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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

中宮寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年10月14日 (日)

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中宮寺(ちゅうぐうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある、聖徳太子ゆかりの南都仏教尼門跡寺院法相宗聖徳宗門跡寺院聖徳太子建立七寺の一つで、用明天皇皇后の菩提寺。本尊は、如意輪観音法隆寺東院に隣接するが、創建当初は東550mの地にあった。近くに中宮寺宮墓地がある。中宮寺門跡斑鳩御所鵤尼寺法興尼寺法興山法隆寺関連旧跡

目次

歴史

聖徳太子が母后穴穂部間人皇女のため、皇后の宮殿中宮を改めて寺院としたのが起源(『聖徳太子伝暦』)。創建時期は皇后の生前とも皇后の死後とも伝える。元は現在地から東約550mのところにあった。発掘調査で四天王寺式伽藍だったと判明している。「中宮」の名は葦垣宮岡本宮斑鳩宮の真ん中に位置したことに由来するという。平安時代には衰退。康和3年(1101)から天承元年(1131)まで金堂と塔を修理した記録があるが、寺史はほとんど分からない。鎌倉時代の文永年間に叡尊弟子の信如が復興。文永11年、法隆寺の蔵から『天寿国繡帳』を発見した。また弘長2年(1262)勤行清規を制定、弘安4年(1281)、梵網会を始めた。

室町時代に再び衰退し、延慶2年(1309)に火災。天文年間、伏見宮貞敦親王王女の尊智女王が入寺。現在地に移転したのも同じ天文年間とみられている。以後、皇室からの入寺が慣例となり門跡寺院となった。 慶長9年、徳川家康が修復。元禄年間にも修復している。江戸時代、宗派は法相律宗を称していたという。宝永4年、朱印地46石。古くから法隆寺の末寺だったが明治以後、真言宗長谷寺の末寺となり、明治16年には泉涌寺に所属した。昭和25年、法隆寺が法相宗を離脱して聖徳宗を立てると、昭和28年3月10日、その末寺に加わった。昭和43年、現在の本堂を再建した。

旧地の発掘調査が行われ、昭和38年、金堂跡と塔跡、昭和47年、寺地西端を確認した。四天王寺式伽藍配置と判明した。 (国史大辞典、日本歴史地名大系ほか)

組織

古代の運営方法は不詳。

中宮寺長老(鎌倉時代)

  • 信如(1211?-?)<>:中宮寺中興。法華寺、中宮寺の長老を歴任。大和・正法寺を創建。1211年(建暦1年)生。1219年(承久1年)11月5日生説もある(『霊鷲山院勤行事』)。唐招提寺覚盛について出家。法華寺で得度。興福寺慈性院にいた。1262年(弘長2年)、中宮寺に入寺。同年、『霊鷲山院勤行事』を著す。1272年(文永9年)2月26日、行方不明の天寿国繡帳を法隆寺綱封蔵で再発見。1275年(建治1年)、修復した天寿国繡帳を開眼。同時に複製も製作。1282年(弘安5年)までは活動記録があるが没年不明。

中宮寺門跡(江戸時代)

門跡としては六代続き、全員が、中宮寺宮墓地に埋葬された。「住職」としての在任期間はいずれもはっきりしないが、仮に前任者死去年もしくは入寺年を起点とし、死去までを在任期間とした。

  • 1高祐尊智女王(1527-1602)<-1602>:門跡初代。中宮寺を現在の場所に移転。伏見宮貞敦親王王女。1602年(慶長7年)3月18日死去。中宮寺宮墓地。慈覚院宮。
  • 2高秀尊覚女王(-1694)<1620-1694>:伏見宮邦房親王王女。1620年(元和6年)入寺、1626年(寛永3年)得度。1694年(元禄7年)6月15日死去。中宮寺宮墓地。慈照院宮。
  • 3尊秀高栄女王(1661-1722)<1694-1722>:後西天皇皇女。1667年(寛文7年)11月入寺、1669年(寛文9年)11月得度。1700年(元禄13年)3月24日叡福寺参詣。1722年(享保7年)2月26日死去。62歳。中宮寺宮墓地。慈雲院宮。
  • 4尊珍栄恕女王(1749-1776)<1756-1776>:有栖川宮職仁親王王女。桃園天皇猶子。1756年(宝暦6年)2月15日入寺。1761年(宝暦11年)3月30日得度。1769年(明和6年)3月10日法隆寺北室院で灌頂。1772年(安永1年)3月11日受戒。1776年(安永5年)5月18日死去。中宮寺宮墓地。慈眼院宮。
  • 大儀文成女王(1787-1846)<入寺せず>:有栖川宮織仁親王王女。淑宮。1788年(天明8年)11月、一旦後継者に決まるが入寺せず。大聖寺門跡へ。のち円照寺門跡5世。
  • 5尊照栄暉女王(1792-1845)<1802-1845>:有栖川宮織仁親王王女。1792年(寛政4年)12月16日生。千鶴宮。1802年(享和2年)4月16日入寺。1806年(文化3年)4月28日得度。1810年(文化7年)11月8日、法隆寺北室院で灌頂。1845年(弘化2年)5月12日死去。54歳。中宮寺宮墓地。慈心院宮。
  • 6尊澄成淳女王(1834-1865)<1845-1865>:最後の皇族住職。伏見宮貞敬親王王女。有栖川宮韶仁親王の猶子。1845年(弘化2年)10月7日入寺。1847年(弘化4年)得度。1865年(慶応1年)死去。慈明院宮。中宮寺宮墓地。

尊照栄暉女王まで『比丘尼御所諡号考』も参照。

中宮寺住職(近代)

  • 亭倫心誠(1831-1891)<>:辰巳家出身。慈尊院
  • 教明恵秀(1847-1923)<>:辰巳家出身。真光院。
  • 近衛尊覚(1866-1959)<>:平松子爵家出身。1890年(明治23年)7月17日得度。慈光院尊覚心雄。1959年(昭和34年)8月16日死去。
  • 一条尊昭(1919-)<1944-1954>:平松子爵家出身。尊覚の姪。1919年(大正8年)3月25日生。門跡となるが、1954年(昭和29年)還俗し、一条家とも離縁する。
  • 六条照伝(-1960)<1955-1960>:六条子爵家出身。道明寺住職が本務。1955年(昭和30年)5月15日入寺。慈尊院真龍照伝。1960年(昭和35年)8月17日死去。
  • (代務)原田智明(-1963)<1960-1963>:
  • (代務)石田覚淳()<1963-1964>:
  • 日野西光尊(1930-)<1964->:1960年(昭和35年)12月入寺。翌年3月24日得度。1964年(昭和39年)就任。1972年(昭和47年)佛教大学卒。

(高田良信『中宮寺法輪寺法起寺の歴史と年表』ほか)

参考文献

『日本仏教基礎講座』

http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE%E5%AF%BA」より作成

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