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小墾田宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2018年7月27日 (金) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
小墾田宮(おはりだのみや)は、大和国高市郡飛鳥(奈良県高市郡明日香村雷)にあった推古天皇の皇宮。皇極天皇も即位直後の一時期に使った。淳仁天皇や称徳天皇の行宮にもなった。跡地は雷内畑遺跡(いかづちうちばたいせき)とする説が有力。小治田宮 (『古事記』)、 少治田宮(『上宮聖徳法王帝説』)、 小治田大宮(法隆寺薬師如来光背銘文)。
歴史
小墾田は以前から蘇我氏の根拠地の一つだった。『日本書紀』によれば推古天皇は即位11年(603)10月に豊浦宮から移り、628年3月の崩御まで使われた。摂政の聖徳太子は斑鳩宮から通った。その往復に使われた太子道の終点ともされる。620年には南庭に須弥山の模型が建てられた。推古天皇の殯宮も南庭に建てられた。また皇極天皇も即位2年(643)4月まで使用した。 その後も施設は存続し、壬申の乱の時には武器庫があったらしい。 760年8月から翌年1月頃まで淳仁天皇が滞在。天皇が同月にわずかに滞在した小治田岡本宮も近くにあったと思われる。765年10月、紀伊国への行幸の途中に称徳天皇が立ち寄った。
跡地の探索では奈良県高市郡明日香村豊浦古宮の地が有力視されてきたが、1987年に雷丘の南にある雷内畑遺跡から「小治田宮」との墨書がある土器が多数出土し、有力視されている。