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大安寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年2月26日 (土)
大安寺(だいあんじ)は、奈良県奈良市にある真言宗寺院。現在の本尊は十一面観音。古代の代表的な官寺で七大寺・四大寺の一つ。南都仏教の代表的寺院の一つ。関東祈祷所。高野山真言宗。大官大寺。百済大寺。高市大寺。南大寺とも。聖徳太子が建てた熊凝精舎に由来し、飛鳥などを経て平城京に移された。この時、唐から帰国した道慈が長安の西明寺を模して伽藍を建てたともいう。鎮守として大安寺八幡宮がある。大安寺関連旧跡も参照。多くの名僧がここで学び、また立ち寄っている。勤操、空海、行教の旧跡。(参考:同名寺院大安寺_(同名))
目次 |
歴史
聖徳太子伝説
- 飛鳥時代:聖徳太子が平群郡の飽浪葦垣宮の近くに熊凝精舎を創建という。
- 617年(推古25年):聖徳太子、推古天皇の使として飽浪葦垣宮に来訪した田村皇子(後の舒明天皇)に熊凝精舎を託した。(大安寺資財帳)
百済大寺時代
- 639年(舒明11年)7月:舒明天皇が精舎を十市郡の百済河畔に移し、百済宮と共に伽藍を造営し百済大寺と呼ばれた。封戸300戸。阿倍倉梯麻呂が造寺司を務めた。(日本書紀、大安寺資財帳)
- 639年(舒明11年):舒明天皇、水田216町施入。
- 639年(舒明11年)12月:子部神社の木を切り九重塔を建てたが祟りで塔と石鴟尾が焼失という。ただし百済大寺跡からは被災痕跡は見つかっておらず史実ではないとみられている。(日本書紀、大安寺資財帳)
- 642年(皇極1年)9月3日:皇極天皇、百済大寺造営のため近江・越の丁を徴発した(日本書紀)。
- 645年(大化1年):入唐僧の恵妙(?-680)が大安寺寺主となる。
- 651年(白雉2年)3月17日:皇極天皇、「霊鷲山繍仏図」を作成(日本書紀、大安寺資財帳)。当初の金堂本尊か。
- 668年(天智7年):天智天皇、丈六釈迦如来像(脱乾漆造)などを祀る。
- 672年(天武1年):300戸施入(新抄格勅符抄)
天武朝大官大寺時代
天武朝大官大寺も参照
- 673年(天武2年)12月17日:高市郡夜部村(飛鳥・藤原京)に移転し、高市大寺と称す。美濃王・紀訶多麻呂(紀堅麻呂と同一人物とも)を造寺司とする。(日本書紀・大安寺資財帳)
- 673年(天武2年):天武天皇、墾田地932町を施入。
- 677年(天武6年)9月7日:大官大寺と改称(大安寺資財帳)。
- 682年(天武11年):140人余りが大官大寺で出家。
- 684年(天武13年):天武天皇の病気のため、群臣が大官大寺を参詣。
- 685年(天武14年)9月24日:天武天皇の病気のため飛鳥三大寺(大官大寺・川原寺・法興寺)で誦経。(日本書紀)
- 685年(天武14年)12月16日:寺僧への寄進。(日本書紀)
- 686年(朱鳥1年)1月9日:寺僧への寄進。(日本書紀)
- 686年(朱鳥1年)5月14日:食封700戸・出挙稲30万束施入。(日本書紀、新抄格勅符抄)
- 686年(朱鳥1年)7月:観音像を作り、大官大寺で「観世音経」を講説。文献上の観音経の初出。(日本書紀)
- 686年(朱鳥1年)12月19日:大官大寺・法興寺・坂田寺で無遮大会(日本書紀)
- 694年(持統8年):藤原京遷都
文武朝大官大寺時代
文武朝大官大寺も参照
- 文武時代:大官大寺移転か(考古学成果による)。
- 699年(文武3年):九重塔を建立。
- 701年(大宝1年)6月1日:下道君首名、僧尼を集めて僧尼令の解説を開いた。「大安寺」名の初見。(続日本紀)
- 701年(大宝1年):造大安寺寮を設置。造塔司、丈六司を置く。(続日本紀)
- 707年(慶雲4年)6月16日:文武天皇七七斎を大官大寺・薬師寺などで行う。七七斎の初見。(続日本紀)
- 710年(和銅3年):平城京遷都。
- 711年(和銅4年):大官大寺、藤原宮と共に焼失。(扶桑略記)
平城京大安寺時代
- 716年(霊亀2年)5月16日:平城京左京六条四坊の現在地に移転を起工したとみられる(続日本紀)。「始徙建元興寺于左京六条四坊」とあり、「元興寺」は大安寺の誤記とみられる。近くには佐伯院があった。
- 718年(養老2年)9月23日:竣工か。続日本紀に「遷法興寺於新京」とあるが法興寺(元興寺)は大安寺の誤記とみなされる。
- 718年(養老2年):道慈帰国。
- 721年(養老5年):行基が100人の僧を度した。
- 722年(養老6年):元正天皇、仏供養具10口・聖僧供養具10口・秘錦大灌頂幡1具を施入。(大安寺資財帳)
- 723年(養老7年):元正天皇、大蔵経1597巻を施入。(大安寺資財帳)
- 729年(天平1年):道慈に「大寺」の改造を勅す(扶桑略記)。大安寺の造営に大きな計画変更がなされたと考えられている。また以後、大安寺が三論宗大安寺流(三論宗第三伝)の拠点となる。
- 733年(天平5年):大安寺僧の普照と栄叡が授戒僧(鑑真)招請のため入唐。
- 736年(天平8年):唐の道セン、インドの菩提僊那、ベトナムの仏哲が来日して大安寺に住す。
- 736年(天平8年):聖武天皇、回廊に羅漢画像94体を描き、中門に金剛力士8体、梵王・帝釈・波斯匿王・毘婆沙羅王像を造立。大般若会を意識したものか。(大安寺資財帳)
- 737年(天平9年)4月8日:道慈の請願で、造営以後私的に行っていた大般若会を大安寺の公的仏事とする。(続日本紀)
- 742年(天平14年):この頃には主要伽藍の造営が終わっていたとみられる。この年、(天皇ではなく)大安寺の予算で金堂の菩薩2体・羅漢像10体・八部衆像、中門の四天王像2セットを造立したという。霊鷲山繍仏図を立体化したものか。また「大般若四処十六会図像」「華厳七処九会図像」を制作。(大安寺資財帳)
- 744年(天平16年):道慈と寺主教義が申請して聖武天皇から墾田地994町を賜る。(大安寺資財帳)
- 744年(天平16年)10月2日:道慈死去。
- 745年(天平17年):扶桑略記に大官大寺から大安寺に改称とある。「天下大平、万民安楽」の意味だという。正式に大官大寺から大安寺に改称したとみられる。
- 747年(天平19年)2月11日:『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』が編纂される。塔はまだなかった。887人の僧が居住していた。
- 748年(天平20年):この頃には飛鳥の旧地は大安寺の荘園となっていた。
- 749年(天平感宝1年/天平勝宝1年):この頃、大安寺は盧舎那仏造立を進めている(大安寺造仏所解)
- 760年(天平宝字4年):菩提僊那、大安寺で死去。
- 766年(天平神護2年)12月28日:大安寺東塔が震える(続日本紀)。この頃には塔が竣工していた。
- 767年(神護景雲1年):称徳天皇行幸。
- 768年(神護景雲2年):出家した早良親王が大安寺に滞在。
- 769年(神護景雲3年):勤操が大安寺で出家。
- 791年(延暦10年):四天王像造立(興福寺北円堂に現存)。
- 792年(延暦11年):空海、大安寺勤操により得度を受け、虚空蔵求聞持法を授かる。
- 797年(延暦16年):行表(最澄の師)、大安寺で死去。
- 815年(弘仁6年):最澄が天台を講ず。
- 823年(弘仁14年):空海が百済大寺を偲び、その跡地に大和・百済寺を創建したと伝える。
- 829年(天長6年):空海が大安寺別当になったという。
- 859年(貞観1年):唐院を建立し、大安寺八幡宮を創建。
- 860年(貞観2年):大安寺僧の行教、石清水八幡宮を創建。
- 880年(元慶4年)10月20日:百済大寺旧地の十市郡百済川辺の田1町7段160歩と、大官大寺旧地の高市郡夜部村の田10町七段250歩を大安寺に返入。(三代実録)
- 911年(延喜11年):講堂焼失(一代要記)。
- 949年(天暦3年):雷火で西塔焼失(日本紀略)。
- 1007年(寛弘4年):吉野参詣に向かう途中の藤原道長が大安寺に宿泊。
- 1017年(寛仁1年)3月1日:諸堂焼失(扶桑略記、日本紀略)。大打撃となる。東塔と本尊釈迦如来以外は全て焼け落ちたという。
中世
- 1023年(治安3年):再興のため杣師が材を集めたという。
- 1041年(長久2年)9月13日:火災(扶桑略記)
- 1090年(寛治4年)頃:金堂・回廊・中門・塔などを再建。
- 1098年(承徳2年):講堂再建。
- 1106年(嘉承1年):大江親通、大安寺参詣。
- 1116年(永久4年):鐘楼が再建
- 1140年(保延6年):大江親通、再び大安寺参詣。七大寺巡礼私記
- 1190年(建久1年):銅鐘勧進。
- 1253年(建長5年):東大寺僧で大安寺別当の宗性が南大門などを修理か。
- 鎌倉時代前期:戒如に学んだ律僧の禅慧本性(1242年(仁治3年)頃在世)が住す。この頃は真言律宗だったか。
- 1298年(永仁6年) :鎌倉・極楽寺忍性の申請で大安寺など34寺が関東祈祷所となる。
- 1449年(宝徳1年):地震で倒壊
- 1459年(長禄3年):暴風で金堂の回廊が倒れる。
- 1483年(文明15年):再建勧進で踊念仏
- 1504年(永正1年):大安寺八幡宮が焼失。
- 1566年(永禄9年):筒井順慶軍と松永久秀軍が大安寺南門で合戦。
- 1585年(天正13年):地震で金堂が傾く。
- 1596年(慶長1年)閏7月20日:大地震で伽藍全壊。
近世・近現代
- 1711年(正徳1年):海龍王寺高籤という僧が再興を試みるが果たさず。のち室生寺の堅雄も試みる。
- 享保年間:大安寺資財帳が大安寺から正暦寺に寄付される(1745年(延享2年)大安寺資財帳副状)
- 1736年(元文1年):『大和志』で「大安廃寺」と記される。
- 1882年(明治15年):叡福寺の奥山慶瑞と西大寺の佐伯泓澄が願い出て小堂と庫裏を建立。
- 1889年(明治22年):橿原神宮造営にあたり飛鳥の大官大寺の礎石が持ち去られたという。
- 1910年(明治43年):京都の牧啓造という人物が「御修行大師」像を建立。翌年、勧進を呼びかける。
- 1921年(大正10年)3月3日:大安寺塔跡が史跡指定。全国で最初の国史跡の一つ。
- 1922年(大正11年):現在の本堂再建。石堂恵猛(中山寺長老、仁和寺門跡38世)によるか。
- 1940年(昭和15年):河野清晃、大安寺住職となる。以後、近代の復興が始まる。
- 1930年頃:この頃には「別格本山」だった。
- 1954年(昭和29年):南大門・中門を発掘調査。
- 1963年(昭和38年):講堂跡を発掘調査。
- 1963年(昭和38年):収蔵庫(讃仰殿)建立。
- 1966年(昭和41年):講堂跡を発掘調査。
- 1968年(昭和43年):史跡指定を拡張し「大安寺旧境内」と改称。
- 1973年(昭和48年):大官大寺跡を奈良国立文化財研究所が発掘調査開始。
- 1982年(昭和57年):講堂跡を発掘調査。
- 1980年代頃:この頃までは真言宗山階派だったようだ。
- 1989年(平成1年):南大門・中門を発掘調査。
- 1997年(平成9年):吉備池廃寺発掘調査。調査が進み、百済大寺の跡として定説化した。
- 2006年(平成18年):京都府井手町の石橋瓦窯跡が史跡指定に追加。
伽藍
古代
大安寺式伽藍配置。東塔と西塔が独立した塔院を構えているのが古代寺院としては最大の特徴。百済大寺や大官大寺にもなかった。
- 金堂:本尊は丈六釈迦如来。
- 講堂:本尊は不明だが、中世には阿弥陀如来だったことから阿弥陀如来とする説がある。
- 食堂:場所は不明。講堂の北側説が唱えられていたが該当箇所からは発掘調査で遺構は見つからなかった。
- 東塔:独立した塔院を構える。
- 西塔:独立した塔院を構える。
- 僧房:
- 南大門:
- 中門:
- 禅院:
- 経楼:
- 鐘楼:
- 太衆院:
- 政所院:
- 温室院:
- 賤院:
- 苑院:
- 倉垣院:
- 花園院:
- 杉山古墳:
中世
現代
- 本堂:本尊は十一面観音。
- 嘶堂:本尊は馬頭観音。1997年(平成9年)建立。
- 護摩堂:本尊は不動明王。2012年(平成24年)再建。
- 讃仰殿:
- 小子坊:
- 南門:一乗院門跡の門を移築した。
- 先師供養塔:
組織
大安寺別当
空海(774-835)が就任したという説もあるが、別当次第に名前がない。
- 平法(生没年不詳)<>:三論宗。已講五師。838年(承和5年)維摩会講師。「平等」とも?
- 明釈()<>:
- 文悟()<>:五師。「文哲」とも。
- 春興(生没年不詳)<>:已講。法相宗。875年(貞観17年)維摩会講師。876年(貞観18年)最勝会講師。
- 恵運()<>:東大寺の僧?僧都。入唐八家の一人?
- 恵寿()<>:慶寿とも。律師。
- 春興()<>:
- 正燈()<>:五師。
- 安海(生没年不詳)<>:律師。三論宗。881年(元慶5年)維摩会講師。882年(元慶6年)最勝会講師。
- 長芸()<>:
- 寿冷()<>:已講。三論宗。
- 安矣()<>:「安奚」「安爰」とも。
- 安暁()<>:
- 観算()<>:「観幸」?
- 増運()<>:
- 令康(856-942)<>:法相宗。高階氏。921年(延喜21年)維摩会講師。のち大安寺別当。928年(延長6年)権律師。931年(承平1年)律師。935年(承平5年)少僧都。936年(承平6年)石山寺淳祐から胎蔵界受法。938年(天慶1年)正僧都。僧都五師。942年(天慶5年)8月21日死去。87歳。康は「戸」に「衣」とも。
- 詮宙()<>:威儀師?
- 神顔()<>:「神預」とも
- 円応()<>:
- 令康()<>:再任。(柳家本になし)
- 円応()<>:再任。(柳家本になし)
- 仁保()<>:威儀師。
- 昌矣()<>:律師。東大寺戒壇院和上?
- 昌遍()<>:五師。
- 松寿()<>:
- 禅教(?-965)<?-965>:『日本紀略』965年(康保2年)に「大安寺別当禅教」が殺害されたとある。西大寺別当13世。
- 観善()<>:
- 仁勝()<>:五師。
- 栄全()<>:五師。
- 〓寿()<>:威儀師。都寿とも
- 明祐()<982->:東大寺戒壇院和上?。982年(天元5年)就任(大日本史料総合DB)。
- 仁覚()<>:僧都。
- 〓果()<>:已講。明果
- 済信(954-1030)<>:律師。勧修寺長吏。東大寺別当64世。
- 会斉()<>:
- 平超()<>:薬師寺別当。
- 扶公(966-1035)<1005->:興福寺別当22世。
- 胤香()<>:
- 安奝()<>:
- 鴻助()<>:
- 円縁(?-1060)<>:興福寺別当25世。
- 頼信(1010-1076)<>:興福寺別当27世。
- 公範(?-1086)<>:興福寺別当28世。
- 頼尊(?-1100)<>:興福寺別当29世。
- 隆禅(1038-1100)<>:大乗院門跡の開山。
- 永縁(1048-1125)<1101->:興福寺別当31世。1101年(康和3年)3月、大安寺別当。
- 信縁()<>:興福寺僧。
- 覚雅()<>:
- 賢覚(1080-1156)<>:醍醐寺理性院の開山。
- 恵暁()<>:興福寺権別当。
- 恵珍(1118-1169)<1164->:東大寺東南院院主。1164年(長寛2年)大安寺別当。
- 聖慶(1153-1175)<>:東大寺東南院院主。
- 覚憲(1131-1212)<1175->:興福寺別当45世。1175年(安元1年)3月大安寺別当(国史大辞典)。
- 信憲(1145-1225)<>:興福寺別当50世。
- 兼遍()<>:興福寺僧。元興寺別当。
- 信憲(1145-1225)<>:再任。
- 成宝(1159-1227)<>:勧修寺門跡。東大寺別当102世。のち東寺長者。
- 定範(1165-1225)<>:東大寺別当103世。
- 頼恵(1168-1235)<>:東大寺別当107世。
- 良禎()<>:東大寺尊勝院院主。
- 聖基(1204-1267)<>:東大寺別当113世。
- 宗性(1202-1278)<1253->:東大寺別当112世。東大寺尊勝院。1253年(建長5年)大安寺別当。
- 定親(1203-1266)<>:東大寺別当111世。
- 宗性(1202-1278)<>:再任。
- 道宝(1214-1281)<>:勧修寺門跡。東大寺別当117世。1287年(弘安10年)6月大安寺別当。?
- 延晟():紀氏。(大日本史料総合DB)
- 法蔵():962年(応和2年)就任。966年(康保3年)辞任。(大日本史料総合DB)
- 貞兼(1403-1452):興福寺別当175世。興福寺松林院。(大日本史料総合DB)
- 光憲(?-1481):興福寺別当181世。修南院。(大日本史料総合DB)
- 尋憲(1529-1585):二条尹房の子。興福寺別当209世。(大日本史料総合DB)
- 隆俊():興福寺別当155世。 (大日本史料総合DB)
- 未見:『日本古代中世の政治と宗教』『中世南都の僧侶と寺院』『大安寺史・史料』
長老
- 1禅慧(生没年不詳)<>:遍照心院長老2世。東大寺東南院で学ぶ。叡尊・覚盛らと共に自誓受戒した不空院円晴の弟子という。本浄房。
- 2玄基(生没年不詳)<>:叡尊の弟子。住吉大社社家の津守家出身。興道房。門下に大慈寺浄賢、隆賢、薬師寺の禅海、観心、大乗院良賢、道禅。
- 信勝
近現代住職
- 河野清晃(1906-2001):福岡県の医師の家に生まれる。高野山総持院で得度。高野山大学卒。1940年、大安寺貫主に就任し、復興に尽力。また日独親善に努めた。
- 河野良文(1951-):福岡県生まれ。高野山大学卒。タイに留学。2002年、大安寺貫主就任。
資料
古典籍
- 大安寺資財帳:旧正暦寺本が国立歴史民俗博物館に所蔵
- 大安寺縁起:寛平縁起。895年7月。
文献
- 1984『大安寺史・史料』
- 大安寺歴史講座1
- 大安寺歴史講座2
- 大安寺歴史講座3
- 大安寺歴史講座4
- 1985『大官大寺』
- 1966『南都七大寺の研究』
- 1997『南都七大寺の歴史と年表』
- 2005『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』
- 1960「平城京大安寺の西明寺模倣説について」
- 1977「大安寺旧境内発掘調査概報」
- 「高市郡古跡略考」:1751年(宝暦1年)。長尾宗〓著。