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ナーランダー寺院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年10月28日 (日)
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- | + | '''ナーランダー寺院'''は、[[インド仏教]]の中心的寺院の一つ。廃絶。'''施無厭寺'''、'''那爛陀寺'''。かつてはインド仏教教学の中心で、しばしば「世界最大の仏教大学」と言われ、最盛期にはアジア各地から集まった3000人の僧侶がいたという。[[ラージギル]]の北約11キロにある。 | |
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- | + | [[玄奘]]が記した『大唐西域記』には、ナーランダー寺院の起源と名前の由来に関して次のような伝説が記載されている。 | |
古老に拠れば「南のマンゴー林に池があり、そこに住む龍の名をナーランダーという。池の側に寺院を建てたのでその名前を取った」という。しかし、実際には、「釈迦が国王となってこの地を都とした。衆生を憐れみ、施しをすることを楽しんだ。よって施無厭(ナーランダー)と呼んだ。その地はもともとマンゴー林であったが、500人の商人が10億で買って釈迦に寄進した。」という。 | 古老に拠れば「南のマンゴー林に池があり、そこに住む龍の名をナーランダーという。池の側に寺院を建てたのでその名前を取った」という。しかし、実際には、「釈迦が国王となってこの地を都とした。衆生を憐れみ、施しをすることを楽しんだ。よって施無厭(ナーランダー)と呼んだ。その地はもともとマンゴー林であったが、500人の商人が10億で買って釈迦に寄進した。」という。 | ||
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原始仏教の経典にはこのような記述はなく、ナーランダー寺院が仏教の中心的役割を果たす時代にできた伝説だろう。ただし、釈迦がナーランダーを舞台に説法することが『阿含経』には12箇所出てくるという。しかし、ナーランダーが特に重要視されていたわけではないらしい。 | 原始仏教の経典にはこのような記述はなく、ナーランダー寺院が仏教の中心的役割を果たす時代にできた伝説だろう。ただし、釈迦がナーランダーを舞台に説法することが『阿含経』には12箇所出てくるという。しかし、ナーランダーが特に重要視されていたわけではないらしい。 | ||
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- | 教学研究の中心的存在となり、インド全土はもちろん、諸国から修行僧、学僧が訪れた。ダルマパーラ(護法、530‐561)、シーラバドラ(戒賢、6世紀)、護月、グナマティ(徳慧)、スティラマティ(堅慧、安慧、470?- | + | 教学研究の中心的存在となり、インド全土はもちろん、諸国から修行僧、学僧が訪れた。ダルマパーラ(護法、530‐561)、シーラバドラ(戒賢、6世紀)、護月、グナマティ(徳慧)、スティラマティ(堅慧、安慧、470?-550?、または510‐570ころ)、光友、勝友、智月、唐の[[玄奘]]、唐の[[義浄]](635-715)、[[善無畏]](637-735)、シャーンタラクシタ(寂護、8世紀)、カマラシーラ(蓮華戒。8世紀後半)などの学僧がいたことが知られている。 |
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13世紀にイスラムによって破壊された。 | 13世紀にイスラムによって破壊された。 | ||
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寺院3には高さ31メートルの塔がある。寺院のそれぞれ、祠や小さな塔が付随している。 | 寺院3には高さ31メートルの塔がある。寺院のそれぞれ、祠や小さな塔が付随している。 | ||
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ナーランダー出身だったというシャーリプトラ(舎利弗)の塔がある。 | ナーランダー出身だったというシャーリプトラ(舎利弗)の塔がある。 |
2018年10月28日 (日) 時点における最新版
ナーランダー寺院 Nalanda | |
概要 | インド仏教の中心的寺院の一つ。 |
奉斎 | |
所在地 | インド共和国ビハール州 |
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目次 |
概要
ナーランダー寺院は、インド仏教の中心的寺院の一つ。廃絶。施無厭寺、那爛陀寺。かつてはインド仏教教学の中心で、しばしば「世界最大の仏教大学」と言われ、最盛期にはアジア各地から集まった3000人の僧侶がいたという。ラージギルの北約11キロにある。
歴史
玄奘が記した『大唐西域記』には、ナーランダー寺院の起源と名前の由来に関して次のような伝説が記載されている。
古老に拠れば「南のマンゴー林に池があり、そこに住む龍の名をナーランダーという。池の側に寺院を建てたのでその名前を取った」という。しかし、実際には、「釈迦が国王となってこの地を都とした。衆生を憐れみ、施しをすることを楽しんだ。よって施無厭(ナーランダー)と呼んだ。その地はもともとマンゴー林であったが、500人の商人が10億で買って釈迦に寄進した。」という。
玄奘によると、さらにナーランダー寺院の周辺には100箇所に及ぶ釈迦の聖跡があるという。
原始仏教の経典にはこのような記述はなく、ナーランダー寺院が仏教の中心的役割を果たす時代にできた伝説だろう。ただし、釈迦がナーランダーを舞台に説法することが『阿含経』には12箇所出てくるという。しかし、ナーランダーが特に重要視されていたわけではないらしい。
実際にナーランダー寺院が創建されたのは、5世紀初頭のグプタ王朝のシャクラーディトヤ王(クマーラグプタ王)による。グプタ王朝の滅亡後も、ハルシャ王朝(7世紀)、パーラ王朝(8世紀-12世紀)の庇護を受けた。パーラ王朝初代のゴーパーラ王が拡張した。 教学研究の中心的存在となり、インド全土はもちろん、諸国から修行僧、学僧が訪れた。ダルマパーラ(護法、530‐561)、シーラバドラ(戒賢、6世紀)、護月、グナマティ(徳慧)、スティラマティ(堅慧、安慧、470?-550?、または510‐570ころ)、光友、勝友、智月、唐の玄奘、唐の義浄(635-715)、善無畏(637-735)、シャーンタラクシタ(寂護、8世紀)、カマラシーラ(蓮華戒。8世紀後半)などの学僧がいたことが知られている。
特に7世紀には唐の玄奘が訪れたことは有名。また8世紀、チベットにシャーンタラクシタらが招聘され、チベット仏教の基礎を築いた。
13世紀にイスラムによって破壊された。
現在、遺跡に周辺には、ナーランダー博物館や玄奘記念堂がある。
境内
現在、5つの寺院と10の僧院の遺構が確認されている。しかし発掘されているのは一部に過ぎない。
- 僧院1
- 僧院1A
- 僧院1B
- 寺院2
- 寺院3
- 僧院4
- 僧院6
- 僧院7
- 僧院8
- 僧院9
- 僧院10
- 僧院11
- 寺院12
- 寺院13
- 寺院14
(名称は神谷武夫『インド建築案内』による。5番が欠番だが、不詳。)
寺院3には高さ31メートルの塔がある。寺院のそれぞれ、祠や小さな塔が付随している。 僧院はいずれも50-60メートル四方の規模を持ち、中庭を囲むように配置され、もともと2-3階建てだったと推定されている。
ナーランダー出身だったというシャーリプトラ(舎利弗)の塔がある。
- 玄奘記念堂:1957年に中国仏教代表団が、インド政府に玄奘の舎利と経典を寄贈。玄奘記念堂の建設が計画されたが、実現しなかった。2005年に建設を再開。中国・インド友好年の2007年に竣工式を行った。
画像
参考文献
- 神谷武夫『インド建築案内』
- 関稔「仏陀とナーランダー」[1]