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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

小墾田宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年7月27日 (金)

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小墾田宮(おはりだのみや)は、大和国高市郡飛鳥(奈良県高市郡明日香村雷)にあった推古天皇皇宮皇極天皇も即位直後の一時期に使った。淳仁天皇称徳天皇の行宮にもなった。跡地は雷内畑遺跡(いかづちうちばたいせき)や雷丘東方遺跡の一帯とする説が有力。小治田宮 (『古事記』)、 少治田宮(『上宮聖徳法王帝説』)、 小治田大宮(「法隆寺薬師如来光背銘文」)。

歴史

小墾田は以前から蘇我氏の根拠地の一つだった。『日本書紀』によれば推古天皇は即位11年(603)10月に豊浦宮から移り、628年3月の崩御まで使われた。政権を主導した摂政の聖徳太子斑鳩宮から通った。その往復に使われた太子道の終点ともされる。620年には南庭に須弥山の模型が建てられた。推古天皇の殯宮も南庭に建てられた。また皇極天皇も即位2年(643)4月まで使用した。 その後も施設は存続し、672年の壬申の乱の時には武器庫があったらしい。 奈良時代になっても760年8月から翌年1月頃まで淳仁天皇が滞在。天皇が同月にわずかに滞在した小治田岡本宮も近くにあったと思われる。765年10月、紀伊国への行幸の途中に称徳天皇が立ち寄った。 小墾田禅院小墾田寺という寺院の存在も史料にみられるが豊浦寺とみなすことが多いようだ。

跡地の探索では奈良県高市郡明日香村豊浦古宮の地が有力視されてきたが、1987年に雷丘の南にある雷内畑遺跡や雷丘東方遺跡から「小治田宮」との墨書がある土器が多数出土し、有力視されている。

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