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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

三鈷寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年2月19日 (火)

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三鈷寺(さんこじ)は京都府京都市西京区大原野石作町にある天台宗系・浄土宗系の寺院。本尊は仏眼明妃。元は善峰寺の一院。円密戒浄(天台真言戒律浄土)の四宗兼学の寺院として発展。浄土宗西山派開祖証空の墓所であり、浄土宗西山派本山流の本拠地だったが、天台宗延暦寺派を経て、現在は西山宗の本山を称す。善峰寺往生院観仏三昧院と号す。西山往生院北尾往生院。山号は西山、華台山。(参考:同名寺院往生院

目次

歴史

比叡山の源算は、西山に善峯寺を創建。さらに1074年(承保1年)1月1日にその北の峯に往生院を創建して隠遁した。その後、荒廃したが、観性が1161年(応保1年)に往生院に住した。中山忠親は1179年(治承3年)、「往生院」に参詣し、観性を訪ねたことを日記『山槐記』に記している。観性は死の間際、弟子の慈円に往生院を託した。1213年(建保1年)、証空は慈円より往生院を譲られて、住した。証空は多宝塔を建て、如法仏眼曼荼羅と釈迦如来、阿弥陀如来を奉安、外陣には天台大師善導大師を祭った。証空は没後、この地に埋葬され、華台廟が建てられた。宇都宮頼綱が整備し、観仏三仏院と称したという。1362年(正平17年/貞治1年)10月3日、後光厳天皇の綸旨で「浄土西山流根本地」とされ、住職は代々紫衣を着用し参内すると定められた。その綸旨が現存する。応仁の乱で諸堂焼失。1575年(天正3年)12月、常念仏再興の綸旨を賜る。寺領も寄進されるが、1585年(天正13年)豊臣秀吉が没収。1689年(元禄2年)徳川綱吉がさらに寺域を縮小させた。1750年(寛延3年)伽藍修復。1951年(昭和26年)、天台宗より独立して西山宗を立てる。 (国史大辞典、日本歴史地名大系)

伽藍

  • 本堂:
  • 方丈:抱止阿弥陀如来を奉安する。宇都宮頼綱の念持仏という。
  • 華台廟:
  • 鎮守社:

組織

歴代住職

世数 生没年 在職年 略歴
1 源算 983-1099 善峰寺・三鈷寺の開山。
2 観性 生没年不詳
3 慈円 1155-1225 藤原忠通の子。九条兼実の弟。
4 証空 1177-1247 浄土宗西山派の開祖。法然の弟子。建保年間に入寺。教化活動の拠点を三鈷寺に置いた。
5 良空静証 ?-1272 証空の弟子。1272年(文永9年)死去。浄照。本浄坊と号す。
尊躰 生没年不詳 (「南北朝期本山義教団管見」)
6 円空立信 1213-1284 浄土宗西山派深草流の祖。証空の弟子。真宗院を開き、遣迎院誓願寺などに住す。極楽坊と号す。
7 栖空遊観 ?-1298 証空の弟子。長寿坊と号す。勇観。
承空玄観 生没年不詳 栖空遊観の弟子で、証空の孫弟子。宇都宮泰綱の子で宇都宮頼綱(実信房蓮生)の孫に当たる。康空示導の師。三鈷寺に住す。1323年(元亨3年)(西山縁起)もしくは1319年(元応1年)(三鈷寺志稿)死去。玄観房と号す。歌人としても活躍し、冷泉家時雨亭文庫に多くの史料を残す。(「南北朝期本山義教団管見」)
性円 生没年不詳 (「南北朝期本山義教団管見」)
浄円 生没年不詳 (「南北朝期本山義教団管見」)
頓達 生没年不詳 関白二条師忠の甥。(「南北朝期本山義教団管見」)
8 康空示導 1286-1346 1328- 浄土宗西山派本山流の開祖。廬山寺本光禅仙、覚空仏観に学ぶ。1328年(嘉暦3年)11月、三鈷寺に入る(1323年(元亨3年)とも)。来迎院大慈恩寺に住す。嘉暦年間、大慈恩寺で後醍醐天皇に授戒。1342年(興国3年/康永1年)、大慈恩寺で観経四帖疏を講じる。1346年(正平1年/貞和2年)9月11日大慈恩寺聖来庵で死去。諡号は広恵和尚。示道。浄土院と号す。墓所は鉢福山浄満寺。三鈷寺華台廟のそばに御影を祀った。
9 澄空示浄 1295-1355 ?-1355 康空示導の弟子。1352年(正平7年/文和1年)後村上天皇から寺領安堵。1355年(正平10年/文和4年)死去。法住院と号す。墓所は鉢福山浄満寺。三鈷寺華台廟のそばに御影を祀った。
10 仁空実導 1309-1388 1355- 藤原為信の子。1309年(延慶2年)生。天台宗、密教、戒律、浄土宗西山派を学ぶ。照源と共に仲円に師事。康空示導にも学ぶ。1355年(正平10年/文和4年)、三鈷寺を継承。1362年(正平17年/貞治1年)10月3日、後光厳天皇の綸旨で「浄土西山流根本地」とされ、紫衣永代勅許。1368年(正平23年/応安1年)廬山寺を兼務。1377年(天授3年/永和3年)、仁空実導が廬山寺を澄空恵達に譲る。1386年(元中3年/至徳3年)、『西山上人縁起』を著す。1388年(元中5年/嘉慶2年)12月11日死去。80歳。墓所は鉢福山浄満寺。三鈷寺華台廟のそばに御影を祀った。勅諡は円応和尚(1487年(長享1年)9月27日。後土御門天皇から)。諱は恵仁。字は静山。浄行院と号す。『大日経義釈捜決抄』『遮那業案立』など著作多数。明導照源と共に天台宗廬山寺流の祖。現在では天台宗の僧侶とも、浄土宗(西山派本山流)の僧侶ともみなされる。
11 什空照恵 ?-1400 1400年(応永7年)死去。座行院と号す。
12 弁空示鏡 1348-1448 ?-1436 廬山寺を兼務。太政大臣洞院公賢の子。字は無象。二尊院を兼務し、新たに三鈷寺の末寺とする。1436年(永享8年)10月、三鈷寺を臨空中統に譲る。1448年(文安5年)死去。101歳。正行院と号す。
13 臨空中統 1380-1461 1436- 三鈷寺・二尊院12世を兼務。二尊院に入り、その後、三鈷寺に入る。1461年(寛正2年)死去。82歳。勅諡は弘導和尚。後花園天皇国師。本心院と号す。
14 善空恵篤 1412-1492 1462- 三鈷寺・二尊院を兼務。般舟三昧院開山。1462年(寛正3年)三鈷寺に入る。その後、二尊院に入る。摂善院と号す。
15 実空寿尚 ?-1496 1496-1496 長門・阿弥陀寺を経て1496年(明応5年)6月7日に三鈷寺住職に就任。同年12月14日死去。
16 敬空寿観 1436-1507 1501- 恵呈房の弟子。中統臨空の孫弟子。近江箕浦西円寺から就任。1495年(明応4年)3月10日に二尊院住職に就任。三鈷寺入寺の話が進むが、三鈷寺住職についてから二尊院を兼務するように定めた善空恵篤の遺命にたがうとして問題となる。そのため、1498年(明応7年)10月頃、一度二尊院を退任。1501年(文亀1年)末に三鈷寺住職に就任。そして二尊院、遣迎院、般舟院を兼務する。1507年(永正4年)2月29日死去(2月9日死去は誤りか)。72歳。西空、敬空とも。道号は明岳。
17 念空宗純 1446-1516 1508- 善空恵篤の弟子。二尊院・般舟三昧院を兼務。1476年(文明8年)9月に恵篤善空が行った聖寿寺での後花園天皇七回忌如法念仏に出仕。堺光明院を経て1508年(永正5年)8月頃、三鈷寺住職に就任。1510年(永正7年)8月4日、三条西実隆の紹介で参内。1513年(永正10年)知仁親王(後奈良天皇)に授戒(大日本史料総合DB)。1516年(永正13年)3月9日、堺光明院で死去(「三鈷寺廬山寺二尊院歴代」では1515年(永正12年)死去とある)。71歳。勅諡は心地和尚。後柏原天皇国師。
18 専空宗雲 生没年不詳 経歴不詳。
19 一空恵教 1468-1547 二尊院兼務。1503年(文亀3年)には二尊院の僧侶となっていた。1521年(大永1年)、戦乱で焼失した二尊院を再興し現本堂を建てた。 1532年(天文1年)9月、香衣を許可される。同月後奈良天皇に授戒(大日本史料総合DB)。勅諡は広明和尚。国師。1547年(天文16年)死去。80歳。
20 宥空良純 ?-1564 堺出身。1555年(弘治1年)後奈良天皇に授戒。1564年(永禄7年)3月1日死去。勅諡は行照和尚(1564年(永禄7年)3月10日。正親町天皇)。初名は良寿。
見空
  • 「三鈷寺伝持次第」:龍谷大学図書館蔵。
  • 「西山三鈷寺并遣迎院伝持次第写」:叡山文庫無動寺蔵。『続天台宗全書』圓戒2解題[1]
  • 「西山参鈷寺伝持次第」:『柳原家記録』所収[2]
  • 「西山参鈷寺伝持次第」:『蓮門宗派』所収[3]
  • 「三鈷寺廬山寺二尊院歴代」:三鈷寺16世まで掲載。鷲尾順敬旧蔵。
  • 国史大辞典
  • 「本山義の軌跡」
  • 「三鈷寺歴代記」:
  • 「西山正流本山義伝灯血脈譜」:

資料

古典籍

  • 「三鈷寺」『古事類苑』[4]
  • 『三鈷寺縁起』:純固著。東海学園大学名古屋キャンパス哲誠文庫。同朋大学仏教文化研究所水谷氏崇覚文庫。
  • 『三鈷寺記』:純固著。東海学園大学名古屋キャンパス哲誠文庫。同朋大学仏教文化研究所水谷氏崇覚文庫。
  • 『西山善恵上人略伝』:純固著。東海学園大学名古屋キャンパス哲誠文庫。同朋大学仏教文化研究所水谷氏崇覚文庫。
  • 『西山上人縁起』:仁空著。[5]
  • 『浄土宗西山派三国伝燈譜』:
  • 『西山上人絵詞伝』
  • 「仁空置文」:仁空著。『続群書類従』所収[6]
  • 「定置条々」:仁空著。1385年(至徳2年)。「三鈷寺仁空記録」[7]
  • 「三鈷寺文書」:[8][9]、国別文書[10]、雑々文書[11]。一部は国立文化財機構所蔵、京都国立博物館寄託[12]
  • 「三鈷寺旧蔵澄空示浄宛後村上天皇綸旨考料」[13]
  • 「三鈷寺〓留如来縁起」:『続群書類従』[14]
  • 「三鈷寺修造勧化疏」:1539年(天文8年)の時の勧進帳。『続群書類従』[15]
  • 「三鈷寺参詣曼荼羅」:善峰寺蔵。『日本の美術』331に紹介。
  • 「城州三鈷寺沙門證空伝」『本朝高僧伝』:
  • 1979「〈調査報告〉 三鈷寺蔵書目録」『叡山学院研究紀要』2
  • 「善空置文」:「本山義の軌跡」[16]に翻刻。
  • 「三鈷寺志稿」:『京都府寺誌稿』(『京都府寺志稿』)
  • 「三鈷寺境内図」:『三鈷寺文書』

文献

  • 田辺隆邦1935「文明年間に於ける西山派動静私見」『龍谷史壇』16
  • 田辺隆邦1973「中世に於ける西山派教団―本山義教団の変遷」『日本仏教学会年報』39
  • 田辺隆邦1978「室町時代未期の本山義教団」『西山学報』26[17]
  • 福田秀一1972「承空上人」『中世和歌史の研究』
  • 田辺英夫1980「善空置文にあらわれたる―近江寺院について」『西山学報』28[18]
  • 田辺英夫1983「南北朝期本山義教団管見」『西山学報』31[19]
  • 田辺英夫1993「本山義の軌跡」『西山学報』41[20]:まとまった記述。
  • 石崎達二1940『西山の名刹―善峰寺・三鈷寺・十輪寺』
  • 植田信広1981「東京大学法学部法制史資料室所蔵三鈷寺文書〔含翻刻〕」『古文書研究』17・18
  • 1983『向日市史』上
  • 菊地勇次郎1985「西山義の成立―西山往生院の展開」『源空とその門下』
  • 中西随功1989「門弟よりみたる西山證空とその浄土教」『西山学報』37[21]:仁空実導について。
  • 中西随功1996「西山往生院における布薩・自恣」『西山学報』44[22]
  • 中西随功監修2011『証空事典』東京堂出版
  • 上山隆1991「三鈷寺文書の研究―西山善峰寺往生院における観性」『大正史学』21
  • 大山喬平1992「浄土宗西山派と三鈷寺文書」『京都大学文学部博物館の古文書』9
  • 大塚紀弘2003「中世「禅律」仏教と「禅教律」十宗観」『史学雑誌』112-9[23]
  • 大塚紀弘2007『博士論文―中世僧侶集団の成立史的研究―律家および三鈷寺流を中心に』
  • 大塚紀弘2009「教院興行と三鈷寺流の成立―康空から仁空・照源へ」『中世禅律仏教論』
  • 五味文彦2006「長門阿弥陀寺・西山往生院・鎌倉永福寺」『中世社会史料論』校倉書房
  • 伊藤正順2013「仁空実導上人著『六巻本論義鈔』にみられる本山義の教学の特徴」『印度學佛教學研究』61-2[24]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%B8%89%E9%88%B7%E5%AF%BA」より作成

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