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近江・瑞龍寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月12日 (金)
瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、滋賀県近江八幡市宮内町にある日蓮宗の門跡寺院。日蓮宗久遠寺派の本山・由緒寺院。日蓮宗では唯一の門跡寺院。豊臣氏ゆかり。近世の尼門跡12位。本圀寺との関係が強い(六条門流)。元は京都府京都市上京区竪門前町(現在の西陣織会館の辺り)にあった。村雲御所と号す。瑞龍寺門跡。(参考:同名寺院瑞龍寺)
目次 |
歴史
創建
豊臣秀吉の姉の智の方は子の秀勝の戦死と秀次の自刃の後、その菩提を弔うために本圀寺日禎を戒師として出家し、日秀と名乗った。日蓮宗初の尼僧という。後陽成天皇が日秀に今出川村雲に寺地を与え、寺領1000石を寄進して1596年(慶長1年)創建。瑞龍寺の寺号は天皇が名付けたものといい、書状の文章が伝わる。紫衣着用が許可された(国史大辞典)。また日秀は1597年(慶長2年)には太秦に本瑞寺を創建し、瑞龍寺の別院としたといい、常寂光寺、墨染寺、善正寺の創建を支援した。
江戸時代
1625年(寛永2年)徳川家光は二条城の客殿を寄進して移築。また寺領500石を寄進した(『皇室と寺院』にも寺領500石とあるのでこれが近世続いたのだろう)。 歴代は九条家の猶子となってから入寺しているが、日秀の孫娘が九条家に嫁いだ関係によるのだろう。
1724年(享保9年)以降、善正寺東山檀林の能化に能化許状を発給した。 1764年(明和1年)12月28日、村雲御所の号が認められた。 1781年(天明1年)、瑞龍寺から日本寺に寄進した8世日照の遺品の釈迦坐像が紛失する事件が発生。 1788年(天明8年)の天明の大火で焼失。1828年(文政11年)から30年以上かけて本堂、鬼子母神堂、妙見堂、番神堂、表書院、庫裏、玄関などを再建。
江戸時代後期に入ると地方の寺院に瑞龍寺門跡の祈願所の許状を出している。他の尼門跡や宮家にもみられる動きで、乏しい財源を補う手段だったのだろう。大火で焼失した伽藍の復興と関連している可能性がある。
- 1775年(安永4年)妙本寺本行院に緋紋白袈裟、許可
- 1781年(天明1年)妙本寺本行院に緋紋白袈裟と網代輿、許可
- 1761年(宝暦11年)、鳥取常忍寺を祈願所とする(常忍寺資料)。
- 1794年(寛政6年)、長浜妙立寺を祈願所とする(坂田郡史)。日照の菩提を弔うためという。
- 1796年(寛政8年)9月、長崎本蓮寺を祈願所とする(長崎市史)。
- 1807年(文化4年)7月、佐渡妙経寺を祈願所とする(畑野村志)。
- 1846年(弘化3年)11月、藤枝益津妙法寺を瑞龍寺の祈願所とする(藤枝町誌)。
- 1861年(文久1年)10月、法華経寺遠寿院を祈願所とする(日蓮宗各本山名所図会)。
- 1864年(元治1年)、静岡耀海寺(耀海寺由緒書)
- 1866年(慶応2年)4月、法華経寺遠寿院出張所の筑後法華寺を祈願所とする(日蓮宗各本山名所図会)。
- 岡山妙福寺(建部町史)。
門流が異なるが、『本隆寺門末寺院史』に平等会寺を位牌所としたとあるのも同様の趣旨かもしれない。年代は不明だが、妙成寺に緋紋白の袈裟と「ひわ色かご」の輿を許可している(妙成寺の栞)。
1861年(文久1年)9月、遠寿院の鬼子母神の禁裏内拝を取り次ぐ。瑞龍寺もこれを拝んだという。
近現代
1871年(明治4年)に門跡制度は廃止されるが、1876年(明治9年)から下賜金(日本歴史地名大系)。1888年(明治21年)に「御由緒寺院」として門跡寺院同様の待遇となった(『皇室と寺院』)。1885年(明治18年)、東京小伝馬町に別院を設け、天拝子育鬼子母尊神を祀った(瑞法光寺。1987年(昭和62年)に茨城県取手市に移転)。
1905年(明治38年)7月2日、瑞龍寺内に本部を置いて護国婦人教会が設立される。日蓮宗の公的な婦人団体。1906年(明治39年)11月、村雲婦人会設立。村雲婦人会の支部が全国に設置された。
1960年(昭和35年)、日蓮宗久遠寺派からの離脱を表明。しかし瑞龍寺財産の不当処分が発覚し、住職罷免問題にまで発展するが、瑞龍寺と宗派は和解するに至る。(「近代教団史にみられる尼僧たち」[1])
1962年(昭和37年)に八幡山の現在地に移転。八幡山は豊臣秀次の居城の八幡城の跡地である。その後、台風で破損したが日英が復興した。
(日本歴史地名大系ほか)
伽藍
- 本堂:本尊形式は一塔二尊四菩薩。天拝妙見菩薩、天拝鬼子母神、大黒天、日秀像などを祀る。
- 村雲観音堂:1981年建立。現在の地蔵堂と思われる。
- 豊臣秀次:像を祀る。
- 瑞興殿:小笠原日英像などを祀るとみられる。
- 開山塔:日秀の塔とみられる。宝篋印塔。
- 地蔵堂:お願い地蔵。三十三観音のうち、三十二観音も遷座合祀した。
- 稲荷神社:祭神は金生稲荷大明神。1973年建立。
- 龍神堂:祭神は大杉秀雲龍神。八幡山の地主神か。1987年4月、龍神像を再刻し、再建した。
組織
住職
- 初代から9世の日尊まで本圀寺貫首を戒師として出家した。ただし日寿を除く。
- 九条家の猶子となってから入寺した。
- 歴代の墓が東山檀林善正寺にある。瑞龍寺宮墓地と仮称。8世・9世については治定墓。
- 15世で男性が初めて貫首に就いた。
- 小笠原日英まで主に『日蓮宗事典』を参照。『比丘尼御所諡号考』[2]、「陵墓 陵印 掲示板」[3]ほかも参照。
世数 | 法諱 | 号 | 字 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
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1 | 日秀 | 瑞龍寺殿 | 妙慧 | 1534-1625 | 豊臣秀吉の姉。豊臣秀次の生母。日蓮宗初の尼僧という。1534年(天文3年)生。1625年(寛永2年)4月24日死去。92歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。 | |
2 | 日怡 | 瑞円院 | 1625-1664 | 1641-1664 | 1641年(寛永18年)7月23日就任。1664年(寛文4年)2月3日死去。40歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。 | |
3 | 日通女王 | 瑞照院 | 1653-1672 | 1664-1672 | 伏見宮貞建親王王女。九条家猶子。九条輔嗣猶子。1664年(寛文4年)1月30日就任。1672年(寛文12年)7月17日死去。20歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地(治定外)。(1665年(寛文5年)死去とも) | |
4 | 日寿 | 瑞法院 | 1647-1691 | 1672-1691 | 1672年(寛文12年)8月29日就任。1691年(元禄4年)4月29日死去。45歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。(『比丘尼御所諡号考』にある1691年(元禄4年)4月6日死去の日義はこの人物か) | |
加歴5 | 日顕 | 瑞現院 | ?-1690 | 加歴 | 日寿の弟子。得度をしないまま、1690年(元禄3年)7月2日死去。日寿の意向で加歴。瑞源院とも。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。 | |
6 | 日慈 | 瑞応院 | 1699-1716 | 1713-1716 | 鷹司家出身。鷹司政平の娘。1713年(正徳3年)12月21日就任。1716年(享保1年)4月6日死去。18歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。 | |
7 | 日護 | 瑞妙院 | 1717-1746 | 1724-1746 | 1724年(享保9年)4月21日就任。1746年(延享3年)2月24日死去。30歳。 | |
8 | 日照女王 | 常孝院 | 1753-1778 | 1762-1778 | 有栖川宮家音仁親王の王女。九条尚実猶子。1762年(宝暦12年)4月13日就任。1778年(安永7年)7月21日死去。26歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地(治定)。 | |
9 | 日尊女王 | 瑞世文院 | 1807-1868 | 1816-1862 | 伏見宮貞敬親王王女。1812年(文化9年)九条輔嗣の猶子。1816年(文化13年)6月28日就任。1868年(明治1年)11月12日死去。62歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地(治定)。 | |
10 | 村雲日栄 | 瑞法光院 | 1855-1920 | 1862-1920 | 伏見宮邦家親王の第八王女。九条尚忠の猶子。1862年(文久2年)5月16日入寺相続。6月2日得度。明治維新で皇族僧侶には還俗が命じられるが、善光寺大本願の久我誓円や円照寺門跡の文秀女王の姉妹と共に出家の身を保った。全国を巡教。尼衆修道院、村雲婦人会の設立に尽力。1920年(大正9年)3月22日死去。66歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地(治定外)。 | |
11 | 九条日浄 | 瑞珠院 | 1896-1962 | 1920-1962 | 子爵仙石政敬の娘。公爵九条道実の猶子。1913年(大正2年)学習院女学部中等科卒。1920年(大正9年)11月6日就任。村雲婦人会総裁。1962年(昭和37年)近江八幡への移転を実施。1962年(昭和37年)9月20日死去。66歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。 | |
12 | 小笠原日英 | 瑞興院 | 1914-1988 | 1965-1988 | 小笠原長幹の娘。1960年(昭和35年)出家。1965年(昭和40年)就任(由緒書では1968年)。1988年(昭和63年)3月29日死去。74歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。 | |
13 | 小笠原日凰 | 瑞華院 | 英法 | 1914-2002 | 1988-2002 | 女優の桜緋紗子。1929年(昭和4年)宝塚音楽学校卒。同年、宝塚歌劇団に入団。翌年、初舞台。1940年(昭和15年)退団。1951年(昭和26年)の交通事故を機に仏門に入る。1965年(昭和40年)瑞龍寺の僧侶となる。小笠原長幹の養女となる。1988年(昭和63年)義姉の跡を継ぎ住職就任。2002年(平成14年)3月20日死去。88歳。墓は善正寺の瑞龍寺宮墓地。 |
14 | 鷲津日澄 | 瑞妙院 | 鷲津啓静 | 1917-2011 | 2003-2011 | 1917年(大正6年)生。大阪市立塩原女学校卒。1961年(昭和36年)大阪府最妙寺住職。2003年(平成15年)に瑞龍寺門跡貫首に就任。2011年(平成23年)に退任。同年3月死去。 |
15 | 鷲津日英 | 瑞仙院 | 鷲津恵得 | ?-2019 | 2011-2019 | 初の男性住職。鷲津日澄の長男。大阪府最妙寺住職を経て2011年(平成23年)に瑞龍寺門跡貫首に就任。2019年(令和1年)死去。 |
16 | 詫間日郁 | 1954- | 2022- | 京都市出身。1954年(昭和29年)生。ジュエリー作家などを経て2011年(平成23年)8月得度。2015年(平成27年)1月長久寺住職。2020年(令和2年)11月、瑞龍寺執事長。2022年(令和4年)3月、瑞龍寺門跡に就任。5月22日晋山式。 |