ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

近衛家の祭祀

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年10月25日 (日)

近衛家から転送)
移動: 案内, 検索

近衛家藤原氏北家。藤原基実を始祖とする。五摂家(近衛家九条家鷹司家一条家二条家)の一つで、筆頭とされる。藤原氏とされるが、第18代当主の近衛信尋は後陽成天皇の皇子であり、その子孫が代々継承していることから皇別摂家という呼ばれ方もする。始祖の基実の邸宅が近衛通沿いにあったため、近衛家と称するようになる。また御所の陽明門のことを近衛御門ともいうため、近衛家のことを陽明家ともいうようになった。資料が陽明文庫に伝わる。幕末の家領は堂上家最高の2860石。

目次

諸家・社寺との関係

武家では豊臣氏島津家津軽家と姻戚あるいは猶子関係を結んだ。 寺家では藤原氏の菩提寺である法相宗興福寺一乗院門跡を管轄した。一乗院と関係が深い真言宗大覚寺門跡も戦国時代の義俊以降は幕末まで皇族でなければ近衛家出身者だった。黄檗宗を含む臨済宗と関係が深く、大徳寺を主な菩提寺とする。宇治・万福寺は近衛家領が収公されて建てられた。天台宗実相院門跡寺院になれたのは静基が近衛家出身であるためである。近衛家出身の僧としては日蓮宗本満寺開山日秀や修験道本山派の教団形成の立役者となった聖護院門跡道興がいる。浄土真宗東本願寺の歴代住職は維新まで近衛家の猶子となった。専修寺住職の常磐井家は近衛家の子孫である。法華寺三時知恩寺も近衛家の女性が多く入寺した。

日蓮宗本満寺は近衛家の邸宅を寺にしたものと伝え、浄土宗不断光院は邸宅の持仏堂という。 また宇佐神宮が近衛家を本所と仰いだ。


歴代当主

  • 1近衛基実(1143-1166):藤原忠通の子。1143年(康治2年)生。弟に九条兼実がいる。室は平清盛娘の盛子。父と後白河天皇の支持を得て異例の速さで出世。1158年(保元3年)、16歳で関白・氏長者。左大臣。1165年(永万1年)摂政。1166年(仁安1年)24歳で早世。贈正一位太政大臣。六条殿。墓所は不詳。
  • 2近衛基通(1160-1233):藤原基実の長男。1160年(永暦1年)生。1179年(治承3年)、平清盛や後白河法皇の支持を得て関白となる。木曽義仲が実権を握ると退任するが、のち摂政に復す。平家と近かったため源頼朝から遠ざけられたものの九条兼実の失脚で1196年(建久7年)関白となる。1198年(建久9年)摂政。明恵に帰依し、高山寺を庇護する。1202年(建仁2年)、京都府京田辺市の普賢寺(現観音寺)に隠棲。1233年(天福1年)同地で死去。孫に実相院門跡静基がいる。法名は普賢寺殿行理。白川殿。普賢寺近くに墓所がある。
  • 3近衛家実(1179-1242):1179年(治承3年)生。左大臣。1206年(建永1年)摂政・氏長者。同年関白。1221年(承久3年)太政大臣。従一位。娘に鷹司院(長子。後堀河天皇中宮)がいる。日記『猪熊関白記』。1242年(仁治3年)死去。猪熊殿。法名は円心。墓所は不詳。
  • 4近衛兼経(1210-1259):鎌倉将軍惟康親王の外祖父。1210年(承元4年)生。弟に鷹司兼平(鷹司家の始祖)。1227年(安貞1年)右大臣。1235年(嘉禎1年)左大臣。1237年(嘉禎3年)摂政。1238年(暦仁1年)左大臣辞任。1240年(仁治1年)から翌年まで太政大臣。後嵯峨天皇即位で関白。1247年(宝治1年)後深草天皇の摂政。定真(明恵の弟子)のもとで出家。和歌や有職故実に通じる。子に一乗院門跡の信昭、将軍宗尊親王室の宰子(将軍惟康親王生母)がいる。日記『岡屋関白記』がある。1259年(正元1年)死去。通称は岡屋殿。法名は真理。墓所は高山寺近くの深瀬墓地にある他、宇治市の二子塚古墳(西方寺旧境内)にある石塔が伝承地。高山寺に僧形御影が伝わる。
  • 5近衛基平(1246-1268):1246年(寛元4年)生。右大臣。1265年(文永2年)左大臣。1267年(文永4年)関白・氏長者。従一位。1268年(文永5年)23歳で死去。日記『深心院関白記』。浄土宗浄音と関係か。1268年(文永5年)死去。法名は深心院殿・西谷院。墓所は御室西谷の新光明寺にあった深心院法華堂(廃絶)。
  • 6近衛家基(1261-1296):1261年(弘長1年)生。右大臣。1289年(正応2年)関白・氏長者。従一位。1296年(永仁4年)死去。号は高山寺殿または浄妙寺殿。墓所は高山寺近くの深瀬墓地にある他、甲賀・大光寺にも伝承地がある。
  • 7近衛経平(1287-1318):近衛家基次男。1287年(弘安10年)生。母は亀山天皇皇女。内大臣、右大臣を経て1316年(正和5年)左大臣。従一位。1318年(文保2年)32歳で死去。法名は後浄妙寺殿。墓所は甲賀の大光寺に伝承地がある。
  • 8近衛基嗣(1305-1354):1305年(嘉元3年)生。1331年(元弘1年/元徳3年)左大臣。1337年(延元2年/建武4年)関白・氏長者。従一位。虎関師錬に帰依して楞伽寺を創建。虎関師錬による東福寺海蔵院の開創にも関わった。1354年(正平9年/文和3年)死去。通称は後岡屋殿。墓所は不詳。
  • 9近衛道嗣(1332-1387):近衛基嗣の子1332年(元弘2年/正慶1年)生。。右大臣、左大臣などを経て1361年(正平16年/康安1年)関白・氏長者。従一位。浄土宗三福寺覚空に帰依。子に日蓮宗本満寺開山日秀がいる。日記『愚管記』。1387年(元中4年/嘉慶1年)死去。56歳。法名は後深心院殿。菩提寺は本満寺という。
  • 10近衛兼嗣(1360-1388):1360年(正平15年/延文5年)生。右大臣。1387年(元中4年/嘉慶1年)摂政・氏長者。従一位。1388年(元中5年/嘉慶2年)29歳で早世。号は後六条殿。墓所は不詳。
  • 11近衛忠嗣(1383-1454):近衛兼嗣の子。1383年(弘和3年/永徳3年)生。左大臣。1408年(応永15年)関白・氏長者。従一位。初名は近衛良嗣。1454年(享徳3年)死去。号は後普賢寺殿。墓所は不詳。
  • 12近衛房嗣(1402-1488):近衛忠嗣の長男。1402年(応永9年)生。1445年(文安2年)関白・氏長者。1461年(寛正2年)太政大臣。従一位。日記に『後知足院殿記』。子に聖護院門跡道興。1488年(長享2年)死去。法名は後知足院殿大通。
  • 13近衛政家(1444-1505):近衛房嗣次男。1444年(文安1年)生。1479年(文明11年)関白・氏長者。同年左大臣。1488年(長享2年)太政大臣。従一位。日蓮宗本圀寺の立像釈迦を篤く信仰したという。日記『後法興院政家記』。1505年(永正2年)死去。法名は後法興院殿大智。墓所は不詳。
  • 14近衛尚通(1472-1544):近衛政家の子。1472年(文明4年)生。室町将軍足利義昭の外祖父。1493年(明応2年)関白・氏長者。1514年(永正11年)太政大臣。従一位。子に一乗院門跡の覚誉、大覚寺門跡の義俊、聖護院門跡の道増、将軍足利義晴室がいる。宗祇から古今伝授を受ける。日蓮宗本満寺を再建。日記『尚通公記』。1544年(天文13年)死去。法名は後法成寺殿大証。墓所は不詳。
  • 15近衛稙家(1503-1566):1503年(文亀3年)生。左近中将、左大将、右大臣、関白、太政大臣、准三宮。子に聖護院門跡で方広寺住職の道澄がいる。猶子に将軍足利義昭がいる。1566年(永禄9年)死去。法名は恵運院殿大円。墓所は不詳。
  • 16近衛前久(1536-1612):後水尾天皇外祖父。1536年(天文5年)生。1541年(天文10年)従三位。1546年(天文15年)後奈良天皇の猶子。1553年(天文22年)右大臣、翌年関白・左大臣。1580年(天正8年)石山合戦で籠城する本願寺教如との調停に当たる。1582年(天正10年)太政大臣。豊臣秀吉を猶子とする。子に一乗院門跡の尊勢や法華寺門跡三時知恩寺を中興した久山昌隆、中和門院(前子、後陽成天皇女御、後水尾天皇生母)がいる。前名は近衛晴嗣、近衛前嗣。1612年(慶長17年)死去。法名は東求院殿龍山空誉。墓所は東福寺海蔵院にあったが、のち大徳寺に移された。
  • 17近衛信尹(1565-1614):寛永の三筆の一人。1565年(永禄8年)生。21歳で従一位左大臣。1594年(文禄3年)で薩摩配流。この時、浄土宗の清誉が随行し、薩摩・不断光院を開いた。のち帰洛して関白・氏長者。准三宮。前名は近衛信基、近衛信輔。1614年(慶長19年)死去。法名は三藐院殿同徹大初。墓所は臨済宗東福寺海蔵院にあったが、のち大徳寺に移された。
  • 18近衛信尋(1599-1649):後陽成天皇第四皇子。近衛信尹の甥で養子。母は中和門院(近衛信尹妹の前子)。1599年(慶長4年)生。1606年(慶長11年)従三位。1612年(慶長17年)内大臣。1614年(慶長19年)右大臣。1620年(元和6年)左大臣。1623年(元和9年)関白。1629年(寛永6年)関白左大臣を辞任。1645年(正保2年)出家。娘は東本願寺琢如の室となる。沢庵と交流。1649年(慶安2年)死去。法名は本源自性院殿応山大云。日記は『本源自性院記』。墓所は大徳寺。
  • 19近衛尚嗣(1622-1653):近衛信尋の子。1622年(元和8年)生。正室は後水尾天皇皇女の昭子内親王。左大臣。1651年(慶安4年)関白・氏長者。従一位。1653年(承応2年)死去。法名は妙有真空院殿長山大元。墓所は不詳。
  • 20近衛基煕(1648-1722):1648年(慶安1年)生。母は後水尾天皇の女二宮。権大納言、右大臣、1677年(延宝5年)左大臣。1690年(元禄3年)関白。1709年(宝永6年)太政大臣。1722年(享保7年)出家。娘の煕子は将軍徳川家宣の室となった。日記『基煕公記』。隠元隆琦に帰依。一様院を再興。京都西王寺を創建。1722年(享保7年)死去。法名は応円満院悠山証岳。墓所は大徳寺。
  • 21近衛家煕(1667-1736):桜町天皇外祖父。1667年(寛文7年)生。摂政。太政大臣。准三宮。母は後水尾天皇皇女の常子内親王。子に大覚寺門跡信性、新中和門院(尚子。中御門天皇女御)がいる。百拙元養に帰依して鳴滝法蔵寺を祈願所とし復興。言行録『槐記』がある。1736年(元文1年)死去。法名は予楽院殿真覚虚舟。墓所は大徳寺。三時知恩寺に御影画像が伝わる。
  • 22近衛家久(1687-1737):1687年(貞享4年)生。母は憲子内親王(霊元天皇皇女)。左大臣。1726年(享保11年)関白・氏長者。1733年(享保18年)太政大臣。従一位。日記『家久公記』。娘の通子(宝蓮院)は田安宗武の正室となる。猶子に三時知恩寺尊信女王。1737年(元文2年)死去。法名は如是観院殿静山大寂。墓所は大徳寺。
  • 23近衛内前(1728-1785):1728年(享保13年)生。1757年(宝暦7年)関白・氏長者。翌年、竹内式部を糾弾し処分につながる(宝暦事件)。摂政。1768年(明和5年)太政大臣。従一位。日記に「内前公記」。室は吉田家21代吉田良倶の娘。子に後桃園天皇女御の盛化門院(維子)。1785年(天明5年)死去。法名は大解脱院殿鳳悟黄中。墓所は大徳寺。
  • 24近衛経煕(1761-1799):近衛内前の子。1761年(宝暦11年)生。内大臣。1787年(天明7年)右大臣。従一位。初名は近衛師久。子に実相院門跡の義海。日記に『経煕公記』。1799年(寛政11年)死去。法名は後予楽院殿。墓所は不詳。
  • 25近衛基前(1783-1820):1783年(天明3年)生。右大臣を経て1815年(文化12年)左大臣。従一位。1820年(文政3年)死去。法名は証常楽院殿。墓所は不詳。
  • 26近衛忠煕(1808-1898):1808年(文化5年)生。1847年(弘化4年)右大臣。島津斉彬の要請で敬子(篤姫)を養女として将軍徳川家定の室とする。1857年(安政4年)左大臣。徳川慶喜の将軍擁立に動く。1858年(安政5年)内覧。辞任。1859年(安政6年)安政の大獄で左大臣を辞任。落飾謹慎に追い込まれた。1862年(文久2年)復帰・還俗して関白内覧。1863年(文久3年)関白内覧を辞任。王政復古で職務停止となる。子に専修寺常磐井堯熙、一乗院門跡春日大社宮司水谷川忠起。猶子に円照寺文孝女王、東本願寺大谷光勝。1898年(明治31年)死去。誄を賜る。法名は後三藐院殿翠山道隆。墓所は江戸寛永寺津梁院だったが大徳寺に改葬された。1904年(明治37年)贈正一位。
  • 27近衛忠房(1838-1873):1838年(天保9年)生。島津家と組んで1863年(文久3年)、父とともに八月十八日の政変を起こす。1867年(慶応3年)左大臣。従一位。神宮祭主神祇大副神道東部管長。子に専修寺22世の常磐井尭猷。日記に『忠房日記』。1873年(明治6年)死去。
  • 28近衛篤麿(1863-1904):1863年(文久3年)生。1884年(明治17年)公爵。学習院長。母は島津久光娘。貴族院議長。1904年(明治37年)死去。号は霞山。墓所は大徳寺。
  • 29近衛文麿(1891-1945):公爵。総理大臣。1891年(明治24年)生。東京帝国大学哲学科に入学。京都帝国大学法科に転じる。1933年(昭和8年)貴族院議長。1937年(昭和12年)、総理大臣。1939年(昭和14年)総辞職。枢密院議長。1940年(昭和15年)総理大臣。1941年(昭和16年)総理大臣。総辞職。1945年(昭和20年)12月16日、敗戦で戦犯容疑者の指名を受け、自殺。法名は荻外院殿象山道賢。墓所は大徳寺。
  • 30近衛文隆():
  • 31近衞忠煇():
  • (近衞忠大)():

祖先祭祀

霊廟

菩提寺

墓所

関係寺院

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%80」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール