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二尊院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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(?資料)
(?歴代住職)
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==組織==
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===歴代住職===
===歴代住職===
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*長老とも呼ばれた。
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*「二尊院住持次第」:16世まで掲載。一部略伝あり。『蓮門宗派』所収[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2016/418/0270]。2004『法然教団系譜選』に掲載。
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*「二尊院住持次第」:16世まで掲載。記述は簡略。『柳原家記録』本[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2001/10/123/0240]。
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*「三鈷寺廬山寺二尊院歴代」:二尊院22世まで掲載。鷲尾順敬旧蔵。未見。大日本史料に引用されている。
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*「嵯峨二尊院略譜」:1810年(文化7年)。30世まで掲載。法曼院真超書写。『続天台宗全書』圓戒2解題[http://www.biwa.ne.jp/~namu007/oldHP/zok/E2kaidai.html]を参照。これをベースとした。
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*望月信亨『浄土教之研究』にもっと詳しい記述があるが未見。
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!style="width:5%;"|世数
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|法然源空
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|1133-1212
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|浄土宗宗祖。
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|法蓮信空
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|1146-1228
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|二尊院に住した確証はないが、法脈から2世とみなされている。1228年(安貞2年)死去。
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|正信湛空
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|1176-1253
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|嵯峨門徒の祖。1176年(安元2年)生。法然の弟子。円実(生没年不詳)の子。左大臣徳大寺実能の孫。延暦寺で実全に師事。のち法然に帰依して、法然と信空から円頓戒を授かる。1207年(承元1年)の「承元の法難」で流罪となった法然に随行したという。法然の中陰法要で施主を務めた。土御門天皇と後嵯峨天皇に授戒。1227年(安貞1年)の「嘉禄の法難」で法然の遺骸を一時預かったとみられ、1233年(天福1年)粟生光明寺から分骨を迎え、雁塔を建てた。1244年(寛元2年)『本朝祖師伝記絵詞』(『四巻伝』)を記す。後鳥羽上皇中宮の修明門院重子の帰依を受け、空海の「飛行三鈷杵」を授けられたが、晩年に高野山に返還したという。正信房(聖信房)。「公全」と同一人物ともいう。1253年(建長5年)7月27日死去。78歳。弟子に叡澄、恵尋、信覚、覚空らがいる。(新纂浄土宗大辞典)
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|正覚叡澄
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|1229-1307
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|正信湛空の弟子。正親町三条公氏の子。後嵯峨天皇、後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇、伏見天皇の五帝に授戒。特に伏見天皇には3度授戒したという。1307年(徳治2年)死去。79歳。国師。叡空、永空とも。
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|理覚尋慶
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|1262-1308
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|正覚叡澄の弟子。関白九条忠家の子。清空。亀山天皇、後宇多天皇に授戒。1308年(延慶1年)、下野小山で死去。47歳(40歳とも)。火葬地に西念寺がある。国師。
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|理性
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|1291-1332
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|九条家出身。1332年(元弘2年/正慶1年)死去。42歳。
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|修覚定空
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|1288-1343
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|理覚尋慶、理性の弟子。太政大臣土御門定実の子。『日本仏家人名辞書』に土御門天皇の皇子とあるのは誤りか。1343年(興国4年/康永2年)死去。56歳。
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|深恵崇空
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|?-1378
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|准大臣近衛兼教の子。1378年(天授4年/永和4年)死去。『次第』には一条家出身とある。
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|法位境空
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|?-1398
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|太政大臣洞院公賢の子(大日本史料総合DB)。示鏡弁空の兄。1398年(応永5年)死去(1394年(応永1年)とも)。遣迎院、竹林寺、浄土寺、二尊院を兼務。
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|僧令仁意
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|?-1415
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|関白九条経教の子(尊卑分脈)。1415年(応永22年)1月15日死去(「二尊院志稿」「嵯峨二尊院略譜」)(『尊卑分脈』や『三鈷寺廬山寺二尊院歴代』には1410年(応永17年)3月26日死去とある)。任意とも。
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|示鏡弁空
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|1348-1448
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|廬山寺10世。照恵の弟子。太政大臣洞院公賢の子で法位境空の弟。三鈷寺を兼務。1448年(文安5年)死去。
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|中統臨空
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|1380-1461
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|三鈷寺・本心院・二尊院12世を兼務。1461年(寛正2年)死去。82歳。勅諡は弘導和尚。後花園天皇国師。諸堂復興、寺領拡大。
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|恵篤善空
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|1412-1492
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|三鈷寺を兼務。般舟三昧院開山。1471年(文明3年)、後土御門天皇の御前で講義。1475年(文明7年)後土御門天皇に授戒。後土御門天皇国師。1476年(文明8年)聖寿寺で如法念仏。1478年(文明10年)護摩修法。1479年(文明11年)般舟三昧院を創建。1486年(文明18年)、勝仁親王(後柏原天皇)に授戒(大日本史料総合DB)。三条西実隆の帰依を受けた。1487年(長享1年)9月27日、善空、仁空100回忌に際し朝廷に請願して諡号「円応和尚」を賜う(三鈷寺文書)。1489年(延徳1年)国母嘉楽門院の葬儀を行う。1492年(明応1年)8月9日死去(9月10日とも。親長卿記)。81歳。敬川。摂善院と号す。勅諡は円慈和尚(後土御門天皇。1492年(明応1年)9月16日。宣秀卿記)。81歳。著作は『浄土揚顕抄』『善空置文』。(「善空上人の教化」ほか)
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|寿観敬空
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|1436-1507
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|1495-
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|中統臨空の弟子。三鈷寺・般舟三昧院を兼務。近江西円寺を経て1495年(明応4年)二尊院に入寺(大日本史料総合DB)。1507年(永正4年)死去。72歳。西空とも。道号は明岳。
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|宗純念空
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|1446-1516
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|三鈷寺・般舟三昧院を兼務。1510年(永正7年)参内(この頃二尊院に入寺か)。1513年(永正10年)知仁親王(後奈良天皇)に授戒(大日本史料総合DB)。1516年(永正13年)3月9日、堺光明院で死去(「三鈷寺廬山寺二尊院歴代」では1515年(永正12年)とある)。71歳。勅諡は心地和尚。後柏原天皇国師。
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|恵教一空
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|1468-1547
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|三鈷寺兼務。1532年(天文1年)9月、香衣を許可される。同月後奈良天皇に授戒(大日本史料総合DB)。勅諡は広明和尚。後奈良天皇国師。1547年(天文16年)死去。80歳。
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|本源見空
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|?-1578
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|1578年(天正6年)死去。良純。無二庵。
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|正温登空
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|?-1605
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|1605年(慶長10年)死去。
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|良椿道空
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|?-1622
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|角倉了以に招かれ嵐山千光寺を創建。1622年(元和8年)死去。
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|良元諦空
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|?-1628
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|1628年(寛永5年)死去。
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|玄隆円空
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|?-1637
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|1637年(寛永14年)死去。
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|尊俊感空
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|?-1663
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|1663年(寛文3年)死去。
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|尊能天空
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|?-1629
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|1629年(寛永6年)死去。
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|公淵印空
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|?-1628
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|静然寛空
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|?-1703
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|1703年(元禄16年)死去。
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|印光徹空
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|?-1715
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|湛応遍空
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|?-1743
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|1743年(寛保3年)死去。
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|普峰妙空
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|?-1720
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|1720年(享保5年)死去。普峯妙空。
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|湛灯義空
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|?-1748
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|1748年(寛延1年)死去。
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|覚灯広空
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|1776年(安永5年)死去。
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==資料==
==資料==

2019年2月17日 (日) 時点における版

二尊院(にそんいん)は京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町(山城国葛野郡)にある天台宗系・浄土宗系の寺院。本尊は釈迦如来と阿弥陀如来。中世、円密戒浄(天台・真言・戒律・浄土)の四宗兼学の寺院として発展したが、現在は天台宗延暦寺派。宮中御黒戸の祭祀を司った「御黒戸四箇院」の一つ。法然上人二十五霊場。二尊教院。華台寺。山号は小倉山。

目次

歴史

承和年間、嵯峨天皇の勅願で円仁が創建。鎌倉時代初期に法然が住したとされる。法然は二尊院で『授菩薩戒儀』(『新本戒儀』)を執筆し、湛空に授けたという。この書は現在も「伝宗伝戒道場」で使われているという。 1227年(安貞1年)、東山の法然の墓を襲撃されそうになった「嘉禄の法難」で法然の遺骸を一時奉安。法然の遺骸はのち粟生光明寺で火葬された後、1233年(天福1年)二尊院にも分骨された。現在の三帝陵が法然の墓ともいわれる。

応仁の乱で焼失。1521年(大永1年)三条西実隆の勧進で本堂再興。 1595年(文禄4年)熊谷直之が秀次事件に連座して二尊院で自害。 2016年(平成28年)本堂修復。

法然の「足曳きの御影」「七箇条制誡」を所蔵。

伽藍

  • 本堂:1521年(大永1年)再建。2016年(平成28年)修復。
  • 八社宮:伊勢神宮・松尾大社・愛宕神社・石清水八幡宮・熱田神宮・日吉神社・八坂神社・北野天満宮を合祀。
  • 弁天堂:九頭龍大神と宇賀神を弁財天の化身として祀る。湛空が授戒した霊蛇という。
  • 法然墓:
  • 湛空廟:「廟」というが、「空公行状碑」の覆堂。湛空は事実上の二尊院中興。
  • 三帝陵:嵯峨天皇、土御門天皇、後土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の分骨を納める。
  • 総門:1613年(慶長18年)伏見城の薬医門を移築。

子院

  • 真葉院:廃絶。
  • 浄金剛院:現在の天龍寺の地にあったが二尊院に移転。廃絶。

組織

歴代住職

  • 長老とも呼ばれた。
  • 「二尊院住持次第」:16世まで掲載。一部略伝あり。『蓮門宗派』所収[1]。2004『法然教団系譜選』に掲載。
  • 「二尊院住持次第」:16世まで掲載。記述は簡略。『柳原家記録』本[2]
  • 「三鈷寺廬山寺二尊院歴代」:二尊院22世まで掲載。鷲尾順敬旧蔵。未見。大日本史料に引用されている。
  • 「嵯峨二尊院略譜」:1810年(文化7年)。30世まで掲載。法曼院真超書写。『続天台宗全書』圓戒2解題[3]を参照。これをベースとした。
  • 望月信亨『浄土教之研究』にもっと詳しい記述があるが未見。
世数 生没年 在職年 略歴
1 法然源空 1133-1212 浄土宗宗祖。
2 法蓮信空 1146-1228 二尊院に住した確証はないが、法脈から2世とみなされている。1228年(安貞2年)死去。
3 正信湛空 1176-1253 嵯峨門徒の祖。1176年(安元2年)生。法然の弟子。円実(生没年不詳)の子。左大臣徳大寺実能の孫。延暦寺で実全に師事。のち法然に帰依して、法然と信空から円頓戒を授かる。1207年(承元1年)の「承元の法難」で流罪となった法然に随行したという。法然の中陰法要で施主を務めた。土御門天皇と後嵯峨天皇に授戒。1227年(安貞1年)の「嘉禄の法難」で法然の遺骸を一時預かったとみられ、1233年(天福1年)粟生光明寺から分骨を迎え、雁塔を建てた。1244年(寛元2年)『本朝祖師伝記絵詞』(『四巻伝』)を記す。後鳥羽上皇中宮の修明門院重子の帰依を受け、空海の「飛行三鈷杵」を授けられたが、晩年に高野山に返還したという。正信房(聖信房)。「公全」と同一人物ともいう。1253年(建長5年)7月27日死去。78歳。弟子に叡澄、恵尋、信覚、覚空らがいる。(新纂浄土宗大辞典)
4 正覚叡澄 1229-1307 正信湛空の弟子。正親町三条公氏の子。後嵯峨天皇、後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇、伏見天皇の五帝に授戒。特に伏見天皇には3度授戒したという。1307年(徳治2年)死去。79歳。国師。叡空、永空とも。
5 理覚尋慶 1262-1308 正覚叡澄の弟子。関白九条忠家の子。清空。亀山天皇、後宇多天皇に授戒。1308年(延慶1年)、下野小山で死去。47歳(40歳とも)。火葬地に西念寺がある。国師。
6 理性 1291-1332 九条家出身。1332年(元弘2年/正慶1年)死去。42歳。
7 修覚定空 1288-1343 理覚尋慶、理性の弟子。太政大臣土御門定実の子。『日本仏家人名辞書』に土御門天皇の皇子とあるのは誤りか。1343年(興国4年/康永2年)死去。56歳。
8 深恵崇空 ?-1378 准大臣近衛兼教の子。1378年(天授4年/永和4年)死去。『次第』には一条家出身とある。
9 法位境空 ?-1398 太政大臣洞院公賢の子(大日本史料総合DB)。示鏡弁空の兄。1398年(応永5年)死去(1394年(応永1年)とも)。遣迎院、竹林寺、浄土寺、二尊院を兼務。
10 僧令仁意 ?-1415 関白九条経教の子(尊卑分脈)。1415年(応永22年)1月15日死去(「二尊院志稿」「嵯峨二尊院略譜」)(『尊卑分脈』や『三鈷寺廬山寺二尊院歴代』には1410年(応永17年)3月26日死去とある)。任意とも。
11 示鏡弁空 1348-1448 廬山寺10世。照恵の弟子。太政大臣洞院公賢の子で法位境空の弟。三鈷寺を兼務。1448年(文安5年)死去。
12 中統臨空 1380-1461 三鈷寺・本心院・二尊院12世を兼務。1461年(寛正2年)死去。82歳。勅諡は弘導和尚。後花園天皇国師。諸堂復興、寺領拡大。
13 恵篤善空 1412-1492 三鈷寺を兼務。般舟三昧院開山。1471年(文明3年)、後土御門天皇の御前で講義。1475年(文明7年)後土御門天皇に授戒。後土御門天皇国師。1476年(文明8年)聖寿寺で如法念仏。1478年(文明10年)護摩修法。1479年(文明11年)般舟三昧院を創建。1486年(文明18年)、勝仁親王(後柏原天皇)に授戒(大日本史料総合DB)。三条西実隆の帰依を受けた。1487年(長享1年)9月27日、善空、仁空100回忌に際し朝廷に請願して諡号「円応和尚」を賜う(三鈷寺文書)。1489年(延徳1年)国母嘉楽門院の葬儀を行う。1492年(明応1年)8月9日死去(9月10日とも。親長卿記)。81歳。敬川。摂善院と号す。勅諡は円慈和尚(後土御門天皇。1492年(明応1年)9月16日。宣秀卿記)。81歳。著作は『浄土揚顕抄』『善空置文』。(「善空上人の教化」ほか)
14 寿観敬空 1436-1507 1495- 中統臨空の弟子。三鈷寺・般舟三昧院を兼務。近江西円寺を経て1495年(明応4年)二尊院に入寺(大日本史料総合DB)。1507年(永正4年)死去。72歳。西空とも。道号は明岳。
15 宗純念空 1446-1516 三鈷寺・般舟三昧院を兼務。1510年(永正7年)参内(この頃二尊院に入寺か)。1513年(永正10年)知仁親王(後奈良天皇)に授戒(大日本史料総合DB)。1516年(永正13年)3月9日、堺光明院で死去(「三鈷寺廬山寺二尊院歴代」では1515年(永正12年)とある)。71歳。勅諡は心地和尚。後柏原天皇国師。
16 恵教一空 1468-1547 三鈷寺兼務。1532年(天文1年)9月、香衣を許可される。同月後奈良天皇に授戒(大日本史料総合DB)。勅諡は広明和尚。後奈良天皇国師。1547年(天文16年)死去。80歳。
17 本源見空 ?-1578 1578年(天正6年)死去。良純。無二庵。
18 正温登空 ?-1605 1605年(慶長10年)死去。
19 良椿道空 ?-1622 角倉了以に招かれ嵐山千光寺を創建。1622年(元和8年)死去。
20 良元諦空 ?-1628 1628年(寛永5年)死去。
21 玄隆円空 ?-1637 1637年(寛永14年)死去。
22 尊俊感空 ?-1663 1663年(寛文3年)死去。
23 尊能天空 ?-1629 1629年(寛永6年)死去。
24 公淵印空 ?-1628 1628年(寛永5年)死去。
25 静然寛空 ?-1703 1703年(元禄16年)死去。
26 印光徹空 ?-1715 1715年(正徳5年)死去。
27 湛応遍空 ?-1743 1743年(寛保3年)死去。
28 普峰妙空 ?-1720 1720年(享保5年)死去。普峯妙空。
29 湛灯義空 ?-1748 1748年(寛延1年)死去。
30 覚灯広空 ?-1776 1776年(安永5年)死去。

資料

  • 「二尊院住持次第」:16世まで掲載。伝記が詳しい。『蓮門宗派』所収[4]。2004『法然教団系譜選』に掲載。
  • 「二尊院住持次第」:16世まで掲載。簡略。『柳原家記録』本[5]
  • 『二尊院縁起』:天文年間末の成立。元は絵巻だったが詞書のみ現存。『続群書類従』[6]、『大日本仏教全書』に掲載。
  • 『二尊院縁起絵巻』:桃山時代に描かれた絵巻。
  • 「三鈷寺廬山寺二尊院歴代」:二尊院22世まで掲載。鷲尾順敬旧蔵。
  • 「嵯峨二尊院略譜」:1810年(文化7年)。30世まで掲載。法曼院真超書写。『続天台宗全書』圓戒2解題[7]を参照。
  • 『二尊院文書』:『編年文書』所収[8][9][10]
  • 『京都諸寺等文書目録』「二尊院」:[11]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%8C%E5%B0%8A%E9%99%A2」より作成

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