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誓願寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年2月10日 (土)

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江戸時代の境内(『都名所図会』より)
誓願寺(国土地理院空中写真より)

誓願寺(せいがんじ)は京都府京都市中京区桜之町にある浄土宗本山寺院。本尊は阿弥陀如来浄土宗西山深草派総本山。 浄土宗西山派深草流の拠点寺院。 証空旧跡 法然上人二十五霊場

(参照:同名寺院誓願寺 (同名)

目次

奉斎

本尊は阿弥陀如来

当初の本尊は賢問子、芥子国の親子による作で、それぞれ地蔵菩薩観音菩薩の化身とされ、また二人は春日明神の化身とされた。 しかし、幕末に本尊は焼失。現在の本尊は石清水八幡宮の本地仏(山内寺院の本尊か?)を明治初年に遷座したものという。

歴史

堀川に架かる元誓願寺橋と元誓願寺通

古代

天智天皇6年(667)、天智天皇の勅願によって奈良に創建。三論宗の恵隠が開山とされる。一説には紀寺が前身という。 鎌倉時代初期に一条小川に移転。あるいは平安遷都とともに平安京に遷ったともいう。

中世

平安時代末期、法然がたびたび参籠していたところ、1175年(安元1年)、21代蔵俊から譲られて22代となったという。さらに証空、円空が継承したとされる。 25代如円以来、真宗院と龍護院(歓喜心院)を兼帯したとされる。 1410年(応永17年)、後亀山天皇皇子が38代道禅に就いて出家し、真阿と名乗った。足利義教の帰依を受けたという。 1467年(応仁1年)、応仁の乱が勃発し焼失。1509年(永正6年)、仮堂を再建。

近世

1574年(天正2年)、仮堂が焼失。同年、現在地の京極三条に移転した(あるいは1591年(天正19年)、豊臣秀吉による都市計画で移転[1])。1597年(慶長2年)、53代教山善誉が中興して諸堂を復興させ、大規模寺院となった。松の丸殿(豊臣秀吉側室、京極龍子、1565-1634)が支援した。

1788年(天明8年)1月の京都大火(天明の大火)で焼失。1791年(寛政3年)綸旨を得て勧進を開始。1807年(文化4年)3月10日、上棟。1813年(文化10年)遷座。

応仁の乱で衰退して以来、法系が混乱し、西谷流の東西本山(粟生光明寺禅林寺)末から相続が行われており、深草流は慨嘆する状況であった。55代策伝の晋山に始まり、1678年(延宝6年)の60代典空玄山から西谷流からの晋山が続いた。1802年(享和2年)6月、73代い空(頥空)は妙心寺から昇進して相続。13代120年ぶりの深草流からの晋山であった。東西本山と交渉して深草の正統をもって住職とすることを約したが、その死後、西谷流の住職が2代続いて相続した。そのため、76代励空のとき、争論に及び、「公議の裁断」をもって深草の法灯を継ぐものとした。明治以後、西谷流のものが入ることもあったが、明治初年に就任した哲空隆賢を除いて、深草の相承を受けている。

なお、55代の安楽庵策伝は落語の開祖として知られる。幕末、大勧進職に就いた願空誓阿は、滝行を長年行い、各地に名号を残した行者である。

近代

誓願寺・1933宗教大観.jpg

天保年間、弘化年間、元治年間に3度の火災に会う。特に1864年(元治1年)8月の火災では諸堂および本尊を焼失してしまう。 明治初年、京都府は新京極商店街を設置したため、境内地の一部が上地され、広大な境内は縮小されてしまった。1852年(嘉永5年)から1869年(明治2年)に至るまで無住の状態に襲った惨事であった。

1869年(明治2年)、哲空隆賢が住職に就任し、5月、石清水八幡宮の本地仏を迎え、本尊とした。1874年(明治7年)本堂再建。1964年(昭和39年)現在の本堂が建立された。

境内

近世

  • 本堂
  • 開山堂
  • 釈迦堂
  • 三重塔
  • 地蔵堂
  • 地蔵堂
  • 経蔵
  • 鼓楼
  • 鎮守春日社
  • 十三仏堂
  • 方丈

近現代

明治初年の新京極商店街の設置で、境内を大きく削られた。

  • 本堂:本尊は阿弥陀如来。向かって右に善導、向かって左に法然。さらに左右に百万名号の厨子がある。北脇壇には証空、円空(向かって右)、顕意(向かって左)を祀る。南脇壇には十一面観音、地蔵菩薩(向かって右)、位牌(向かって左)を祀る。
  • 扇塚

子院

  • 竹林院:1873年(明治6年)頂源院に合併。
  • 随心院:1873年(明治6年)頂源院に合併。
  • 頂源院:現存。
  • 大善寺:旧称は大善庵。1883年(明治16年)大善寺と改称。現存。
  • 洞仙院:1883年(明治16年)大善寺に合併。
  • 松吟院:1883年(明治16年)大善寺に合併。
  • 江岸寺:1883年(明治16年)大善寺に合併。
  • 長仙院:現存。
  • 真如庵:1883年(明治16年)長仙院に合併。
  • 見松院:1883年(明治16年)長仙院に合併。
  • 西林院:1883年(明治16年)誓願寺に合併。
  • 福正院:1883年(明治16年)八坂上町に移転。
  • 宝樹庵:1912年(大正1年)中務町に移転。

以上のほか、政教中正論[1]には次がある。

  • 自休院
  • 安楽院
  • 得楽院
  • 金松庵
  • 順凉院
  • 浄光庵
  • 珍誉庵
  • 半渓庵

組織

歴代住職

  • 85世加藤観海まで『深草史』
世数 生没年 在職年 略歴
1 恵隠 生没年不詳 不詳 「天地帰敬大導師」とある。
2 定慧 643-665 不詳 藤原鎌足の子。深草史では本当は孝徳天皇から鎌足が妃を賜り産んだ子であり、714年(和銅7年)6月25日に86歳で死去とある。
3 慧資 生没年不詳 不詳 恵隠の弟子。
4 専貞 ?-772 不詳 宝亀年間、三笠山に7日間参籠。地蔵菩薩観音菩薩が出現し、「我先きに此土に来り。西方の真仏を彫刻す。即ち汝が寺の本尊是なり。故に我毎日寺に到り鎮(とこし)へに守護す。汝何ぞ労して此に来るや」と告げたという。772年(宝亀3年)3月15日死去。
5 立山 生没年不詳 不詳
6 教然 生没年不詳 不詳
7 妙意 生没年不詳 不詳
8 恵性 生没年不詳 不詳
9 玉春 生没年不詳 不詳
10 専意 生没年不詳 不詳
11 善貞 生没年不詳 不詳
12 伝慶 生没年不詳 不詳
13 慶玉 生没年不詳 不詳
14 音秀 生没年不詳 不詳
15 〓阿 生没年不詳 不詳 (〓は「口+奄」)
16 寛阿 生没年不詳 不詳
17 大光 生没年不詳 不詳
18 慈信 生没年不詳 不詳
19 慶玉 生没年不詳 不詳
20 頼全 生没年不詳 不詳
21 蔵俊 1104-1180 不詳 法相宗の学僧。誓願寺の伝承では法然に師事して浄土宗となる。はじめは奈良にいて後に誓願寺に移ったと伝える。
22 法然 1133-1212 加歴 誓願寺の伝承では、法然は時々誓願寺に参籠して結縁浅からずとして蔵俊が浄土宗に改めたという。浄土宗の法脈によって誓願寺歴代に加える。
23 証空 1177-1247 加歴 浄土宗の法脈によって誓願寺歴代に加える。
24 円空立信 1213-1284 加歴 深草流の祖。浄土宗の法脈によって誓願寺歴代に加える。証空の弟子。大和国十市郡出身。源氏。多田行綱の孫。1213年(建保1年)生。遣迎院龍護殿に住す。1251年(建長3年)真宗院(深草真宗院円福寺)を創建。1259年(正元1年)後深草天皇の帰依を受けた。三鈷寺6世。1284年(弘安7年)4月18日死去。墓所は真宗院にある。極楽房。
25 如円真空 1223-1290 不詳 円空立信の弟子。藤原信実の猶子という。1223年(貞応2年)生。幼くして円空立信に師事し、師命によって真宗院と龍護殿に住し、さらに誓願寺を兼務したという。地福寺を開いて閑居した。歌が『続拾遺和歌集』『風雅和歌集』『新拾遺和歌集』に収録されている。1290年(正応3年)3月2日死去。68歳。円空立信の墓の脇に葬られたという。
26 道光霊空 ?-1294 不詳 如円真空の弟子。真宗院と龍護殿に住し、誓願寺を兼務した。1294年(永仁2年)3月25日死去。
27 生智光空 ?-1301 不詳 源氏。太政大臣久我通雄の一族という。道光霊空の弟子。真宗院と龍護殿に住し、誓願寺を兼務した。道教顕意の真宗院入寺により般舟堂(不詳)に引退。1301年(正安3年)7月3日死去。
28 信日照空 ?-1304 不詳 円空立信の弟子。はじめ清和院に住し、のち誓願寺に移る。1304年(嘉元2年)10月7日死去。信一とも。
29 道教顕意 1239-1304 不詳 円福寺2世。記主顕意。聖恵。島津家出身。島津忠経の子。2歳で母によって聖達に託される。18歳で上京し、円空立信に師事して再度得度授戒する。諸宗を学び密教の灌頂も受けた。九州に戻って巡る。嵯峨竹林寺に住し、真宗院を兼務。後深草上皇の尊信を得たという。1294年(永仁2年)亀山上皇の院宣で仙洞御所で論じる。本山義の三福寺漸空を破す。今出川女院の命により和語一章を著す。新後撰和歌集に入選。真宗院の西に浄泉寺を創建して閑居。1304年(嘉元2年)5月19日死去。65歳。
30 良慧経空 ?-1316 不詳 粟田口良教の子。道教顕意の弟子。真宗院、龍護殿、誓願寺を兼務。頓阿(1289-1372)と親交があった。1316年(正和5年)7月15日死去(総本山誓願寺過去帳では14日死去)。頓阿の追善歌が『草庵集』にある。
31 双空道慧 ?-1335 不詳 良慧経空の弟子。真宗院、龍護殿、誓願寺を兼務。1335年(建武2年)9月22日死去。
32 兼空禅智 ?-1350 不詳 北畠大納言(不詳)の甥。双空道慧の弟子。真宗院、龍護殿を兼務して誓願寺に住す。頓阿と親交し、贈答した歌が頓阿の『草庵集』に残る。1350年(観応1年)1月24日死去。
33 双救道宗 ?-1360 不詳 北畠大納言の甥。兼空禅智の弟。双空道慧の弟子。最初は嵯峨竹林寺に住す。足利尊氏の帰依を得て、延元年間、足利尊氏の敗走に随従する。尊氏帰洛の後、光明天皇に奏上して真宗院・龍護殿の住職となる。1360年(正平15年/延文5年)8月25日死去(総本山誓願寺過去帳では29日)。千載和歌集、新拾遺和歌集に入選。
34 法位道雲 ?-1357 不詳 双救道宗の弟子。龍護殿に住し、のち誓願寺に住す。1357年(正平12年/延文2年)3月30日死去。
35 凝空寿覚 ?-1367 不詳 道教顕意の弟子。1367年(正平22年/貞治6年)3月21日死去(総本山誓願寺過去帳では1358年(正平13年/延文3年)7月6日死去。『法水分流記』では「建安三戊戌七六時往生九十五歳」とあるが「建安」は「延文」の誤りか)。
36 良日静見 1308-1383 不詳 教観(円空立信の法孫)の弟子。大和来迎寺を創建。のち真宗院、龍護殿を兼務して誓願寺に住す。1383年(弘和3年/永徳3年)12月6日死去。76歳(70歳とも)。了日静見とも。
37 実空西観 ?-1403 不詳 良日静見の弟子。1403年(応永10年)7月9日死去(「総本山誓願寺過去帳」「浄土伝灯総系譜」では8月3日)。
38 恵空道禅 1327-1412 不詳 良日静見の弟子。1410年(応永17年)、後亀山天皇皇子の真阿が誓願寺を訪れ、弟子とする。真阿の弟も出家帰依して宗玉と称した。1412年(応永19年)7月25日死去。86歳。
39 空覚照恵 ?-1427 不詳 恵空道禅の弟子。1427年(応永34年)7月9日死去。
40 道空順見 1371-1448 不詳 空覚照恵の弟子。大和来迎寺長老となり、のち真宗院に移り、龍護殿に住し、誓願寺を兼務した。1448年(文安5年)8月22日死去。78歳。諱は賢融。
41 融誉円廓 1367-1465 不詳 道空順見の弟子。1465年(寛正6年)8月6日死去。99歳(総本山誓願寺過去帳では59歳)。
42 洞空康遵 1427-1486 不詳 道空順見の弟子。融誉円廓の兄弟子。応仁の乱で誓願寺焼失。1486年(文明18年)12月24日死去。60歳。
43 格寿明感 生没年不詳 不詳 経歴不詳。
44 心空宗清 ?-1529 1522 洞空康遵の弟子。真宗院、龍護殿に住す。1522年(大永2年)5月、誓願寺に移る。1529年(享禄2年)5月5日死去。
45 康翁洞雲 ?-1541 不詳 康椿(洞空康遵の法孫?)の弟子。大和来迎寺に住す。三河法蔵寺に移る。のち誓願寺に移る。1536年(天文5年)仮本堂が炎上。1541年(天文10年)4月25日死去(総本山誓願寺過去帳、法蔵寺資料、立信寺資料、宝樹院資料、深草史106頁による。深草史73頁では1546年(天文15年)1月29日。嘉勝軒資料では1546年(天文15年)4月25日)。
46 潤空照厳 ?-1541 不詳 康翁洞雲の弟子。真宗院、龍護殿、誓願寺を兼務。1541年(天文10年)1月29日死去。
47 玉翁明印 ?-1557 不詳 僧正。1557年(弘治3年)10月1日死去。
48 寂道行遵 生没年不詳 不詳 経歴不詳。
49 観阿乗海 1495-1555 不詳 潤空照厳の弟子。真宗院、龍護殿、誓願寺を兼務。1555年(弘治1年)9月8日死去。61歳。
50 智空融厳 ?-1564 不詳 観阿乗海の弟子。真宗院、龍護殿、誓願寺を兼務。1564年(永禄7年)7月15日死去。
51 泰翁慶岳 1500-1574 不詳 三河国岡崎出身。三河・大林寺の照翁に師事。大林寺に住す。のち誓願寺に晋山。永禄年間、岡崎に引退。徳川家康の任官の仲介を行ったため特に一寺を寄進され三河・誓願寺を創建した。1574年(天正2年)1月13日死去(総本山誓願寺過去帳では12日)。75歳。泰翁慶学とも。
52 常翁玄易 ?-1586 不詳 泰翁慶岳の弟子。真宗院に住す。のち誓願寺に移る。1586年(天正14年)4月8日死去(総本山誓願寺過去帳では1月8日)。
53 教山善誉 1551-1616 不詳 誓願寺中興。円福寺23世。法蔵寺教翁の弟子。俗姓は松平・長沢。10歳で剃髪。11歳で法蔵寺大衆に加わる。上京して上人の綸旨を得た。1578年(天正6年)法蔵寺の首座となり、1579年(天正7年)法蔵寺住職。この頃、浄泉寺を創建。1583年(天正11年)円福寺法主。のち誓願寺に移る。天文の焼失の後の復興に尽力し、伽藍再建を果たす。浄泉寺に隠居。1616年(元和2年)10月21日死去。66歳。
54 徳翁感智 ?-1615 不詳 教山善誉の弟子。1615年(元和1年)6月13日死去。
55 策伝日快 1554-1642 不詳 西谷流出身。落語の祖とされる。山城・光明寺27世智空甫叔の弟子。1554年(天文23年)生。備前大雲寺、備中誓願寺、備中法然寺、備中極楽寺、備後西方寺、備後全政寺などを創建。堺正法寺、立政寺を経て法流の異なる誓願寺に晋山。子院の竹林院を創建。後水尾天皇の勅で清涼殿当麻曼荼羅を講じる。1642年(寛永19年)1月8日死去。然空。日英、日映は誤りか。
56 補山善慶 1587-1638 不詳 教山善誉の弟子。真宗院と龍護殿を再興修復した。誓願寺を兼務。1638年(寛永15年)9月8日死去。52歳。
57 雲翁受山 ?-1667 不詳 補山善慶の弟子。広島誓願寺、法蔵寺を経て誓願寺に晋山。伊勢に隠居。1667年(寛文7年)5月27日死去。
58 及山善以 ?-1661 不詳 補山善慶の弟子。真宗院に住し、誓願寺に移る。1661年(寛文1年)2月7日死去。
59 龍空瑞山 1626-1707 不詳 及山善以の弟子。京都安養寺に入り、1660年(万治3年)法蔵寺住職となり鐘楼などを再建。3年の後、誓願寺に晋山。延宝初年、草山(真宗院?)に隠居。真宗院・龍護殿を中興。黄檗宗の独湛性瑩・高泉性〓と交流を持った。1707年(宝永4年)7月2日死去。82歳。諱は寿閑。
60 典空玄山 1626-1708 1678 西谷流出身。禅林寺41世月空清感に師事。熱田正覚寺に住す。1678年(延宝6年)1月18日、誓願寺に晋山。1708年(宝永5年)8月19日死去。83歳。秀岳と号す。
61 純格超然 ?-1717 1688-1701 西谷流出身。法蔵寺鉄空純固の弟子。善岌に師事。西谷流の禅林寺に学ぶ。熱田正覚寺に住す。1688年(元禄1年)2月21日、勅により誓願寺に入る。鉄空純固の著述を編纂する。1701年(元禄14年)大塚光明寺に引退。1717年(享保2年)4月3日死去。
62 光空看瑞 1650-1727 1701-1713 西谷流出身。光空閑瑞。法蔵寺学寮、禅林寺学寮に学ぶ。伊勢・浄土寺に住す。1701年(元禄14年)3月11日、誓願寺に晋山。1713年(正徳3年)竹林院に隠居。1727年(享保12年)1月4日死去。78歳。
63 信空普門 ?-1732 1713-1723 西谷流出身。禅林寺学寮に学ぶ。伊勢浄土寺を経て1713年(正徳3年)3月8日、誓願寺に晋山。10年で隠居。1732年(享保17年)12月15日死去。
64 高岳千峰 1665-1737 1723-1734 西谷流出身。禅林寺学寮に学ぶ。伊勢浄土寺、熱田正覚寺を経て1723年(享保8年)11月18日、誓願寺に晋山。1734年(享保19年)2月7日引退。1737年(元文2年)4月1日死去。73歳。
65 広空本立 ?-1756 1734-1744 西谷流出身。梶取総持寺30世。播磨利生寺、越前・安養寺、梶取総持寺を経て1734年(享保19年)3月3日、誓願寺に晋山。1744年(延享1年)1月28日閑居。1756年(宝暦6年)7月19日死去。 (略歴は紀伊・総持寺#組織を参照)
66 尋空悦常 ?-1750 1746-1750 西谷流出身。光明寺学寮に学ぶ。伊勢浄土寺、美濃立政寺を経て1746年(延享3年)3月26日、勅により誓願寺に住す。1750年(寛延3年)10月29日死去。尋空悦丈。
67 峻空孤峰 ?-1756 1751-1756 西谷流出身。月泉と号す。禅林寺学寮に学ぶ。祐福寺を経て1751年(宝暦1年)8月3日、誓願寺に晋山。1756年(宝暦6年)2月5日死去。
68 逸空俊曉 1701-1781 1756-1778 西谷流出身。梶取総持寺33世。光明寺学寮に学ぶ。高砂十輪寺、梶取総持寺を経て1756年(宝暦6年)閏5月、誓願寺に晋山。1778年(安永7年)隠遁。1781年(天明1年)3月28日死去(総本山誓願寺過去帳では21日)。81歳。逸空瑞巌。(略歴は紀伊・総持寺#組織を参照)
69 皎空俊冏 ?-不詳 1779-1787 西谷流出身。禅林寺学寮に学ぶ。播磨大覚寺、美濃立政寺を経て1779年(安永8年)誓願寺に晋山。1787年(天明7年)6月引退。
70 単空周亨 ?-1788 1787-1788 西谷流出身。禅林寺学寮に学ぶ。越前安養寺を経て1787年(天明7年)6月13日、誓願寺に晋山。1788年(天明8年)1月30日大火。同年4月死去。
71 疾空仙霊 1737-1797 1788-1797 西谷流出身。梶取総持寺37世。嵯峨薬師寺、梶取総持寺を経て1788年(天明8年)11月(10月とも。1791年(寛政3年)とも)誓願寺晋山。1789年(寛政1年)閏6月、伽藍再建の勧進許可の綸旨を得て諸国を巡る。1797年(寛政9年)2月4日死去。61歳。 (略歴は紀伊・総持寺#組織を参照)
72 亮空博全 1722-1809 1798-? 西谷流出身。光明寺学寮に学び学頭となる。一宮常念寺を経て1798年(寛政10年)9月、勅によって誓願寺に晋山。1809年(文化6年)8月21日死去(総本山誓願寺過去帳では12月5日)。88歳。
73 頤空賢谷 1735-1808 1802-1808 諏訪山謙翁の弟子。法蔵寺学寮に学び、1779年(安永8年)三河・崇福寺住職。8年後、妙心寺に移り、11年後の1802年(享和2年)6月22日、誓願寺に晋山。伽藍再建に尽力し、1807年(文化4年)3月10日本堂落慶。光明寺・禅林寺と交渉し、誓願寺は深草の法流で相続することを定めた。1808年(文化5年)12月5日死去。74歳。
74 高空宝幢 1750-1813 1809-1813 西谷流出身。光明寺学寮で学ぶ。内野祥光寺に住し、1809年(文化6年)3月10日、誓願寺に晋山。深草の法脈による相続は破られた。1813年(文化10年)6月4日死去。64歳。
75 教空円山 1752-1814 1813-1814 禅林寺学寮で学ぶ。高砂十輪寺を経て1813年(文化10年)9月17日、誓願寺に晋山。同年10月、本尊遷座法要。1814年(文化11年)11月21日死去。63歳。
76 励空貫常 生没年不詳 1821-? 三河国形原の出身。藤川称名寺の啓翁の弟子。法蔵寺学寮に学ぶ。また崇福寺の朝空に親炙。岡崎宝性院、称名寺、廬山(崇福寺?)を経て1821年(文政4年)12月、誓願寺に晋山。再び東西本山に交渉して深草法脈での相続を決めた。京都長全寺に隠居。某年(1825年(文政8年)?)10月7日死去。67歳。
77 将空乗誡 1778-1850 1832-1839 岡崎出身。広翁文海の弟子。弁空恵龍のもとで得度。然空天樹に師事。法蔵寺学寮に学び、長沢洞泉寺、松立寺、東林寺を経て1824年(文政7年)崇福寺に住す。1832年(天保3年)3月6日、誓願寺に晋山。1839年(天保10年)9月11日引退。1850年(嘉永3年)11月9日死去。73歳。
78 三空琢賢 1789-1859 1841-1851 中島出身。俗姓は赤松。円福寺51世大光演冏の弟子。崇福寺学寮に学び、東林寺、常福寺、崇福寺を経て1841年(天保12年)6月8日、誓願寺に晋山。1851年(嘉永4年)11月、子院真如庵に隠居。1859年(安政6年)9月22日死去。71歳。
79 亨空賢随 1789-1861 1851-1852 1789年(寛政1年)生。長沢光用寺で得度。法蔵寺学寮に学ぶ。四条法雲寺に住し、1851年(嘉永4年)3月、63歳で誓願寺に晋山。1852年(嘉永5年)5月引退。1861年(文久1年)3月27日死去。
(願空誓阿) 1814-1858 大勧進職 一宮常念寺の弟子。嘉永末、誓願寺に入って大勧進職となる。1858年(安政5年)11月11日死去。45歳。博準洽本行者と称す。
80 広谷隆賢 1802-1885 1869-1871 哲空隆賢。西谷流出身。1869年(明治2年)3月6日誓願寺法主(深草史)。5月28日、石清水八幡宮より本尊を迎える。1871年(明治4年)6月、光明寺61世。浄土宗(合同)管長となる。(略歴は山城・光明寺#組織を参照)
81 立空弁道 1805-1874 1872-1874 唯阿待航。三河国米津出身。1805年(文化2年)生。岩崎勘兵衛の三男。大島浄泉院で得度。1831年(天保2年)綸旨。1835年(天保6年)岡崎伝正院住職。1855年(安政2年)9月2日、法蔵寺会下の衆頭に進む。1871年(明治4年)2月10日真宗院住職。真宗講を組織して祖廟を復興。1872年(明治5年)4月16日、崇福寺住職。同年9月20日、誓願寺法主。1874年(明治7年)1月26日死去。70歳。(深草史)
82 山本観純 1829-1896 1875-1896 音空是亮。三河国武豊の出身。1829年(文政12年)生。俗姓は土平。11歳で蓮華院に入り得度。1847年(弘化4年)檀林祐福寺で宗脈相承。光明寺学寮で学ぶ。友岡如円寺住職。1869年(明治2年)熱田正覚寺住職。崇福寺韻空から深草三脈を相承。1875年(明治8年)8月、誓願寺法主。教導職権中教正[2]。1876年(明治9年)7月11日、権少教正[3]。1878年(明治11年)5月6日、権少教正から少教正[4]。1879年(明治12年)12月27日、少教正から権中教正[5]。1884年(明治17年)8月1日、中教正から権大教正[6]。1886年(明治19年)6月9日まで浄土宗西山派管長[7]。1889年(明治22年)5月22日まで西山派管長[8]。1891年(明治24年)5月22日[9](官報の記述では「西山派」が抜けている)から1892年(明治25年)5月22日まで西山派管長[10]。1894年(明治27年)5月22日[11]から1895年(明治28年)5月22日[12]まで西山派管長。日清戦争で第5師団に駐在。管長として明治天皇に拝謁。樫原龍淵寺を創建。1896年(明治29年)12月25日死去。墓所は本山墓地。藤雲と号す。遺稿集『藤雲遺芳』[13]。(深草史)
83 中村祝空 1833-1898 1897-1898 祝空慶淳。三河国行用村出身。1833年(天保4年)生。福泉庵で得度。正龍寺、海蔵寺に住す。誓願寺の再建に貢献。1878年(明治11年)三河・安楽寺住職。1897年(明治30年)3月14日、誓願寺法主[14]。1898年(明治31年)5月11日死去。66歳。祝空慶淳上人禎阿祥雲大和尚。中村慶淳。天然と号す。(深草史)
84 久田倣道 1832-1901 ?-1901 曉空倣道。尾張国知多郡阿野村の出身。1832年(天保3年)生。常滑宝樹院で得度。長岡京三尊寺で学ぶ。亮範から嗣法伝戒。上羽西方寺、深心院(新光明寺?)に住す。山口藩士の光明寺駐屯に際して交渉して横暴を起こさないようにさせる。紫衣。三尊寺住職。高砂十輪寺住職。十輪寺を檀林に昇格させた。龍淵寺住職。円福寺法主(不詳。『深草史』円福寺歴代には記載なし)を経て誓願寺法主。仏舎利の奉迎と日泰寺創建に関わる。1900年(明治33年)6月11日(8日内務省認可[15])から1901年(明治34年)6月11日まで西山派管長(5日内務省認可)。1901年(明治34年)6月13日死去。70歳。墓所は本山墓地。曉空倣道上人駒峰大和尚。(深草史)
85 加藤観海 1847-1924? 1901-1924? 凌空観海。三河国上羽角の出身。1847年(弘化4年)生。10歳で真如寺で得度。1856年(安政3年)廬山(崇福寺?)に学ぶ。1861年(文久1年)両脈を常空から相承。1869年(明治2年)実相院住職。同年転衣。1874年(明治7年)教導職試補。1878年(明治11年)福徳寺住職。1881年(明治14年)真如寺住職。1901年(明治34年)誓願寺法主。1904年(明治37年)6月12日(6日内務省認可[16])から1905年(明治38年)6月11日[17]まで西山派管長。1908年(明治41年)6月11日(同日内務省認可[18])から、1909年(明治42年)6月11日[19]まで西山派管長(2度目)。1912年(大正1年)5月27日(27日認可[20])から1913年(大正2年)5月26日[21]まで西山派管長(3度目)。1916年(大正5年)4月7日(7日認可[22])から翌年3月31日[23]まで西山派管長に再任(4度目)。1919年(大正8年)4月30日、西山派の三派分裂にともない、浄土宗西山深草派管長就任を文部省から認可[24]。1922年(大正11年)9月7日管長辞職[25]。1923年(大正12年)8月9日、管長再任を文部省が認可[26]。1924年(大正13年)1月死去か[27](同月の新京極大火と関係するか)。凌空慶阿法舟。(深草史)
86 山崎覚明 1859-1925 ?-1925 円福寺法主69世。1859年(安政6年)生。蒲郡安楽寺で得度。1877年(明治10年)玉泉院住職。1883年(明治16年)安養院住職。1900年(明治33年)篠山准檀林誓願寺住職。1917年(大正6年)4月15日円福寺法主69世。1918年(大正7年)5月7日(文部省が認可[28]。4月15日とも)から1919年(大正8年)1月27日[29]まで西山派管長。1922年(大正11年)9月7日(文部省認可[30])から1923年(大正12年)6月12日[31]まで西山深草派管長事務取扱。1923年(大正12年)2月(1月?)23日、誓願寺法主か[32][33]。1924年(大正13年)1月24日、西山深草派管長就任を文部省が認可[34]。1925年(大正14年)1月15日死去。76歳。徳空覚明上人寛阿慈雲大和尚。[35]
87 岩瀬覚栄 1864-1928 1925-1928 円福寺法主70世。愛知県出身。1864年(元治1年)生。宗学研究所所長、西山専門学校校長を歴任。1924年(大正13年)3月、円福寺法主。1925年(大正14年)1月20日、管長就任を文部省が認可[36]。1928年(昭和3年)2月9日死去。65歳。著書『如意宝珠』[37][38]
88 富永慶法 1853-? 1928-1935 深空慶法。円福寺法主71世。愛知県横須賀村出身。1853年(嘉永6年)生。1865年(慶応1年)海蔵寺の中村祝空について得度。1885年(明治18年)曼陀羅相承、勧学林教師。1886年(明治19年)観音寺住職。1887年(明治20年)東京遊学。1891年(明治24年)阿弥陀寺住職。1897年(明治30年)三河・安楽寺住職。1898年(明治31年)南北改正協議員。1902年(明治35年)南北両本山東部寺務取扱。1916年(大正5年)宗会議員。1925年(大正14年)復興局副総裁。円福寺法主[39]を経て1928年(昭和3年)2月15日、深草派管長就任を文部省が認可[40]。3月12日誓願寺法主。1935年(昭和10年)2月14日退任[41]。没年不詳。[42][43][44]
89
90 鈴木諦教 1864-1937 1935-1937 聴空諦教。円福寺法主72世。愛知県出身。1865年(慶応1年)(1866年(慶応2年)とも)生。1876年(明治9年)専長寺住職。1928年(昭和3年)4月、円福寺法主。1935年(昭和10年)2月13日、管長就任を文部省が認可[45]。1935年(昭和10年)3月(1937年(昭和12年)2月13日とも)、誓願寺法主・管長。1937年(昭和12年)5月11日死去。[46][47]
91 井ノ口泰温 1871-1947 1937-? 円福寺法主。福岡県出身。1871年(明治4年)生。1899年(明治32年)東洋大学卒。超勝寺住職。西山専門学校教授。1935年(昭和10年)4月1日、円福寺法主に決定[48]。1937年(昭和12年)5月17日、管長就任を文部省が認可[49]。1942年(昭和17年)4月1日、浄土宗西山派(第二次)管長(3月25日に文部省告示326号で認可[50])。1944年(昭和19年)5月17日、管長退任を文部省に届出(文部省告示第1014号[51])。1947年(昭和22年)12月4日死去[52][53]
石黒観道 1875-1965 1946-1953 愛知県稲沢村出身。1875年(明治8年)生。16歳で徳島県鳴門昌住寺に入る。1907年(明治40年)黒崎西光寺住職。西山専門学校教授。真宗院住職。1946年(昭和21年)6月13日、誓願寺法主[54]。1953年(昭和28年)引退。台湾の新北投善光寺に滞在。1965年(昭和40年)、台湾で死去。著書『定善義私考』[55]、『観経序分義私考』[56][57]
木俣覚定 1880-? ~1958~ 足助町長。円福寺法主。1958年(昭和33年)以前に誓願寺法主。 (略歴は三河・円福寺#組織を参照)
平野有善 1898-1967 1965-1967 円福寺法主。1898年(明治31年)生。宗務長、円福寺法主を経て1965年(昭和40年)7月29日誓願寺法主。1967年(昭和42年)1月22日死去。69歳。(略歴は三河・円福寺#組織を参照)
96 倉内賢示 1894-1991 ?-1972 自坊は愛知県西尾市福泉寺。1894年(明治27年)生。宗会議長。宗務総長。1967年(昭和42年)誓願寺法主・浄土宗西山深草派管長[58]。1972年(昭和47年)3月3日退任[59]。1991年(平成3年)8月14日死去。97歳
97 野々山龍全 1890-? 1972-? 円福寺法主。自坊は三河全海寺。1890年(明治23年)生。円福寺法主を経て1972年(昭和47年)3月7日、誓願寺法主・浄土宗西山深草派管長。(略歴は三河・円福寺#組織を参照)
98 伴義台 1893-1985 1977-1985 円福寺法主。1893年(明治26年)生。円福寺法主を経て1977年(昭和52年)、誓願寺法主・浄土宗西山深草派管長。1985年(昭和60年)6月9日死去。92歳。(略歴は三河・円福寺#組織を参照)
99 桜間観刹 1906-1998 1985-1990 自坊は愛知県蒲郡市利生院。1906年(明治39年)生。宗学院教授・院長。1975年(昭和50年)真宗院貫主70世。1985年(昭和60年)7月16日から1990年(平成2年)8月27日まで誓願寺法主・浄土宗西山深草派管長。1998年(平成10年)9月25日死去。92歳。著書『説教への道』。
100 山本勝隆 1910-1990 1990-1990 真宗院貫主。愛知県出身。1910年(明治43年)生。大谷大学卒。1948年(昭和23年)妙心寺住職。1974年(昭和49年)宗務総長。1985年(昭和60年)9月、真宗院貫主。1990年(平成2年)8月29日誓願寺法主・管長。12月4日死去。80歳。
101 鵜飼慶範 1914-1998 1991-1998 自坊は京都極楽寺。愛知県出身。1914年(大正3年)生。1938年(昭和13年)、西山専門学校卒。1938年(昭和13年)極楽寺住職。教学部長、総務部長、宗会議員を歴任。深草浄土宗参務[60]。1986年(昭和61年)12月1日、宗務総長。1991年(平成3年)1月12日、誓願寺法主・管長。1998年(平成10年)12月22日死去。84歳。著書『老いを生きる―極楽寺講話会録』。
102 井ノ口泰淳 1922-2018 1999-2018 彰空泰淳。自坊は三条川端の超勝寺。1922年(大正11年)生。1943年(昭和18年)超勝寺住職。龍谷大学文学部教授、深草派宗学院教授、同院長を歴任。1999年(平成11年)2月、誓願寺法主・浄土宗西山深草派管長。2018年(平成30年)10月17日死去。96歳。著書『中央アジアの言語と仏教』『西域出土佛典の研究』など。
103 倉内賢道 1938- 2019-2024予定 徳空賢道。自坊は愛知県西尾市福泉寺。倉内賢示の長男。1938年(昭和13年)生。2019年(令和1年)1月17日、誓願寺法主・浄土宗西山深草派管長。

画像


資料

古典籍

  • 「誓願寺縁起絵」:鎌倉時代。3幅。第3幅は江戸時代の補作。勧修寺家本(1882奉納)もある。
  • 謡曲「誓願寺」:世阿弥。

文献

  • 中西随功監修、2011『証空事典』東京堂出版
  • 善導大師千三百年大遠忌事務局教宣部、1980年(昭和55年)『深草史 改訂版』
  • 『誓願寺文書の研究』
  • 大槻洋二1998「京都・新京極の成立母胎としての寺町:伝統都市の近代における歓楽街形成に関する史的研究 その1」[61]
  • 安城市歴史博物館2001『図録京都誓願寺と三河の念仏宗』

脚注

  1. 誓願寺ウェブサイト
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%AA%93%E9%A1%98%E5%AF%BA」より作成

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