ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
中宮寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
中宮寺
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
'''中宮寺'''(ちゅうぐうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある、[[聖徳太子]]ゆかりの[[南都仏教]]の[[尼門跡寺院]]。[[法相宗]]系[[聖徳宗]][[南都仏教の本山寺院|門跡寺院]]。[[聖徳太子建立七寺]]の一つで、用明天皇皇后の菩提寺。本尊は、[[如意輪観音]]。[[法隆寺]]東院に隣接するが、創建当初は東550mの地にあった。近くに[[中宮寺宮墓地]]がある。'''中宮寺門跡'''。'''斑鳩御所'''。'''鵤尼寺'''。'''法興尼寺'''。'''法興山'''。 ==歴史== [[聖徳太子]]が母后のため、皇后の宮殿を改めて寺院としたのが起源。元は現在地から東約550mのところにあった。発掘調査で四天王寺式伽藍だったと判明している。平安時代には衰退。康和3年(1101)から天承元年(1131)まで金堂と塔を修理した記録があるが、寺史はほとんど分からない。鎌倉時代の文永年間に[[叡尊]]弟子の'''信如'''が復興。文永11年、法隆寺の蔵から『天寿国繡帳』を発見した。室町時代に再び衰退し、延慶2年(1309)に火災。天文年間、現在地に移転。江戸時代には皇室からの入寺が慣例となった。宗派は法相律宗を称していたという。古くから[[法隆寺]]の末寺だったが明治以後、[[真言宗]][[長谷寺]]の末寺となり、明治16年には[[泉涌寺]]に所属した。昭和25年、法隆寺が[[法相宗]]を離脱して[[聖徳宗]]を立てると、昭和28年3月10日、その末寺に加わった。昭和43年、現在の本堂を再建した。(国史大辞典ほか) ==組織== ===住職=== *信如(1211-?):中興。[[法華寺]]、正法寺、中宮寺の長老を歴任。最初は法華寺で得度。興福寺慈性院にいた。天寿国繡帳を再発見。没年不明。 ===住職=== *1尊智女王(1527-1602):門跡初代。中宮寺を現在の場所に移転。伏見宮貞敦親王王女。慈覚院宮。高祐尊智。[[中宮寺宮墓地]]。 *2尊覚女王(-1694):伏見宮邦房親王王女。1620年、入寺、1626年得度。高秀尊覚。慈照院宮。中宮寺宮墓地。 *3高栄女王(1661-1722)後西天皇皇女。慈雲院宮。1667年入寺、1669年得度。尊秀高栄。中宮寺宮墓地。 *4栄恕女王(1749-1776):有栖川宮職仁親王王女。1756年、入寺。1761年得度。慈眼院宮。尊珍栄恕。中宮寺宮墓地。 *淑宮:職仁親王王女。入寺せず。[[大聖寺門跡]]へ。 *5英暉女王(1792-1845):有栖川宮織仁親王王女。慈心院宮。尊照栄暉(?)。1802年入寺。1806年得度。中宮寺宮墓地。 *6成淳女王(1834-1865):最後の皇族住職。伏見宮貞敬親王王女。1845年入寺。1847年得度。尊澄成淳。慈明院宮。中宮寺宮墓地。 ===住職=== *亭倫心誠(1831-1891):辰巳家出身。慈尊院 *教明恵秀(1847-1923):辰巳家出身。真光院。 *近衛尊覚(1866-1959):平松子爵家出身。1890年得度。慈光院尊覚心雄。 *一条尊昭(1919-)<1944-1954>:平松子爵家出身。尊覚の姪。門跡となるが、1954年還俗し、一条家とも離縁する。 *六条照伝(-1960)<1955-1960>:六条子爵家出身。[[道明寺]]住職が本務。1955年入寺。慈尊院真龍照伝。 *(代務)原田智明(-1963)<1960-1963>: *(代務)石田覚淳()<1963-1964>: *日野西光尊(1930-)<1964->:1960年得度。1972年佛教大学卒。 (高田良信『中宮寺法輪寺法起寺の歴史と年表』) == 参考文献 == 『日本仏教基礎講座』 [[category:奈良県]]
中宮寺
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ