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本圀寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年11月26日 (土)
本圀寺(ほんこくじ)は、京都府京都市山科区にある日蓮宗の本山寺院。洛中法華二十一寺の一つ。日蓮宗久遠寺派の大本山。六条門流の拠点寺院。松葉谷の草庵の後身とされる。本圀寺求法院に檀林があった。後醍醐天皇勅願所。関東祈祷所。足利家、日野家、花山院家との関係が深い。山号は大光山。通称は光山。
目次 |
歴史
発祥は鎌倉にある祖師の庵
日静(1298-1369)が鎌倉本勝寺を京都の堀川に移して本国寺と称したのが起源とされる(近世まで本国寺と称すが、紛らわしいため本圀寺と表記する)。日静は上杉頼重の子であり、足利尊氏の叔父ともいわれる。本勝寺は日蓮が住んだ松葉谷の草庵の後身とされ、伊豆法難の際に得た「立像釈迦」を祀っていたという。1274年(文永11年)に日蓮は寺を日朗に与え、日蓮の死後、日朗はこの寺に移り、檀越の工藤長勝と共に修復。1307年(徳治2年)、鎌倉将軍久明親王が寺地を与え、将軍家祈願所としたという。1328年(嘉暦3年)後醍醐天皇の勅願所となり、1345年(興国6年/貞和1年)、光明天皇の勅で、京都堀川六条に移転した。日祐という僧侶が1337年(建武4年)に日静を鎌倉から京都に招いたのが起源だとする異伝もある。
洛中での巨大寺院に発展
京都では本圀寺より先に妙顕寺を中心とする四条門流が勃興していたが、本圀寺は、立像釈迦、三通御赦免状、日蓮真筆立正安国論を「三箇霊宝」と称して日蓮法脈の「正嫡」であることを強調して対抗。六条門流を形成した。
日静門下の日伝の時代から貴族との関係を深めた。日伝は日野家の猶子となり、以後、歴代貫首は日野家か花山院家の猶子となることが多かった。また日伝には関白近衛道嗣(1332-1387)の子が帰依して日秀と名乗り、1409年(応永16年)近衛家の邸宅が寄進されて本満寺となった。関白近衛政家(1444-1505)は本圀寺の立像釈迦を篤く信仰した。日伝の兄弟弟子の日陣が勝劣義を唱えて分立し本禅寺などの日陣門流も生まれた。
京都の日蓮宗では洛中法華二十一寺と呼ばれる有力寺院が生まれたが、その中でも妙顕寺と共に中心的存在であった。
天文法難と徳川家の庇護
武家の帰依も得て長禄年間、太田道灌が番神堂を寄進。松永久秀が三光堂を寄進。太田道灌の子の太田資高が輪蔵を造立。1501年(文亀1年)、細川政元が本圀寺と浄土宗妙講寺に宗論させ、勝利した本圀寺から受法する。1527年(大永7年)、室町将軍足利義晴が本圀寺に滞在。この頃には寺は要害と化していた。1536年(天文5年)の天文法難で被災。堺・成就寺に疎開した。 1542年(天文11年)、帰洛の勅許。 ただちに大徳寺の傍らに庵を建てて再建のための勧進を始めた。
1547年(天文16年)8月には本堂などを再建して本尊遷座式を行った。 1548年(天文17年)、八条猪熊にあった戒光寺の薬師堂を移築して祖師堂とした。 1563年(永禄6年)、将軍足利義輝の計らいで門跡寺院への指定を狙ったが延暦寺の反対で頓挫した。 1564年(永禄7年)、十六本山会合定書を締結。
1568年(永禄11年)9月、織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京すると10月には本圀寺が将軍御所となった。1569年(永禄12年)1月5日、本圀寺の変。織田信長が京都を離れた隙に三好三人衆が本圀寺を襲撃し、将軍暗殺を図ったが敗退した。
1579年(天正7年)5月、織田信長は安土宗論で日蓮宗が浄土宗に敗れたのを名目に本圀寺などの日蓮宗諸寺を破却しようとしたが、実現しなかった。
1585年(天正13年)、豊臣秀吉から朱印地177石を寄進された。 1590年(天正18年)、秀吉の姉の日秀尼が立像堂と大客殿などを建立するなど栄えたが、1591年(天正19年)、本願寺の京都移転のため境内の南側を上地させられた。
1615年(元和1年)徳川家康が寺領を安堵。 1624年(寛永1年)本堂再建。 1685年(貞享2年)徳川光圀が本圀寺で母の追善を行い、厚く庇護した。「本国寺」から「本圀寺」と改称したのは徳川光圀の帰依によるものと言われるが、それ以前から「本圀寺」と称していたという説もある。
1788年(天明8年)1月30日の「天明の大火」で伽藍焼失。焼け残ったのはわずかだが、このうち経蔵は現存している。
1788年(天明8年)8月、千本中立売の大黒堂を移築して刹堂とし、1794年(寛政6年)小客殿、1799年(寛政11年)鐘堂、1802年(享和2年)大客殿、1808年(文化5年)高麗門・仁王像、1811年(文化8年)仁王門を再建。勧進のため1814年(文化11年)江戸・法恩寺で本尊出開帳。1815年(文化12年)立像堂、1818年(文政1年)祖師堂、1859年(安政6年)清正堂を再建した。五重塔と本堂は再建されなかった。
近現代の混乱と山科移転
幕末の1863年(文久3年)、尊攘派の鳥取藩士22人が本圀寺に泊まっていた佐幕派の藩主側近3人を暗殺。本圀寺事件と呼ばれる。
明治以後、境内の再整備が行われている。1893年(明治26年)猪熊通が南進し、本圀寺境内を東西に分割した。 戦後、五条通が大幅に拡張され、境内が南北に分割された。 寺宝が無断で売却されるなどの事件・内紛が起こり寺運が衰退。 再起をかけて山科への移転が決まった。多くの日蓮宗の本山寺院が戦国の乱世に振り回されて寺地を転々としたのに対し、本圀寺は京都創立以来の場所を死守した歴史の中での苦渋の決断だった。 しかし、新地は工事が進まず、旧地は荒廃する有様で、存亡の危機を迎えたが、63世伊藤日瑞(1912-1979)らの尽力で、1971年(昭和46年)、山科の現在地に移転再興を実現した。 旧地は西本願寺の「北境内地」となり、聞法会館などが建てられた。
(日本歴史地名大系ほか)
伽藍
近世初期
1788年(天明8年)の「天明の大火」以前
- 本堂
- 祖師堂
- 立像堂
- 五重塔
- 番神社
- 三光堂
- 加藤清正供養塔
- 経蔵
- 鼓楼
- 鐘楼
- 刹堂
- 大黒堂
- 千仏堂
- 人丸社
- 客殿:妙法華院
- 仁王門
山科
- 大本堂:祖師堂を兼ねる。1971年(昭和46年)再建。
- 本師堂:本尊は釈迦如来。釈迦堂ともいう。「立像釈尊像」と呼ばれる本尊は日蓮が伊豆流罪中、伊東朝高から平癒祈願のお礼に寄進された海中出現の立像。以後、日蓮の持仏となり、日朗に授けられた。これを日印が継ぎ、本圀寺に伝わるという。
- 生御影堂:安国院とも。日蓮が居した鎌倉の松葉ケ谷の庵の名を継ぐ。
- 立教開宗旭堂:三光旭堂とも。
- 経蔵:天明の大火で唯一焼け残った。
- 鐘楼堂:
- 虚空妙見堂:妙見菩薩と虚空蔵菩薩を祀る。
- 清正宮:加藤清正を祀る。真正廟とも。加藤清正が生前に髪を埋めたという。
- 玉房稲荷堂:
- 柿本社:不詳。
- 銭洗弁天:
- 九名皐諦堂:九名皐諦尊女を祀る。九名大尊神とも。九名皐諦尊女とは十羅刹女の一。
- 大岩霊神
- 日朗顕彰碑
- 日印顕彰碑
- 日静顕彰碑
- 総門:要付関と号す。
- 赤門:出陣関。開運門。1996年(平成8年)修復。
- 仁王門:「正嫡付法」の額が掛かる。
- 妙恵会総墓地:旧地にある。
子院
現存未確認
- 勧持院:現存?本圀寺と共に東国から京都に移ったとされる四大坊の一つ。西側。紀貫之を祀る福大明神社がある。大法寺と称す。西大坊。日善(1263-1332、身延4世、宝国寺開山、碑文谷2世)が上総国あるいは上野国安中あるいは常陸国に創建。加藤清正が宿坊とした。山号は安中山。
- 松林院:現存?本圀寺と共に東国から京都に移ったとされる四大坊の一つ。東側。天霊寺と称す。東大坊。1338年(延元3年/暦応1年)、日行(1269-1330、大妙寺開山)が創建。当初は鎌倉浮田または下野国にあった。山号は天霊山。
- 戒善院:本圀寺と共に東国から京都に移ったとされる四大坊の一つ。妙階寺と称す。南大坊。1338年(延元3年/暦応1年)、日澄(1239-1326、本遠寺開山、大巧寺開山)が創建。元は上総国瀧山にあったという。
- 持珠院:本圀寺と共に東国から京都に移ったとされる四大坊の一つ。宝国寺と称す。北大坊?大善阿闍梨日範(?-1320、丹波常照寺開山)が創建。元は相模にあり、円教寺といった(現在も旧地の神奈川県座間市入谷に円教寺がある)。洛中法華二十一寺の一つ宝国寺の寺号を受け継いだか。愛媛県西宇和郡伊方町三机乙に移転して現存。
- 松陽院:現存?東側。天文法難以後の創建。
- 詮量院:天文法難以後の創建。
- 玉明院:
- 林性院:
- 本妙院:現存?西側。天文法難以後の創建。
- 玉林院:
- 智明院:
- 本実院:現存?東側。天文法難以後の創建。
- 本覚院:
- 円勝院:
- 善勝院:
- 清浄院:
- 宝珠院:
- 了光院:現存?五条通以北の西側。天文法難以後の創建。
- 智了院:現存?五条通以北の西側。1504年(永正1年)日受が創建。
- 英院:
- 一音院:現存?五条通以北の東側。天文法難以後の創建。
- 依正院:
- 一妙院:天文法難以後の創建。
- 高厳院:
- 常沈院:
- 本立院:天文法難以後の創建。
- 円住院:
- 了覚院:
- 浄信院:
- 瑞雲院:現存?五条通以北の東側。天文法難以後の創建。
- 真如院:現存?五条通以北の西側。1535年(天文4年)日映が創建。
- 大慈院:
- 久成院:現存?五条通以北の東側。天文法難以後の創建。
- 吉祥院
- 賢利院:
- 心行院:
- 円了院:
- 本栖院:天文法難以後の創建。
- 本法院:
- 智光院:現存?五条通以北の東側。1433年(永享5年)日心が創建。
- 多門院:天文法難以後の創建。
- 喜見院:
- 教龍院:
- 円教院:
- 乗降院:
- 正善院:
- 栄長院:
- 万慶院:
- 玉性院:
- 十如院:
- 春了院:
- 立正院:
- 円寿院:
- 玉雲院:
- 十法院:
- 玉泉院:
- 一雲院:
- 求法院:
(以上『政教中正論』[1])
- 円龍院:1407年(応永14年)日伝が創建。
- 林昌院:現存?西側。1530年(享禄3年)日実が創建。
- 常証院:天文法難以後の創建。
- 了円院:現存?西側。天文法難以後の創建。
- 英鏡院:天文法難以後の創建。
- 智妙院:現存?西側。天文法難以後の創建。
- 信正院:天文法難以後の創建。
(『日本歴史地名大系』、『本圀寺史料』)
- 法性寺:京都府京都市左京区田中町下柳町。元は相模にあった。本圀寺と共に京都に移転。旧地の神奈川県逗子市久木にも寺がある。末寺頭。
組織
住職
世数 | 法諱 | 号 | 字 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 日蓮 | 1222-1282 | 1282年(弘安5年)10月13日死去。61歳。 | |||
2 | 日朗 | 大国阿闍梨 | 1245-1320 | 1320年(元応2年)1月21日死去。78歳。 | ||
3 | 日印 | 摩訶一院 | 1264-1328 | 日朗門下の九老僧の一人。鎌倉本勝寺・越後本成寺・横須賀大光寺の開山。会津で死去。1328年(嘉暦3年)12月20日死去。75歳。 | ||
4 | 日静 | 妙龍院 | 大光 | 1298-1369 | 本国寺開山。六条門流の祖。駿河出身。上杉頼重の子。母は足利家の出身で、足利尊氏の叔父という伝承がある。駿河・本覚寺日位、鎌倉本勝寺日印に師事。本勝寺と本成寺を継承。1338年(延元3年/暦応1年)兄弟弟子の日祐に招かれ上京。鎌倉本勝寺を京都に移して本国寺としたという。足利尊氏の帰依を受けた。三位僧都に叙せられたという。1369年(正平24年/応安2年)6月27日死去。72歳。著書『六条要文』。門下に日伝の他、日陣門流開祖日陣、鎌倉妙法寺開山日叡がいる。 | |
5 | 日伝 | 建立院 | 大円 | 1342-1409 | 鎌倉出身。1342年(興国3年/康永1年)生。日野家の猶子。本国寺日静に師事。1369年(正平24年/応安2年)本国寺5世を継ぐ。足利義満の帰依を得る。大客殿と五重塔を建立。兄弟弟子の日陣と本迹論争。1406年(応永13年)日陣と決別。尾張・和泉で布教。尾張に萱津妙勝寺を開いた。1406年(応永13年)堺・成就寺を創建。1409年(応永16年)4月1日死去。68歳。著作に『本迹問答高広義』。門下に本満寺開山日秀がいる。 | |
6 | 日経 | 一意院 | 1395-1411 | 1411年(応永18年)1月28日死去。17歳。 | ||
7 | 日厳 | 本高院 | 1344-1414 | 1414年(応永21年)4月21日死去。71歳。 | ||
8 | 日聡 | 大周院 | 1366-1432 | 日聴1432年(永享4年)1月29日死去。67歳。 | ||
9 | 日暁 | 妙勝院 | 1413-1466 | 1466年(文正1年)2月6日死去。54歳。 | ||
10 | 日円 | 成就院 | 1423-1489 | 1489年(延徳1年)7月29日死去。67歳。 | ||
11 | 日堯 | 大聖院 | 1461-1506 | 1489-1498 | 牧家の出身。1462年(寛正3年)生。花山院家の猶子。1489年(延徳1年)本国寺を継承。1498年(明応7年)尼崎長遠寺に隠退。1506年(永正3年)5月27日死去。46歳。 | |
12 | 日了 | 勧行院 | 1450-1510 | 花山院家の猶子。僧正に任。太田道灌や松永久秀から帰依を受けたという。1510年(永正7年)8月28日死去。61歳。 | ||
13 | 日遵 | 法性院 | 1488-1521 | 太田道灌の子という。幼時から日了に師事。花山院家の猶子。父の菩提寺といて江戸・法恩寺を創建。1521年(大永1年)1月2日死去。34歳。 | ||
14 | 日助 | 蓮光院 | 1496-1553 | 花山院政長の猶子。大僧都に任じられる。1536年(天文5年)天文法華の乱で焼かれて、堺成就寺に逃れる。1549年(天文18年)京都で再建。1553年(天文22年)7月14日死去。58歳。 | ||
除歴 | 日勝 | 大友家の出身。大友家に跡継ぎがいなくなったため1575年(天正3年)に還俗したという。 | ||||
15 | 日栖 | 中道院 | 1502-1583 | 花山院家の猶子。大僧都に任じられる。1583年(天正11年)4月5日死去。82歳。 | ||
16 | 日禎 | 究意院 | 尊覚 | 1561-1617 | 常寂光寺開山。不受不施を強調し、京都方広寺大仏千僧供養に出仕を拒否した。1617年(元和3年)8月23日死去。57歳。門下に瑞龍寺門跡開山日秀。 | |
17 | 日桓 | 鷲峰院 | 尊忠 | 1579-1644 | 1644年(正保1年)11月4日死去。66歳。 | |
18 | 日運 | 乗体院 | 尊周 | 1632-1686 | ?-1669 | 六条有純の五男。今出川家の猶子。本国寺日桓に師事。飯高檀林で学ぶ。1669年(寛文9年)本成寺を末寺だと訴えたが認められず、退去を命じられた。1686年(貞享3年)11月25日死去。55歳。 |
19 | 日廷 | 一心院 | 恵哲 | 1617-1690 | 中村檀林で学ぶ。小西檀林、鷹峰檀林、中村檀林の化主を歴任。律師法橋に任じられる。徳川光圀に帰依され、水戸に招かれるが老年のため赴かなかった。1690年(元禄3年)8月20日死去。74歳。 | |
20 | 日隆 | 隆源院 | 春山 | 1650-1698 | 本圀寺20世。妙覚寺30世。久昌寺2世。中村24世。六条15世。隆源院。春山。1698年(元禄11年)3月5日死去。49歳(59歳とも、31歳とも)。 | |
21 | 日輝 | 尊明院 | 尊明 | 1684-1713 | 1713年(正徳3年)11月8日死去。30歳。 | |
22 | 日従 | 信解院 | 通心 | 1650-1708 | 加賀出身。日奥の法孫。瀧谷日遠に師事。中村檀林、水戸檀林で講じた。紀伊蓮心寺、京都妙覚寺を経て本圀寺に住す。大僧都法印となる。本昌寺住職。1708年(宝永5年)12月17日死去。59歳。 | |
23 | 日宣 | 忍称院 | 素雲 | 1645-1714 | 1714年(正徳4年)3月16日死去。70歳。 | |
24 | 日周 | 常寂院 | 幽明 | 1647-1716 | 1716年(享保1年)10月6日死去。70歳。 | |
25 | 日詮 | 円妙院 | 恵中 | 1645-1723 | 中村檀林で学び、松崎檀林化主となる。平賀本土寺を経て本圀寺に住す。1723年(享保8年)5月11日死去。79歳。 | |
26 | 日達 | 了義院 | 運智・智運・智鳩 | 1674-1747 | 1720-1728 | 達師法縁の祖。陸奥福島出身。1674年(延宝2年)生。要法寺系の寺院で出家したが転派。中村檀林に学び、鷹峰檀林・六条檀林・中村檀林の能化を歴任。1720年(享保5年)本圀寺貫首に就任。1728年(享保13年)隠退。他宗や神道儒教を批判する50点以上の書を著した。1747年(延享4年)2月26日死去。71歳。墓は瑞芳寺。 |
27 | 日充 | 慈光院 | 乾利 | 1679-1737 | 1737年(元文2年)9月13日死去。59歳。 | |
28 | 日鋭 | 了遠院 | 智見 | 1687-1748 | 1748年(寛延1年)10月6日死去。62歳。 | |
29 | 日解 | 唯妙院 | 春覚 | 1694-1775 | 1775年(安永4年)12月21日死去。82歳。 | |
30 | 日誠 | 体智院 | 察信 | 1697-1767 | 1767年(明和4年)1月25日死去。71歳。 | |
31 | 日長 | 合掌院 | 慈春 | 1701-1773 | 1773年(安永2年)7月19日(16日とも)死去。73歳。 | |
32 | 日厳 | 躰具院 | 孝越 | 1696-1786 | 1786年(天明6年)9月23日死去。91歳。 | |
33 | 日酋 | 首領院 | 能円 | 1726-1806 | 1806年(文化3年)2月17日死去。81歳。 | |
34 | 日脱 | 唯妙院 | 春覚 | 1728-1803 | 1803年(享和3年)5月20日死去。76歳。 | |
35 | 日陵 | 龍興院 | 観明 | 1745-1819 | 1819年(文政2年)8月11日死去。75歳。 | |
36 | 日運 | 妙用院 | 智曜 | 1755-1833 | 妙覚寺51世。1833年(天保4年)7月21日死去。79歳。 | |
37 | 日要 | 本妙院 | 栄普 | 1758-1837 | 1837年(天保8年)9月8日死去。80歳。 | |
38 | 日妙 | 明導院 | 文慶 | 1768-1843 | 1843年(天保14年)3月8日死去。76歳。 | |
39 | 日等 | 慈互院 | 智宏 | 1793-1854 | 1854年(安政1年)4月28日死去。62歳。 | |
40 | 日妙 | 本地院 | 智侃 | 1801-1878 | 厳島妙正寺住職。1878年(明治11年)10月31日死去。78歳。 | |
41 | 日満 | 融妙院 | 龍岳 | 1791-1862 | 1862年(文久2年)8月19日死去。72歳。 | |
42 | 日詔 | 立妙院 | 智由 | 1807-1864 | 1864年(元治1年)11月2日死去。58歳。 | |
43 | 日膽 | 上妙院 | 〓住 | 1800-1867 | 1867年(慶応3年)8月21日死去。68歳。 | |
44 | 日暉 | 瑞鳳院 | 麗山 | 1811-1872 | 月蔵寺、宗柏寺を歴任。東山檀林玄講680世。1872年(明治5年)4月24日死去。62歳。 | |
45 | 釈日禎 | 慈妙院 | 慈教 | 1819-1893 | 1872-1878 | 第3代日蓮宗管長。本圀寺45世。妙覚寺貫首。鶏冠井檀林化主。中村檀林化主。1819年(文政2年)生。備後出身。13歳で備後妙顕寺で得度。16歳で鶏冠井檀林に入学。中村檀林に学ぶ。鶏冠井檀林や中村檀林の化主。入谷真源寺、本所実相寺、津山妙勝寺、岡山蓮昌寺、京都妙覚寺を経て1872年(明治5年)本圀寺に晋山。1877年(明治10年)2月12日日蓮宗第3代管長。神戸本寿寺、大阪妙見寺、下関法正寺を創建。1878年(明治11年)4月、本圀寺を退任。本圀寺一音院に隠居。1893年(明治26年)6月11日死去。75歳。権中教正。(『日蓮宗本圀寺史料』) |
46 | 三村日修 | 心妙院 | 円政・宴政 | 1823-1891 | 1878-1886 | 第8代日蓮宗管長。身延75世。本圀寺46世。(略歴は久遠寺#組織を参照) |
47 | 岩村日轟 | 雷雲院 | 岩村琢円 | 1826-1904 | 1887-1902 | 第13代日蓮宗管長。本圀寺47世。肥後国玉名郡出身。1826年(文政9年)生。12歳で熊本妙栄寺で出家。のち浅草本法寺日伝に師事。小西檀林、金沢充洽園に学ぶ。帆足万里、毛利空乗に漢籍を、寛永寺慧燈に天台宗教学を日輝に日蓮宗教学を学ぶ。深川本立院住職。1870年(明治3年)12月、紀伊報恩寺18世。熊本本妙寺、韮山本立寺を歴任し、1887年(明治20年)6月16日本圀寺47世。伽藍復興に取り組む。1895年(明治28年)4月、大光山会議を開催。門末一致して永代護山法を定める。1899年(明治32年)5月、霊蹟保存会設置と興学布教を中心とする本圀寺規則を定める。1898年(明治31年)、13代日蓮宗管長。1902年(明治35年)小田原大乗寺に隠居。1904年(明治37年)5月5日死去。79歳。大僧正。書道詩文を好む。(『日蓮宗本圀寺史料』) |
48 | 旭日苗 | 上正院 | 恵聴、恵聡 | 1833-1916 | 1902-1914 | 第18代日蓮宗管長。本圀寺48世。妙覚寺貫首。求法講院玄文講主。日蓮宗海外宣教会会長。越後国西蒲原郡出身。1833年(天保4年)生。11歳で長岡家に仕え、中川家を継承。15歳で1848年(嘉永1年)角田妙光寺日〓のもとで得度。1849年(嘉永2年)中村檀林に入る。1865年(慶応1年)東山檀林に学ぶ。1873年(明治6年)求法講院の玄文講主。越後常顕寺、越前常妙寺、小倉蓮蔵寺、佐賀松尾光勝寺、京都妙覚寺を経て1902年(明治35年)10月8日本圀寺48世。1891年(明治24年)海外宣教会を設立。1897年(明治30年)1月同会会長。京城、元山、上海に本圀寺別院を開く。1900年(明治33年)インドに渡り、霊鷲山に登る。1903年(明治36年)甲部議員。1909年(明治42年)8月、日蓮宗布教院長。1914年(大正3年)6月、法孫の旭寛成を北米に派遣し、ロサンゼルス会堂を開く。1910年(明治43年)9月6日第18代日蓮宗管長。1913年(大正2年)8月まで。1914年(大正3年)7月本圀寺退任。1916年(大正5年)8月8日死去。84歳。(『日蓮宗本圀寺史料』) |
49 | 浜井日成 | 瑞遠院 | 浜井麗心 | 1855-1928 | 1914- | 本圀寺49世。布教院院長。明徳学園理事長。大阪出身。1855年(安政2年)生。7歳で1862年(文久2年)、大阪長久寺日輝(本圀寺44世)に師事。大阪中檀林を卒業。長久寺、月蔵寺、本経寺を歴任。1914年(大正3年)10月3日、本圀寺49世。1921年(大正10年)子守学校を継ぎ、京都に明徳学園を設置し、1924年(大正13年)理事長に就任。1923年(大正12年)日蓮宗布教院院則を制定。1922年(大正11年)2月に光山専修学院開設。1928年(昭和3年)3月13日死去。74歳。(『日蓮宗本圀寺史料』) |
50 | 及川日龍 | 王子院 | 及川真能 | 1854-1937 | 1928加歴 | 本圀寺加歴50世(51世とも)。平賀本土寺55世。全国奠統会総裁。下総飯高出身。1854年(安政1年)生。9歳で佐倉昌柏寺で得度。1877年(明治10年)大教院で学び、新居日薩に学ぶ。京都中教院教師となる。宮津本妙寺、佐倉昌柏寺、八王子本立寺、成子常円寺を経て1921年(大正10年)6月12日、平賀本土寺55世。1928年(昭和3年)本圀寺加歴。全国奠統会総裁。能筆家としても知られる。1937年(昭和12年)3月20日、成子常円寺で死去。84歳。権大僧正。丹渓と号す。(『日蓮宗本圀寺史料』) |
51 | 渡辺日雄 | 瑛龍院 | 渡辺英明 | 1870-1953 | 1927-1949 | 本圀寺51世(50世とも)。日蓮宗布教院長。明徳学園長。愛知県萱津村出身。1870年(明治3年)生。1884年(明治17年)龍泉寺に得度。中村檀林で学び、1895年(明治28年)日蓮宗大檀林卒業。1896年(明治29年)6月、台湾駐在布教師として赴任。1898年(明治31年)韮山正応院住職。1902年(明治35年)、名古屋小檀林長。1903年(明治36年)三河長満寺住職。宗務所長。宗務院庶務部長。1927年(昭和2年)11月21日、本圀寺貫首。1929年(昭和4年)6月、山規改正施行。明徳学園長、布教院長を歴任。1949年(昭和24年)2月、本圀寺退任。西本願寺の遠忌の参詣者のために敷地を貸したことが問題視されて処分されたという。1953年(昭和28年)3月13日死去。84歳。大僧正。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
52 | 巽日皓 | 泰信院 | 巽龍円 | 1887-1962 | 1949-1951 | 本圀寺52世。妙国寺貫首。明徳学園理事長。和歌山県海草郡出身。1887年(明治20年)生。13歳で得度。1909年(明治42年)立正大学中退。大阪西九条に繋珠結社教導に就任。東池庵、法清寺、本澄寺を歴任。1942年(昭和17年)堺妙国寺貫首。1949年(昭和24年)本圀寺52世就任。2年半で退任。五条通の拡張で境内地を一部売却。明徳学園理事長。法華閣教会に隠居。1962年(昭和37年)12月30日死去。76歳。僧正。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
53 | 加藤日進 | 智精院 | 加藤是勝 | ?-1968 | 1951-1954 | 本圀寺53世。愛知妙福寺、伏見真福寺を歴任。1951年(昭和26年)9月13日、本圀寺53世。1954年(昭和29年)、他教団への曼荼羅の売却事件で宗派第二審査会が僧階2級降格の審決。住職資格を失い、退任する。1968年(昭和43年)12月28日死去。83歳。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
加歴54 | 西村日励 | 瑞心院 | 西村唯妙 | 1877-1956 | 加歴 | 本圀寺加歴54世。1877年(明治10年)生。東山善正寺、出町法性寺、大津本安寺を歴任。1956年(昭和31年)6月20日死去。83歳。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
55 | 口田日宣 | 本慈院 | 1899- | ? | 本圀寺55世。日蓮宗久遠寺派宗務総長。1899年(明治32年)生。日本大学高等専攻科正科卒。1929年(昭和4年)荒行初行。1929年(昭和4年)荒行四行成満。新宿宗柏寺住職。1947年(昭和22年)宗務院社会部長。庶務部長、総務部長を経て1955年(昭和30年)3月、宗務総長に就任。伝道本部長、世界立正平和運動本部長、祖山常置会委員を歴任。(『日蓮宗本圀寺史料』) | |
56 | 増田日遠 | 崇心院 | 増田宣輸 | 1893-1969 | 1959-1963 | 第36代・第37代日蓮宗久遠寺派管長。日蓮宗久遠寺派宗務総監。身延85世。本圀寺56世。中山法華経寺128世。安房誕生寺住職。瑞輪寺住職。身延山総監。(略歴は久遠寺#組織を参照) |
加歴57 | 丸田日学 | 行妙院 | 丸田恵貞 | 1891-1972 | 加歴 | 本圀寺加歴57世。大阪市出身。1891年(明治24年)生。14歳で得度。1918年(大正7年)日蓮宗大学卒。大阪本伝寺住職。兵庫県妙信教会担当。大阪勧成院兼務。1972年(昭和47年)11月22日死去。82歳。権大僧正。(『日蓮宗本圀寺史料』) |
58 | 平井日唱 | 十方院 | 平井智済 | ?-1975 | ? | 本圀寺58世(59世とも)。佐賀泰教寺住職。宗務院特派布教師。1975年(昭和50年)11月13日死去。87歳。 |
59 | 西川日晟 | 妙長院 | 西川景文 | 1893-1973 | ? | 日蓮宗久遠寺派宗務総監。本圀寺59世(58世とも)。東京浅草出身。1893年(明治26年)生。谷中本立寺で16歳で得度。1920年(大正9年)、東京帝国大学文学部宗教学科卒。本法寺住職。のち本圀寺58世。1955年(昭和30年)千葉福正寺代務。宗務総監。1963年(昭和38年)2月1日、宗派宗務院から本圀寺貫首を解任される。しかし、4月18日、日蓮宗第2部審査会が解任を無効とする。1973年(昭和48年)11月16日死去。81歳。権大僧正。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
60 | 鶏内日等 | 妙覚院 | 鶏内智賢 | ?-1983 | ? | 本圀寺60世(62世とも)。京都法輪院、法性寺、宗務所長、日蓮宗尼衆宗学林長を歴任。1963年(昭和38年)2月1日に本圀寺住職代務。しかし、4月18日、日蓮宗第2部審査会となり、西川住職が復帰。混乱状態となる。1983年(昭和58年)5月25日死去。85歳。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
三谷日泉 | 本涌院 | 三谷会祥 | ? | 本圀寺60世。小田原妙経寺住職。1963年(昭和38年)10月、特命任職代務に就任。 | ||
62 | 小野日道 | 龍瑞院 | 小野好秀 | ?-1986 | 1966- | 本圀寺62世(61世とも)。貝塚妙泉寺住職。1966年(昭和41年)5月23日、本圀寺61世。1986年(昭和61年)2月12日死去。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
63 | 伊藤日瑞 | 沙羅樹院 | 伊藤瑞感 | 1912-1979 | 1969-1979 | 本圀寺63世(特選住職)。札幌出身。本龍寺伊藤瑞玄の子。1912年(大正1年)生。佐野学、田中智学に学ぶ。本龍寺の継承ができず、1935年(昭和10年)、札幌に瑞玄寺を創建。1939年(昭和14年)、徴兵され中国大陸に出征。帰国後の1944年(昭和19年)、遠野の北身延智恩寺住職。同年、再び徴兵。復員後、宗務所長、祖山会委員など歴任。1954年(昭和29年)本龍寺住職。布教院を開く。札幌で伝道大会を開催。宗務院伝道部長、初代護法運動局長。佐倉昌柏寺兼務。1969年(昭和44年)5月12日、本圀寺特選住職。「死闘七年」を経て訴訟を解決し、借財を支弁し、什宝を守り、山科に伽藍を再建する。1979年(昭和54年)5月7日死去。66歳。権大僧正。13回忌で1989年(平成1年)9月29日大僧正。追贈。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
加歴64 | 河田日遠 | 龍源院 | 河田行誡 | 1896-1971 | ? | 本圀寺加歴64世。蓮長寺住職。神戸出身。1896年(明治29年)生。蓮長寺で得度。1921年(大正10年)日蓮宗大学本科卒。同年蓮長寺住職。奈良県宗務所所長。1942年(昭和17年)興亜局長。1944年(昭和19年)社会部長。1949年(昭和24年)参与会座長。1950年(昭和25年)奈良県宗教連盟理事長。1964年(昭和39年)蓮長寺住職退任。1971年(昭和46年)12月12日死去。76歳。権大僧正。(門下) |
65 | 梅本日政 | 龍玄院 | 梅本鳳泰 | 1899-1984 | ? | 本満寺貫首。1899年(明治32年)生。松岡日啓の弟子。京都光山学院卒。満洲に渡る。1922年(大正11年)大法寺住職。終戦後、帰国。蓮久寺を経て本満寺、本圀寺を歴任。本山会会長。1984年(昭和59年)5月21日死去。86歳。権大僧正。(門下ほか) |
加歴66 | 下宮日賢 | 本妙院 | 下宮高俊 | 1917-1982 | 加歴 | 本圀寺加歴66世。東京日暮里出身。1917年(大正6年)生。下宮高賢の子。1934年(昭和9年)開成中学校卒。1939年(昭和14年)立正大学卒。日蓮宗宗務院に勤務。まもなく徴兵。北支南方を経て、1946年(昭和21年)5月復員。延命院住職。1960年(昭和35年)東京北部宗務所長。1963年(昭和38年)庶務部長。1969年(昭和44年)立正大学常務理事。1971年(昭和46年)立正大学理事長。1970年(昭和45年)日蓮宗全国声明師会会長。長年、保護司、人権擁護委員を務める。1982年(昭和57年)11月21日死去。66歳。権大僧正。(門下ほか) |
加歴67 | 高橋日〓 | 行證院 | 高橋海定 | ?-1984 | 1984加歴 | 本圀寺加歴67世。鎌倉長勝寺住職。東京長昌寺住職。1984年(昭和59年)2月16日死去。79歳。臨終直前の2月11日に加歴。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
(加歴)68 | 久村日鑒 | 行宝院 | 久村諦道 | 1917- | (1984加歴)?-2007 | 本圀寺68世。鎌倉長勝寺53世。日蓮宗荒行堂正伝師。1917年(大正6年)生。宮城県石巻市出身。高橋海定の弟子。立正大学文学部卒。長勝寺住職。塩竈寿福寺を創建。立正育英会評議員、立正顕彰財団理事長を歴任。長勝寺に東郷平八郎発願・高村光雲作の日蓮の辻説法像を移築。1984年(昭和59年)2月11日、本圀寺加歴。のち晋山。2007年(平成19年)本圀寺を退任。大僧正。(『日蓮宗本圀寺史料』『門下』『日蓮宗新聞』) |
加歴69 | 福井日清 | 教広院 | 福井慈広 | 1887-1967 | 加歴 | 本圀寺加歴69世。1887年(明治20年)生。石川県七尾市出身。清野日浄の弟子。1909年(明治42年)七尾実相寺住職。1967年(昭和42年)4月20日死去。81歳。権大僧正。(門下ほか) |
加歴70 | 坂本日真 | 鷲峰院 | 坂本要淳 | ?-1999 | 1984加歴 | 本圀寺加歴70世。兵庫妙福寺住職。1984年(昭和59年)4月19日、本圀寺加歴。1999年(平成11年)6月20日死去。93歳。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
71 | 水谷日諦 | 龍莚院 | 水谷諦俊 | ?-1993 | 1984- | 本圀寺71世。京都英鏡院、長圀寺を歴任。本圀寺執事長、宗会議員を経て1984年(昭和59年)10月1日、本圀寺71世。1993年(平成5年)2月6日死去。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
加歴72 | 戸田日新 | 妙徳院 | 戸田浩暁 | 1910- | 加歴 | 本圀寺加歴72世。日蓮宗久遠寺派勧学職。中国文学の研究者。茨城県古河市出身。1910年(明治43年)生。1920年(大正9年)布施日健に師事。1936年(昭和11年)立正大学文学部卒。1937年(昭和12年)内地留学生となり、大東文化学院に入る。1951年(昭和26年)練馬大乗院住職。日蓮宗財産処分審議会委員、日蓮宗事典編集委員、大倉精神文化研究所所員、立正大学教授、立正育英会理事長、達師法縁達門会副会長を歴任。1986年(昭和61年)勧学。1986年(昭和61年)勧学職。教化紙『晴明』を創刊し、文書伝道に尽力。著書多数。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
加歴73 | 大柳日雄 | 龍継院 | 大柳一精 | 1911-1991 | 加歴 | 本圀寺加歴73世。東京出身。1911年(明治44年)生。1935年(昭和10年)早稲田大学文学部哲学科卒。立正大学宗学科に学ぶ。1936年(昭和11年)本圀寺布教院修了。専任布教師。1938年(昭和13年)谷中宗林寺住職。1953年(昭和28年)、日蓮宗久遠寺派を離脱し、「日蓮教団」を設立。同年保護司。全一仏教運動に参加。アジアを歴訪し、諸宗教を学ぶ。1970年(昭和45年)日蓮宗久遠寺派に復帰。1975年(昭和50年)米国に保護行政を視察。1991年(平成3年)7月9日死去。79歳。権大僧正。(『日蓮宗本圀寺史料』『門下』ほか) |
加歴74 | 小崎日遵 | 一妙院 | 小崎龍雄 | 1911- | 1990加歴 | 本圀寺加歴74世。横須賀市出身。1911年(明治44年)生。龍本寺で得度。1938年(昭和13年)祖山学院高等部卒。出征して中支那派遣軍の宣撫班長となり、ついで特務機関に務める。戦地より戻り本円寺住職。神奈川県第二部宗務所長、管長推戴委員、信行道場建設委員など歴任。全日本仏教会評議員、神奈川県宗教連盟理事長、神奈川県仏教会会長。1990年(平成2年)本圀寺74世に加歴。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
加歴75 | 森日賢 | 慈修院 | 森恵遠 | 1929- | 1990加歴 | 本圀寺加歴75世。1929年(昭和4年)生。長久寺森亮遠の子。1944年(昭和19年)得度。1949年(昭和24年)身延山専門学校卒。同年、立正大学中退して長久寺住職。1952年(昭和27年)布教院修了。大阪善福寺住職。豊能宗務所長、宗会議員、日蓮宗新聞社代表取締役社長を歴任。常任布教師。保護司や民生委員となり、1974年(昭和49年)能勢福祉会理事長。1990年(平成2年)7月24日、本圀寺75世に加歴。(『日蓮宗本圀寺史料』ほか) |
76 | ? | ? | ||||
77 | 日教 | 覚中院 | ? | ?-1994 | 1994年(平成6年)11月14日死去。 | |
加歴78 | ? | 鈴木貫仁 | 1992加歴 | 本圀寺加歴78世。1971年(昭和46年)法恩寺住職。東京東部宗務所長。1992年(平成4年)本圀寺78世に加歴。2003年(平成15年)紀伊・報恩寺35世。 | ||
79 | 日教 | 寿心院 | ? | ?-1996 | 1996年(平成8年)6月26日死去。67歳。 | |
80 | ? | ? | ||||
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83 | 日運 | 龍珠院 | ? | ?-2001 | 2001年(平成13年)5月3日死去。94歳。 | |
加歴84 | 西沢日学 | 常楽院 | 西沢貫誠 | ?-2012 | 1994加歴 | 1943年(昭和18年)市原長妙寺住職。1987年(昭和62年)本遠寺54世加歴。1994年(平成6年)本圀寺84世加歴。日蓮宗保育連盟理事長。日蓮宗亜細亜仏教親交会会長。2012年(平成24年)11月25日死去。97歳。(日蓮宗千葉西部宗務所ウェブサイトほか) |
85 | ? | ? | ||||
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87 | ? | ? | ||||
88 | ? | ? | ||||
89 | 日遠 | 本成院 | ? | ?-2001 | 2001年(平成13年)12月28日死去。 | |
90 | ? | ? | ||||
91 | ? | ? | ||||
92 | ? | ? | ||||
93 | ? | ? | ||||
94 | ? | ? | ||||
95 | ? | ? | ||||
96 | ? | ? | ||||
加歴97 | 伊藤日慈 | 沙羅院 | 伊藤瑞叡 | 1942- | 加歴 | 本歴104世。 |
98 | ? | ? | 加歴? | |||
加歴99 | 森日洸 | 遠寿院 | ? | 2005加歴 | 姫路法華寺住職。 | |
100 | ? | ? | 加歴? | |||
101 | ? | ? | 加歴? | |||
102 | 吉田日厚 | 吉田宏遠 | 2007-2013 | 妙三寺住職。 | ||
103 | ? | ? | 加歴? | |||
104 | 伊藤日慈 | 沙羅院 | 伊藤瑞叡 | 1942-2020 | 2013-2020 | 立正大学教授。札幌瑞玄寺の出身。東京大学大学院修了。立正大学法華経文化研究所所長。本圀寺に求法講院を再興。2020年8月3日死去。 |
105 | ? | ? | 加歴? | |||
106 | ? | ? | 加歴? | |||
107 | 早川日章 | 早川英章 | 2021- | 自坊は長野長源寺。2021年(令和3年)1月1日、本圀寺貫首。 |