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山口護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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山口護国神社は兵庫県朝来市山口にある招魂社。生野義挙(生野の変、生野事変)の殉難志士を祀る。官祭招魂社。山口招魂社。
祭神
歴史
- 1863年(文久3年)9月25日:養父神社で美玉三平と本田小太郎が会合。
- 1863年(文久3年)10月12日:福岡藩士平野国臣と鹿児島藩士美玉三平らが沢宣嘉を奉じて天誅組に応じて挙兵。生野代官所を占拠した。
- 1863年(文久3年)10月13日:13人は西念寺に入る。沢宣嘉が本陣を脱出。妙見山の妙見堂に17人が名前を残す。
- 1863年(文久3年)10月14日:壊滅。妙見山の麓の山伏岩で13人が自刃。5人も各地で自刃戦死。18人の首級は出石藩が回収し、和田山村の陣所に置かれる。平野国臣と横田友次郎は捕縛された。
- 1863年(文久3年)10月15日:18人の首級、生野代官の川上猪太郎の陣中に送られ、のち生野獄庭に埋められる。
- 1864年(元治1年)7月20日:禁門の変に乗じて平野国臣、横田友次郎、大村辰之助
、本田小太郎が殺害された。前日にも片山九市が刑死。
- 1868年(明治1年)2月8日:村民有志、山伏岩の自刃の地に17人の首級(地元出身の中島太郎兵衛は遺族の願いにより家の墓に埋葬)を葬り、「殉節忠士之墓」を建立。拝殿を建てて祭典を行ったという(振武余光[1])。これをもって山口招魂社の創立としているようだ(靖国神社誌では1月)。河上弥市、戸原卯橘ら17柱を祀る。山陰道鎮撫総督の西園寺公望がこの地に巡視した際に地元の有志が創立(随在天神[2])。墓碑銘を西園寺公望が揮毫した。
- 1868年(明治1年)6月:「殉節忠士之墓誌銘」碑を建立。折田年秀が撰文。
- 1868年(明治1年)9月:白川家から戸原卯橘に「伊蘇志神霊」の諡号[3]
- 1887年(明治20年)4月:山口村民、祭神に平野国臣ら13柱を合祀し、元の祭神と合わせて官祭招魂社への編入を請願(振武余光、会通雑誌)。あるいは15柱とも(随在天神)。
- 1888年(明治21年)7月25日:内務省から17人は官祭、13人は私祭とする旨が達せられる(振武余光)。
- 1888年(明治21年)9月19日:官祭招魂社に編入(兵庫県訓令488号[4]。1889年(明治22年)とあるのは誤記とみられる)。平野国臣ら13柱は私祭祭神として許可(会通雑誌[5])。毎年金39円25銭を祭祀料として下付。
- 1888年(明治21年)10月14日:例祭。兵庫県知事代理として郡長が参拝(会通雑誌)。
- 1889年(明治22年)10月18日:兵庫県、私祭祭神に出石藩の高橋甲太郎と尾張の三牧庄蔵を合祀することを許可(振武余光[6]、11月9日官報で告知[7])。
- 1890年(明治23年)4月1日:受持神官を設置し、招魂社費と招魂社営繕費を支給することを通達。兵庫県訓令庶甲1214号・甲1215号[8][9]
- 1915年(大正4年)10月:「山口招魂祠碑」建立
- 1939年(昭和14年)4月:護国神社制度施行により山口護国神社と改称。指定外護国神社となる。
- 1940年(昭和15年):生野代官所跡に「生野義挙阯」碑建立。
- 1963年(昭和38年)11月10日:兵庫県神社庁などの主催で100年祭[10]。