光太上天皇陵]]に変更された。(『文久山陵図』224・同所収「山陵考」281-283・京都市「嘉祥寺現地解説板」・嘉祥寺「嘉祥寺由緒」) | ||
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File:Fukakusa-hokkedo_003.jpg|深草法華堂 入口 | File:Fukakusa-hokkedo_003.jpg|深草法華堂 入口 | ||
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2020年6月28日 (日) 時点における版
深草北陵は京都府京都市伏見区深草坊町(山城国紀伊郡)にある陵墓。深草法華堂、安楽行院法華堂、深草十二帝陵ともいう。
後深草天皇の遺骨を収めるために、法華堂が建立された。付属寺院として安楽行院が創建された。持明院統の天皇がこの法華堂に次々に葬られた。しかし、深草法華堂および安楽行院は、戦国時代の戦乱で荒廃した。 江戸時代になり、1617年(元和3年)、後陽成天皇の葬送の際に深草法華堂が再建された。一間四方の宝形造の小堂であった。1662年(寛文2年)には空心という僧により安楽行院も復興した(同時に安楽行院内に文徳天皇勅願で仁明天皇菩提寺の深草・嘉祥寺を復興したが、嘉祥寺の旧地とは異なるという。)。しかし、法華堂はまもなく荒廃して元禄年間には三度の修復を受けている。 江戸時代における深草法華堂の被葬者の認識については、異同があるようだ。 文久の修陵に際しては、後深草(89・持明院統1)、伏見(92・持明院統2)、後伏見(93・持明院統3)、後光厳(北朝4・持明院統8)、後円融(北朝5)、後小松(100・北朝6)、称光(101)、後土御門(103)、後柏原(104)、後奈良(105)、正親町(106)、後陽成(107)の天皇陵として「深草法華堂」として修復の対象となった。従来の小堂は取り壊されて、同じ場所に三間四方の宝形造柿葺の壮麗な堂宇が造営された。興味深いことに堂宇の前には鳥居が建てられ、祭場と思われる区画が整備されている(堂前に鳥居が書かれた古図があったらしいがこれに依るものか)。 明治以降に鳥居は撤去されて屋根は瓦葺に葺き替えられた。また伏見宮家初代の栄仁親王の墓もこの法華堂に治定された(年代未確認)。1894年(明治27年)に嘉祥寺の境内地を割いて、陵域を整備した(「嘉祥寺由緒」)。1906年(明治39年)3月23日、従来、「深草法華堂」と称してきたが、「深草北陵」と改称する(明治天皇紀)。 安楽行院と嘉祥寺と真宗院(浄土宗。後深草天皇勅願)および深草法華堂の関係については、由緒が混同されているようで、明瞭でない。 後深草天皇の陵墓としては、文久の修陵の際には現在地のほかに、後深草天皇が崩御した伏見殿跡に「後深草帝 御火所」が定められたが、別説に基づき、同地はのちに後崇光太上天皇陵に変更された。(『文久山陵図』224・同所収「山陵考」281-283・京都市「嘉祥寺現地解説板」・嘉祥寺「嘉祥寺由緒」)