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島原護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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島原護国神社(しまばら・ごこく・じんじゃ)は、長崎県島原市弁天町にある招魂社。霊丘神社に隣接。官祭招魂社。島原招魂社。
目次 |
祭神
官祭祭神
靖国神社誌では4柱とする[1]が以下の4人と考えられる。本光寺近くに合同墓碑1基が現存する(島原官修墳墓か)。
- 磯野波蔵員定():24歳。
- 小沢文十郎定明():22歳。
- 木下鉄之助重賢():19歳。
- 高槻徳之進元彰():23歳。
私祭祭神
- 尾崎靖(1842-1864):島原藩士。脱藩して尊攘運動に加わり、山口藩の外国船砲撃に参加。天誅組に加わり捕縛され、刑死。尾崎鋳五郎。
- 保母健(1842-1864):島原藩士。平田銕胤に国学を学ぶ。脱藩して尊攘運動に加わり、天誅組に加わり捕縛され、刑死。井上景光。
- 伊藤益荒(1844-1864):島原藩士。天狗党の筑波山挙兵に参加。敗走して高田山(茨城県東茨城郡城里町小勝)で自刃。高田山に石碑がある。伊藤嘉融
墓碑人名
要検討。
- 生田〓():
- 石田茂寿():
- 石橋〓保():
- 小林〓粂():
- 佐久間寛一():陸軍歩兵少尉。1905年(明治38年)3月2日、盛京省小東勾付近で負傷。3日死去[2][3]。8日戦死発表[4]
- 下田〓〓():
- 〓崎重男():
- 鈴木格():1904年(明治37年)9月1日戦死[5]。
- 鈴木正利():
- 高木〓利():
- 村田重治():
- 中村直喜():
- 野田一男():
- 平城盛良():陸軍騎兵大尉。1905年(明治38年)9月16日戦死[6]。
- 平城盛年():陸軍砲兵中尉。1905年(明治38年)3月3日戦死[7]。[8]
- 本田兼繁():
- 増田芳雄():大村海軍航空隊所属。1929年(昭和4年)5月8日、沖縄帰還中に乱気流に遭遇して横当島付近の海上に不時着。10日死亡認定。[9]
- 松本茂():海軍一等水兵。1917年(大正6年)6月11日戦死[10][11]。
- 松本〓男():
- 三原茂():
- 〓〓〓義():
- 森〓〓且():
- 高〓善平():
- 喜田〓喜():
境内
- 社殿:現在は小さな石祠があるのみ。『島原の歴史』[12]によると、片山半蔵という宮大工が護国神社の建築を手掛けたとあるので、かつては木造の社殿があった可能性がある。
- 忠魂碑
- 奥羽役殉難之碑
- 墓碑群:社殿の背後の塀に立て掛ける形で並べられている。いずれも日露戦争以降の戦死者とみられ、島原官修墳墓とは別とみられる
- (島原官修墳墓):肥前・本光寺近くの墓碑か
歴史
- 明治1年9月10日:磯野波蔵、小沢文十郎、木下鉄之助の3人が戦死[13][14][15]
- 明治1年9月28日:高槻徳之進、戦死[16][17][18]
- 明治1年12月4日:島原藩主松平忠和、戦死者4人の遺族に香料として10両ずつ与え、藩主菩提寺の曹洞宗本光寺の住職に依頼して法名を賜う。[19]
- 明治1年12月5日:本光寺で回向することを達する[20]
- 明治1年12月8日:本光寺で回向。本光寺典座に供養料として金100両を、本光寺執事に墓碑建設料25両を下賜。[21]
- 明治2年1月9日:島原藩から軍務御役所に戦死者4人を報告。2月28日にも報告。[22]
- 明治2年3月10日:本光寺南小山に戦死者の墓碑を建立。島原官修墳墓か。遺族や藩士ら1000人が参列[23]。(『長崎県案内』では明治2年9月、島原藩主松平忠和、戊辰戦争戦死者の遺髪遺品を本光寺に埋納して墓碑を建立し祭典を執行したとある[24]。靖国神社誌[25]でも創立を明治2年9月としている)
- 明治2年7月15日:本光寺で戦死者施餓鬼会を営む[26]
- 明治2年10月10日:本光寺で一周忌。尊王派と佐幕派を融和するため、本光寺住職の発案で藩親会を設立し、春秋に開催し昭和20年まで続いた。[27]
- 明治2年10月21日:本光寺を末寺の浄林寺に移転し(浄林寺は廃止)、100石から50石に削減[28]。
- 明治1年1月24日:本光寺跡地に「学校」が開校。藩校稽古館を再編移転し校舎を新築した[29]。のち本光寺に復帰か??
- 明治3年3月:御宮山(権現山)に招魂場を定めて、祠を建てることを決定[30]。(『島原半島史』では「招魂社を御宮山に作った」[31][32]とあるが計画だけか)
- 明治4年3月14日:招魂場建立の趣意と「手続書」を発表。30間四方の松林を切り開き、桜の木を植え、道を開き、松平家三代の廟と義士の墓碑を設けるとした。また内海を埋めて祭田と練兵場を設けて春秋に大祭を営む祭場とするとした。[33]
- 明治4年3月21日:着工[34]
- 明治5年5月6日:墓碑と神祠が完成し、鎮座祭[35]。(『長崎県案内 昭和9年』では明治2年9月島原藩主松平忠和が現在地に墓碑を移転して社殿建立を計画したが廃藩置県で頓挫し、自邸内の稲荷社に合祀、明治9年2月、内務省が社殿建設許可。経費の都合で遅延。明治16年5月、社殿と墓碑を建立とある[36]
- 明治7年7月3日:国へ官費支給の申請[37]。
- 明治8年6月3日:官費支給の認可[38]。
- 明治8年10月13日:「招魂社」と称する[39]。
- 明治23年5月19日:長崎県、招魂社費と招魂社修繕費の定額を42円25銭と定める。内訳は修繕費15円、祭祀料10円、神饌料1円、墳墓修繕費6円25銭、予備費10円。官祭招魂社費と官修墳墓費が一括して支給されていたことが分かる。国が定めた支給費は神饌料1人あたり25銭であることから祭神は4柱分1円として合致する。墳墓修繕費は1カ所分。ただし招魂社修繕費25円と一致しない(予備費10円と合わせれば辻褄が合う)。(達乙第570号[40])
- 明治33年5月6日:尾崎靖、保母健、伊藤益荒を合祀[41]
- 明治34年6月19日:長崎県、官祭島原招魂社・官祭島原墳墓に標木の建立を命じる[42]
- 明治35年9月15日:貯金通帳紛失公告[43]
- 大正5年2月:釧雲泉墓碑(雲泉山人墓銘)の複製?を建立
- 昭和31年4月:高浜虚子歌碑建立
- 昭和35年3月31日:島原城跡に島原殉国慰霊堂を建立し、島原護国神社の祭神を移したという[44]
- 昭和57年7月:「奥羽戦役殉難之碑」建立(銘文)
画像
資料
- 片山秀賢1968「島原藩奥羽戦争次第」[45]