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二尊院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年1月14日 (土)

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二尊院007.jpg
二尊院(国土地理院空中写真より)

二尊院(にそんいん)は京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町(山城国葛野郡)にある皇室ゆかりの天台宗系・浄土宗系の寺院。本尊は釈迦如来阿弥陀如来法然旧跡で、事実上の開山である湛空が嵯峨門徒を形成した。のち円密戒浄(天台・真言戒律浄土)の四宗兼学の寺院として発展。浄土宗西山派本山流の拠点だったが、現在は天台宗延暦寺派。宮中御黒戸の祭祀を司った「御黒戸四箇院」の一つ。法然上人二十五霊場17番。二尊教院華台寺阿耨菩提寺。山号は小倉山。

目次

歴史

嵯峨嵐山周辺(国土地理院空中写真より)

創建

承和年間、嵯峨天皇の勅願で円仁が創建。鎌倉時代初期に法然が住したとされる。法然は二尊院で『授菩薩戒儀』(『新本戒儀』)を執筆し、湛空に授けたという。この書は現在も「伝宗伝戒道場」で使われているという。史実として法然が二尊院にいたことははっきりしないが、1573年(天正1年)の『嵯峨記』に記される。『雍州府志』には法然は九条兼実の協力で復興したとある。 湛空は土御門天皇や後嵯峨天皇に授戒し、皇室や貴族との関係を深める。

発展

嵯峨にいた法然門下の湛空が事実上の開山と考えられる。湛空は嵯峨門徒の祖とされる。1227年(安貞1年)、東山の法然の墓を襲撃されそうになった「嘉禄の法難」で法然の遺骸を二尊院に一時奉安。法然の遺骸はのち粟生光明寺で火葬された後、1233年(天福1年)二尊院にも分骨された。しかし、法然の墓は現存しない。

またこの頃、西大寺系の律僧とみられる湛忍(住吉大社津守国業の子。西大寺護国院開山の性瑜や大安寺長老2世玄基の兄)が二尊院にいたらしい(住吉社神主并一族系図)。

南北朝時代、亀山殿にあった浄金剛院が、足利尊氏天龍寺創建のため境内を没収され、二尊院内に移転した。 三鈷寺の示鏡弁空(1348-1448)が入寺して以来、本山流の寺院となる。

戦乱からの復興

1468年(応仁2年)9月11日、応仁の乱の戦火で焼失(善空置文)。その後の復興は特に恵篤善空(1412-1492)が三条西実隆(1455-1537)の帰依を得たことが大きな力となった。 1476年(文明8年)8月19日上棟(実隆公記)。 1477年(文明9年)、後土御門天皇皇女の大慈光院宮が二尊院で得度。1480年(文明12年)6月、ようやく庫裏を再建。 1518年(永正15年)4月、伽藍再興のための諸国勧進が許可される。三条西実隆の周旋と思われる。1520年(永正17年)5月10日起工。わずか1カ月後の6月13日には立柱。7月2日に完成。落慶法要は翌1521年(大永1年)だったようである。 1532年(天文1年)9月、恵教一空が香衣を許可される。 1544年(天文13年)6月2日、三条西実世、出家して実澄と称し、二尊院に入る。 1560年(永禄3年)3月、三条西公条、二尊院縁起を進講する。 1563年(永禄6年)2月、三条西公条、二尊院で灌頂を受ける。 1565年(永禄8年)10月、幕府、二尊院と清凉寺に禁制を掲げる。 1577年(天正5年)、山城法伝寺を律宗に復し、二尊院の僧侶が兼務。 1595年(文禄4年)熊谷直之が秀次事件に連座して二尊院で自害。

近世以降

皇室との縁から、御黒戸の祭祀を司るようになる。 二条家・鷹司家・三条家・三条西家を檀越とする。 豊臣氏から120石を寄進され、徳川家もこれを認めた。 1709年(宝永6年)、寺領を追加され、320石となる。 1711年(正徳1年)の『山州名跡志』には「宗旨兼学天台真言律浄土」とあるが、1838年(天保9年)の『寺鑑』では般舟院と共に「天台宗」として記載されている[1]。同書には天台宗所轄にあった浄土真宗の真教院(願泉寺)や誠照寺も天台宗の項目に掲載されており、宗教行政としては近世後期には天台宗所轄になっていたと分かる。 1846年(弘化3年)6月13日、仁孝天皇霊牌を奉安することを請願して許可される。 明治時代、三条実美が修復。 現在は天台宗延暦寺派。 2016年(平成28年)本堂修復。

法然の「足曳きの御影」「七箇条制誡」を所蔵。

(国史大辞典、日本歴史地名大系、二尊院ウェブサイト、大日本史料総合DBほか)

伽藍

子院

  • 真葉院:廃絶。
  • 浄金剛院:現在の天龍寺の地にあったが二尊院に移転。廃絶。

組織

歴代住職

  • 長老とも呼ばれた。「国師」というのは号ではなく、天皇の戒師をいうらしい。
  • 「二尊院住持次第」:16世まで掲載。一部略伝あり。『蓮門宗派』所収[2]。2004『法然教団系譜選』に掲載。
  • 「二尊院住持次第」:16世まで掲載。記述は簡略。『柳原家記録』本[3]
  • 「三鈷寺廬山寺二尊院歴代」:二尊院22世まで掲載。鷲尾順敬旧蔵。未見。大日本史料に引用されている。
  • 「嵯峨二尊院略譜」:1810年(文化7年)。30世まで掲載。法曼院真超書写。『続天台宗全書』圓戒2解題[4]を参照。これをベースとした。
  • 未見:「二尊院志稿」(『京都府寺誌稿』(『京都府寺志稿』26巻所収)、「諸寺歴代」一条家本、望月信亨『浄土教之研究』。
  • 『法水分流記』「西山義」に顕意が二尊院に住したとあるが、他の資料にはなし。
世数 生没年 在職年 略歴
1 法然源空 1133-1212 浄土宗宗祖。二尊院で『授菩薩戒儀』(『新本戒儀』)を執筆し、湛空に授けたという。この書は現在も「伝宗伝戒道場」で使われているという。
2 法蓮信空 1146-1228 金戒光明寺2世。二尊院に住した確証はないが、法脈から2世とみなされている。1228年(安貞2年)死去。白川上人。
3 正信湛空 1176-1253 二尊院の実質的な開山。嵯峨門徒の祖。金戒光明寺3世ともみなされている。1176年(安元2年)生。法然の弟子。円実(生没年不詳)の子。左大臣徳大寺実能の孫。延暦寺で実全に師事。のち法然に帰依して、法然と信空から円頓戒を授かる。1207年(承元1年)の「承元の法難」で流罪となった法然に随行したという。法然の中陰法要で施主を務めた。土御門天皇後嵯峨天皇に授戒。1227年(安貞1年)の「嘉禄の法難」で法然の遺骸を一時預かったとみられ、1233年(天福1年)粟生光明寺から分骨を迎え、雁塔を建てた。1244年(寛元2年)『本朝祖師伝記絵詞』(『四巻伝』)を記す。後鳥羽上皇中宮の修明門院重子の帰依を受け、空海の「飛行三鈷杵」を授けられたが、晩年に金剛峰寺に返還したという。正信房(聖信房)。「公全」と同一人物ともいう。1253年(建長5年)7月27日死去。78歳。弟子に正覚叡澄、求道恵尋(金戒光明寺4世)、信覚、十地覚空(臨済宗万寿寺開山)らがいる。(新纂浄土宗大辞典ほか)
4 正覚叡澄 1229-1307 正信湛空の弟子。正親町三条公氏の子。後嵯峨天皇、後深草天皇亀山天皇後宇多天皇伏見天皇の五帝に授戒。特に伏見天皇には3度授戒したという。1307年(徳治2年)死去。79歳。国師。叡空(永空)とも。(禅林寺の永空正覚とは別人か)
5 理覚尋慶 1262-1308 正覚叡澄の弟子。関白九条忠家の子。清空。亀山天皇、後宇多天皇に授戒。1308年(延慶1年)、下野小山で死去。47歳(40歳とも)。火葬地に西念寺がある(日本歴史地名大系)。国師。
6 理性 1291-1332 九条家出身。1332年(元弘2年/正慶1年)死去。42歳。
7 修覚定空 1288-1343 理覚尋慶、理性の弟子。太政大臣土御門定実の子。1343年(興国4年/康永2年)死去。56歳。(『日本仏家人名辞書』に土御門天皇皇子とあるのは誤りと思われる)
8 深恵崇空 ?-1378 准大臣近衛兼教の子(『次第』には一条家出身とある。)。1378年(天授4年/永和4年)死去。
9 法位境空 ?-1398 太政大臣洞院公賢の子(大日本史料総合DB)。浄土宗西山派深草流。11世示鏡弁空の兄。1398年(応永5年)死去(1394年(応永1年)とも)。遣迎院、竹林寺、浄土寺、二尊院を兼務。
10 僧令仁意 ?-1415 関白九条経教の子(尊卑分脈)。1415年(応永22年)1月15日死去(「二尊院志稿」「嵯峨二尊院略譜」)(『尊卑分脈』や『三鈷寺廬山寺二尊院歴代』には1410年(応永17年)3月26日死去とある)。任意とも。
11 示鏡弁空 1348-1448 三鈷寺12世。廬山寺10世。照恵の弟子。浄土宗西山派本山流の僧で、以後、二尊院は本山流の僧侶が相続する。太政大臣洞院公賢の子で二尊院9世法位境空の弟。1448年(文安5年)死去。
12 中統臨空 1380-1461 三鈷寺・本心院・二尊院12世を兼務。1461年(寛正2年)死去。82歳。勅諡は弘導和尚。後花園天皇国師。諸堂復興、寺領拡大。
13 恵篤善空 1412-1492 三鈷寺を兼務。般舟三昧院開山。1462年(寛正3年)三鈷寺に入る。二尊院入寺も同時期と思われる。1471年(文明3年)、後土御門天皇の御前で講義。1475年(文明7年)12月27日、後土御門天皇に授戒。国師。1476年(文明8年)聖寿寺で如法念仏。1478年(文明10年)護摩修法。1479年(文明11年)3月、後土御門天皇から長門・阿弥陀寺は西山門流との綸旨を得る。同年4月、九州下向のため白河遣迎院を出立。12月、後土御門天皇の勅願で般舟三昧院を創建。後土御門天皇から衣と綸旨を賜る。1480年(文明12年)6月、二尊院の庫裏を再建。1481年(文明13年)3月13日、戦乱で焼かれた浄橋寺に僧房を建て本尊を遷座。1483年(文明15年)「申置条々」を記す。1486年(文明18年)、勝仁親王(後柏原天皇)に授戒(大日本史料総合DB)。三条西実隆の帰依を受けた。1487年(長享1年)9月27日、仁空100回忌に際し朝廷に請願して諡号「円応和尚」を賜う(三鈷寺文書)。1489年(延徳1年)国母嘉楽門院の葬儀を行う。1491年(延徳3年)10月21日「置文」を記す。1492年(明応1年)8月9日死去(9月10日とも。親長卿記)。81歳。敬川。摂善院と号す。勅諡は円慈和尚(後土御門天皇。1492年(明応1年)9月16日。宣秀卿記)。81歳。著作は『浄土揚顕抄』『善空置文』。(「善空上人の教化」「本山義の軌跡」ほか)
14 寿観敬空 1436-1507 1495- 中統臨空の弟子。三鈷寺・般舟三昧院を兼務。近江西円寺を経て1495年(明応4年)二尊院に入寺(大日本史料総合DB)。1507年(永正4年)死去。72歳。西空とも。道号は明岳。
15 宗純念空 1446-1516 三鈷寺・般舟三昧院を兼務。1510年(永正7年)参内(この頃二尊院に入寺か)。1513年(永正10年)知仁親王(後奈良天皇)に授戒(大日本史料総合DB)。1516年(永正13年)3月9日、堺光明院で死去(「三鈷寺廬山寺二尊院歴代」では1515年(永正12年)死去とある)。71歳。勅諡は心地和尚。後柏原天皇国師。
16 恵教一空 1468-1547 三鈷寺兼務。1532年(天文1年)9月、香衣を許可される。同月後奈良天皇に授戒(大日本史料総合DB)。勅諡は広明和尚。国師。1547年(天文16年)死去。80歳。
17 本源見空 ?-1578 1578年(天正6年)死去。良純。無二庵。(良純は三鈷寺の宥空良純に通じるが名前と没年が異なる)
18 正温登空 ?-1605 1605年(慶長10年)死去。
19 良椿道空 ?-1622 角倉了以に招かれ嵐山千光寺を創建。1622年(元和8年)死去。
20 良元諦空 ?-1628 1628年(寛永5年)死去。
21 玄隆円空 ?-1637 1637年(寛永14年)死去。
22 尊俊感空 ?-1663 1663年(寛文3年)死去。
23 尊能天空 ?-1629 1629年(寛永6年)死去。
24 公淵印空 ?-1628 1628年(寛永5年)死去。
25 静然寛空 ?-1703 1703年(元禄16年)死去。
26 印光徹空 ?-1715 1715年(正徳5年)死去。
27 湛応遍空 ?-1743 1743年(寛保3年)死去。
28 普峰妙空 ?-1720 1720年(享保5年)死去。普峯妙空。
29 湛灯義空 ?-1748 1748年(寛延1年)死去。
30 覚灯広空 ?-1776 1776年(安永5年)死去。
  • 秀空:1843年(天保14年)12月、紫衣勅許。「二尊院性空紫衣参内」[5]
  • 順空:1853年(嘉永6年)2月、紫衣勅許。「二尊院性空紫衣参内」
  • 性空:1837年(天保8年)生。1871年(明治4年)10月2日、紫衣参内許可。「二尊院性空紫衣参内」
  • 貴志寂忍
  • 羽生田寂純
  • 羽生田寂裕
  • 羽生田実隆

資料

古典籍

  • 『二尊院縁起』:天文年間末の成立。元は絵巻だったが詞書のみ現存。『続群書類従』[6]、『大日本仏教全書』[7]に掲載。
  • 『二尊院縁起絵巻』:桃山時代に描かれた絵巻。
  • 『二尊院文書』:『編年文書』所収[8][9][10]
  • 『京都諸寺等文書目録』「二尊院」:[11]
  • 『嵯峨小倉山二尊院霊宝目録略縁起』:『諸国寺社諸縁起』所収。
  • 「二尊院」『古事類苑』[12]

文献

  • 森田龍僊1933「弘法大師の飛行三鈷に就て」『密教研究』48[13]
  • 望月信成1938「法然上人の御影」『美術研究』79[14]
  • 惠谷隆戒1961「叡山戒法復興運動の諸問題」『印度學佛教學研究』9-1[15]
  • 上田良準1963「室町期における西山西谷義吾妻教系の京都進出」『印度學佛教學研究』11-2[16]
  • 吉田清1966「信空における円頓戒相承について」『印度學佛教學研究』14-2[17]
  • 三田全信1968「嵯峨二尊院の法然上人の納骨塔について」『印度學佛教學研究』17-1[18]
  • 玉山成元1971「『御湯殿上日記』にあらわれた浄土宗」『印度學佛教學研究』20-1[19]
  • 田辺隆邦1972「善空上人の教化」『西山学報』22[20]
  • 光地英学1980「禅浄両者の交渉性」『駒澤大学仏教学部論集』11[21]
  • 中野正明1982「二尊院所蔵「七箇条制誡」署名考」『大正大学大学院研究論集』6
  • 永井規男1983「二尊院古図について」『学術講演梗概集―計画系』58
  • 白井忠功1984「三条西実隆覚え書―宗教的教養について」『立正大学文学部論叢』79[22]
  • 鈴木登美恵1990「太平記作者圏の考察―洞院家の周辺」『中世文学』35[23]
  • 伊藤正順1994「本山義における『観経疏』解釈の特徴」『印度學佛教學研究』42-2[24]
  • 渡邊秀一ほか2007「嵯峨諸寺門前地の近代的変容に関する予備的考察」『佛教大学アジア宗教文化情報研究所研究紀要』3[25]
  • 土谷真紀2009「初期狩野派絵巻の研究―「二尊院縁起絵巻」を中心に」『鹿島美術財団年報』27
  • 高橋大樹2013「室町・戦国期二尊院の再興と「勧進」―法然廟・檀那・菩提所」『仏教史学研究』55-2(博士論文『日本中・近世の地域社会と寺院の研究―京都・近江を中心に』所収[26]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%8C%E5%B0%8A%E9%99%A2」より作成

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