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七条仏所
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
七条仏所
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[[file:七条仏所跡1.jpg|thumb|400px|七条仏所跡を示す立て札]] [[ファイル:東山長楽寺・03金光寺関係墓碑008七条仏所慶派供養塔.jpg|thumb|400px|[[東山長楽寺]](金光寺を併合)にある慶派仏師の供養塔]] '''七条仏所'''は京都の七条東洞院(京都府京都市下京区材木町)にあった[[造仏所]]。[[定朝]]の子の覚助に始まる。この仏師集団の流れを'''慶派'''という。鎌倉時代初頭の運慶の頃に京都七条を拠点とした。現在の[[真宗本廟]]の近く、枳殻邸の南側のあたり。康弁が[[他阿呑海]]に定朝の邸宅跡を寄進し、[[京都七条・金光寺]]を創建したという。のち七条中仏所、七条東仏所、七条西仏所に分裂。天正年間、[[豊臣秀吉]]の都市改造で四条烏丸に移ったという。[[興福寺]]大仏師職や[[東寺]]大仏師職を世襲したという。 <gallery widths="200" heights="150" perrow="3"> file:七条仏所跡3.jpg|七条仏所跡地周辺。立て札以外には記念碑や遺構はない。 file:七条仏所跡2.jpg|立て札の下に置かれている燈篭。無関係か。 </gallery> ==仏師== *覚助(?-1077):[[定朝]]の子または弟子。 *頼助(1054-1119):覚助の子。定朝の孫。拠点を京都から南都に移す。 *康助(生没年不詳):頼助の子。定朝の曾孫。豪助。[[蓮華王院]]三十三間堂の千体観音を作ったという。 *康朝(生没年不詳):康助の子。定朝の玄孫。 *成朝(生没年不詳):康朝の子。鎌倉に下り、幕府とのつながりを築き、のちの慶派の興隆を基礎となる。興福寺大仏師。 *康慶(生没年不詳):康朝の弟子。成朝が鎌倉に下った後、京都・南都での中心的存在となる。 *[[運慶]](?-1223):康慶の子。初代の東寺大仏師。この頃、京都に七条仏所を構えたか。 *[[快慶]](生没年不詳):康慶の弟子。安阿弥陀仏。 *湛慶(1173-1256):運慶の長男。東寺大仏師。 *康運(生没年不詳):運慶の次男。 *康弁(生没年不詳):運慶の三男。[[他阿呑海]]に帰依したという伝承がある。 *康勝(?-1237):運慶の四男。東寺大仏師。 *栄快(生没年不詳):快慶の弟子。興福寺大仏師。 *康円(1207-?):康運の子。湛慶の後継者。東寺大仏師。康縁、幸縁。 *性慶():興福寺大仏師。 *康俊(生没年不詳):南朝との関係が深い。東寺大仏師。興福寺大仏師。 *康誉(生没年不詳):北朝との関係が深い。七条西仏所の祖とされる。東寺大仏師。 *康成():康俊の子。南朝との関係が深い。興福寺大仏師。 *俊慶():興福寺大仏師。 *湛勝():興福寺大仏師。 *順慶():興福寺大仏師。 *寛慶():興福寺大仏師。 *慶秀():興福寺大仏師。 *舜慶():興福寺大仏師。 *湛誉():興福寺大仏師。 *康秀(): *21康正(1534-1621):康秀の子。七条仏所21代という。 *22康猶():康正の子。1632年死去。 *23康音():康猶の子。1682死去。84 *24康知(?-1661):康猶の猶子。 *25康乗():康知の子。 *26康祐(?-1689):康知の弟子。七条仏所中興。東寺大仏師(七条仏師では最後)。 *27 *28 *29 *30康伝(1733-1793): *31康朝(1759-1818): *32康勝():康朝の子。 *33康布():康朝の子。 *34康敬():康朝の子。33世を称す。 *35康教(): [[category:京都府]]
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