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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

西行旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年9月1日 (日)

西行から転送)
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西行(さいぎょう)(1118-1190)は、平安時代末期の真言宗僧侶歌人として著名。俗名は佐藤義清。 円位。大宝坊、大本坊と号す。

略歴

佐藤康清の子。藤原秀郷の末裔という。鳥羽上皇や徳大寺実能に仕えるなどしたが、1140年(保延6年)遁世して出家。理由には信心・無常感・悲恋など様々な説がある。嵯峨や東山に庵を設け、長楽寺双林寺などでの歌会に参加。また鞍馬寺で修行したという。能因を慕って陸奥国や出羽国を探訪。帰京して高野山に1180年(治承4年)まで転居。この時代、吉野山にもたびたび訪れ、大峰山修行も行ったという。また四天王寺、熊野三山、厳島神社、播磨・円教寺にも参詣した。1167年(仁安2年)頃、白峰寺を参詣し、崇徳天皇の霊を慰め、善通寺に庵を結んだ。1172年(承安2年)平清盛の千僧供養に出仕。1180年(治承4年)、伊勢国二見浦の庵に移り、伊勢神宮神職の荒木田満良らと交流した。1186年(文治2年)、東大寺大勧進の重源の依頼で大仏再建の勧進のため平泉の藤原秀衡を訪問。その途次、鎌倉で源頼朝に流鏑馬を披露。1187年(文治3年)、帰京して嵯峨に住む。1189年(文治5年)、河内弘川寺に転居。1190年(建久1年)2月16日死去。73歳。同寺内に墓所を設けた。歌道と仏道の両面から評価され、伝説化していった。全国に西行伝説がある。(『国史大辞典』『日本大百科全書』)

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