ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

鹿屋護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2025年8月30日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
移動: 案内, 検索

鹿屋護国神社は鹿児島県鹿屋市向江町にある招魂社官祭招魂社指定外護国神社鹿屋招魂社鹿児島藩の官祭招魂社と官修墳墓も参照。

目次

祭神

官祭祭神

靖国神社誌[1]によれば11柱。しかし1940『鹿屋郷土史』「官祭護国神社」[2]によれば官祭祭神は以下の2柱のみという。

  • 竹下五兵衛:大俣口
  • 小田新次郎:京都で病死。


歴史

境内

  • 本社
  • 石碑:現存は確認できず。明治4年建立。児玉利章撰。
  • 社務所
  • 手水舎:「紀元二千六百年記念」。
  • 碑:手水舎そば。寄進碑か。人名列挙。
  • 「心」碑:平成27年11月20日建立。鹿屋市戦没者3858柱とある。
  • 「飛行第九十八戦隊戦没者之霊」碑:昭和49年建立。
  • 砲弾碑
  • 「日露戦役紀念碑」
  • 石仏:「奉祝御大典記念」
  • 墓碑:天明年間
  • (秋葉神社)

画像

資料

  • 『靖国神社百年史 資料篇 下』[3]
  • 1940『鹿屋郷土史』「官祭護国神社」[4]
  • 1972『鹿屋市史 下巻』「鹿屋市護国神社奉賛会」[5]
  • 1995鹿屋市史 下巻 [改訂版]』「日露戦争の戦死者」[6]
  • 1995鹿屋市史 下巻 [改訂版]』「戊辰戦争」[7]
  • 1995鹿屋市史 下巻 [改訂版]』「昭和の郷土の戦死者」[8]

石碑

「天子罷幕職、大政帰朝廷、徳川慶喜図不軌、発兵襲京師、遂致東北諸国擾乱矣、官軍奉勅、討之在鹿屋郷前後死于王事者二人、曰小田新次郎藤原為文、曰竹下五兵衛藤原助次、為文慶応丁卯閏八月以番兵一番隊伍長上京、戊辰正月三日、官兵禦賊於伏見鳥羽、為文留、護衛禁闕、尋従鎮撫使西園寺某巡山陰道、三月還京、至五月並罹脚疾、及疫癘廿八日遂不起、葬于林光院、年二十三、慶喜致城帰順、而余党拠奥羽北越、不服王命、是歳八月、助次以番兵五番隊直入出羽、九月十二日、撃賊於庄内大俣口、被重創、乃治創於越後高田病院、十一月十九日、遂卒于創、葬于金谷山、年二十、事既平、宮賜葬資金五十両祭資金百両、歳給米四十苞、以撫恤其後、為文雖病没以其死於従軍之際準之戦亡、賜金以助葬祭、如前数更賜金五十両以恤後、助次六郎衛門助備嫡子而為文多兵衛為善第二子也、至此一郷相謀建招魂塚乞余誌其崖略、嗚呼士之死、于王事分也亦栄也而官褒恤之涯又至矣、郷人乃建石以崇、義表思可謂君臣交尽礼矣吾焉得不欣然援筆哉 明治辛未春正月 一等教官 児玉利章謹撰」

(試訳。書き下し文)「天子、幕職を罷め、大政朝廷に帰す。徳川慶喜、不軌を図り、兵を発して京師を襲ふ。遂に東北諸国の擾乱を致せり。官軍、勅を奉じて之を討つ。鹿屋郷に在りて前後、王事に死する者二人あり。曰く小田新次郎藤原為文、曰く竹下五兵衛藤原助次。 為文、慶応丁卯閏八月、番兵一番隊伍長として上京す。戊辰正月三日、官兵、賊を伏見鳥羽に禦ぐ。為文、留まりて禁闕を護衛す。尋いで鎮撫使西園寺某に従ひ山陰道を巡り、三月京に還る。五月に至りて並びに脚疾を罹り、疫癘に及び、廿八日、遂に起たず。林光院に葬る。年二十三。 慶喜、城を致し帰順す。而して余党、奥羽北越に拠り、王命に服せず。是歳八月、助次、番兵五番隊を以て直に出羽に入る。九月十二日、庄内大俣口に賊を撃ち、重創を被る。乃ち創を越後高田病院に治し、十一月十九日、遂に創に卒す。金谷山に葬る。年二十。 事既に平ぎ、宮より葬資金五十両・祭資金百両・歳給米四十苞を賜ひ、以て其の後を撫恤す。為文、病に没すと雖も、其の従軍の際に死するを以て之を戦亡に準へ、金を賜ひて以て葬祭を助く。前の数の如く更に金五十両を賜ひて後を恤む。助次は六郎衛門助備の嫡子にして、為文は多兵衛為善の第二子なり。 此に至りて一郷、相謀りて招魂塚を建て、余に乞ひて其の崖略を誌す。嗚呼、士の死は王事に於て分なり。亦栄なり。而して官の褒恤の涯又至れり。郷人、乃ち石を建て以て義を崇び、表して思ふ。君臣の交礼を尽くすと謂ふ可し。吾れ焉んぞ欣然として筆を援ざらんや。」 (試訳。現代語訳)「天皇は幕府の職を廃して、大政は朝廷に返された。ところが徳川慶喜は謀反を企てて兵を起こし、京の都を襲い、遂には東北諸国にまで騒乱をもたらした。官軍は勅命を奉じて之を討った。この時、鹿屋郷において王事の為に前後して戦死した者が2人いた。小田新次郎為文と竹下五兵衛助次である。 為文は、慶応3年閏8月、番兵一番隊の伍長として上京した。慶応4年正月3日、官軍が伏見・鳥羽で敵軍を防いだ際、為文は京に残って御所の警護にあたった。その後まもなく鎮撫使西園寺某(西園寺公望)に従い山陰道を巡行し、3月に京へ戻った。やがて5月には脚の病を患い、さらに疫病にかかり、28日遂に病没した。林光院(相国寺林光院)に葬られた。享年23。 徳川慶喜は遂に城を差し出して恭順した。しかしなお残党は奥羽・北越に拠って王命に従わなかった。同年8月、助次は番兵五番隊とともに直ちに出羽へ出陣した。9月12日、庄内大俣口で敵軍と戦い重傷を負った。その傷を越後の高田病院で治療したが、11月19日遂にその傷がもとで死去した。金谷山に葬られた。享年20。 事既に平定すると、宮より葬儀の為に金50両、祭祀の為に100両、さらに毎年の扶養として米40俵が下賜され、その遺族が慰められた。為文は病没ではあったが、従軍中に命を落としたことをもって戦死に準じるとされ、葬祭の助けとして金が下賜された。その上さらに50両が与えられ、遺族への扶助がなされた。助次は六郎衛門助備の嫡子であり、為文は多兵衛為善の次男であった。 ここに至って一郷の人々は協議して招魂塚を建て、その由来を私に記すよう依頼してきた。嗚呼、武士の死は王事において当然の務めであり、また大いなる栄誉である。そして官からの褒賞と扶助も余りあるものだった。郷人はそこで石碑を建ててその義を崇め、心を表した。之は君臣の礼を尽くしたものといえるであろう。私はかくして喜んで筆を執ったのである。」

http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%B9%BF%E5%B1%8B%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール