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八坂神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月28日 (水)
八坂神社 やさか じんじゃ | |
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概要 | 八坂神社の総本社。 |
奉斎 | 素盞鳴命、稲田比売命、八柱御子神 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 京都府京都市東山区祇園町北側625 |
所在地(旧国郡) | 山城国愛宕郡 |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 二十二社・朱印地拝領神社・官幣大社・別表神社 |
関連記事 | 八坂神社関連旧跡・牛頭天王信仰・祇園御霊信仰 |
目次 |
概要
八坂神社(やさか・じんじゃ)は、京都府京都市東山区にある牛頭天王信仰の総本社。神宮寺の観慶寺があった。広峰神社が元宮に当たる。祇園祭で神輿が渡御する神泉苑も重要な旧跡。繁華街四条通沿いの四条御旅所など、いくつかの御旅所がある。二十二社・朱印地拝領神社・官幣大社・別表神社。祇園社。八坂神社関連旧跡も参照。(参考:同名祇園)
奉斎
- 中御座:素戔嗚尊
- 東御座:櫛稲田姫命、神大市比売命、佐美良比売命
- 西御座:八柱御子神(八島茶見命、五十猛命、大屋津比売命、抓津比売命、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古命、須勢理比売命)
- 傍御座:稲田宮主須賀之八耳神
由緒
当社の創建については諸説ある。
- 656年(斉明2年)の牛頭山奉遷説(1870年(明治3年)『八坂郷鎮座大神之記』)
- 876年(貞観18年)の円如創建説(鎌倉時代末『社家条々記録』)
- 元慶年間の播磨奉遷説(鎌倉時代末『二十二社註式』)
1は、現在、公式の縁起とされているもので656年(斉明2年)に高麗調進使の伊利之が新羅国の牛頭山の須佐之雄尊を奉遷して、八坂に祭ったというものである。
2は、876年(貞観18年)、南都の円如が創建したとする説。南都の僧侶が創建したという伝承が興味深い。別記によれば、薬師、千手を祀ったといい、また翌877年(元慶1年)、疫病消除祈願のために当社に勅使が参向したところ、立ちどころに疫病が消えたことから、関白藤原基経が居宅を寄進して、堂舎を造営したという。所功は祇園天神の通称はこの基経の寄進を祇陀太子による祇園精舎の寄進に擬えたことによるのではないかという。
3は、吉田家に伝わる伝承で、牛頭天王は初め明石浦に出現して、広峰に祀られた。その後、京都北白川の東光寺(岡崎神社)に移り、元慶年間に感神院が創建されて祀られたという。
所功は、総合的に判断して876年(貞観18年)の創建説を支持している。
また祇園社の成立に関わる事項として、祇園会の創始ということがある。
863年(貞観5年)、神泉苑にて初めての御霊会が行われた。これは政争に敗れて憤死した貴族たちの霊が疫病を起こしていると考えられ、その霊を慰めるためのものであった。
疫病を収めるための御霊会は、たびたび行われるようになり、特定の個人の霊への慰撫に関わらず、行われるようになった。ただ祭神に関してはよく分からない。 869年(貞観11年)、やはり疫病消除などのため、6月7日に66本の鉾を建て、6月14日に神泉苑に神輿を渡御して祭ったという(『祇園社本縁録』)。これが祇園御霊会の創始である。876年(貞観18年)が祇園社創建の年とすると、それより早いことになるが、この祇園御霊会を契機として祇園社が創建されたものと考えられている。
歴史
観慶寺
牛頭天王は、祇園精舎の守護神と言われるが、正統な仏教にはそのような所伝はなく、出自不明の神祇と言わざるをえない。神仏習合の宮寺として始まったが、当初は寺院であるとの認識が強かったらしい。観慶寺と称していたらしく、貞観と元慶の元号から名付けられたのではないかと言われている。『二十二社註式』によると、本尊は薬師如来で、本堂とは別に「神殿」があり、「天神・婆利女・八王子」を祀っていたという。仏堂と神殿が併存していたらしい。ただ『延喜式』には官社として収録されず、935年(承平5年)には定額寺に定められている。
祇園社の成立
しかし、996年(長徳2年)に二十二社に定められ、この頃には神社としての認識が主となったことが分かる。呼称も「祇園天神堂」や「祇園寺感神院」「祇園社」などと呼ばれるようになった。
また974年(天延2年)には天台別院となる。天台座主の良源の手腕によると見られている。天台宗による祇園社支配は進み、祇園別当は天台座主が兼務し、社務執行は行円の子孫が世襲するようになった。 比叡山の末寺となり、日吉大社の末社となった。比叡山の衆徒が京都で強訴を行うときには、祇園社が拠点となった。
974年(天延2年)はまた御旅所が成立して、祇園会が街中で行われ始めた年でもある。同年5月、秦助正なる者に対して、その居宅を御旅所として、神幸するようにとの託宣があった。そこで秦助正は高辻東洞院の自邸を寄進して、御旅所とし、大政所と称した。975年(天延3年)からは天皇が奉幣する官祭となった。
中世
広峰神社が「祇園本社」を主張して争論となるが、1311年(応長1年)、返って広峰神社を末社とした。 ただし、室町時代後期には広峰神社が独立している。
近世
豊臣秀吉の都市計画によって、2つの御旅所は移転させられた。大政所と少将井の御旅所は統合され、現在の四条京極御旅所が設置された。大神宮、稲荷社、大政所殿、少将井殿、冠者殿、悪王子社があった
1912年(大正1年)四条通拡張のため、御旅所北側が撤去された
近代
明治初年の神仏分離によって、本地堂本尊の薬師如来を始め、仏像仏具類は浄土宗大蓮寺に奉遷された。本尊薬師如来(重要文化財)は現在も秘仏として祀られている[1]。
境内
エリア | 名称 | 種別 | 祭神 | 概要 |
---|---|---|---|---|
本社周辺 | 本社 | 本社 | ||
本社周辺 | 龍穴 | 祭場・祠 | ||
本社周辺 | 神饌所 | その他 | ||
本社周辺 | 舞殿 | その他 | ||
本社周辺 | 南楼門 | その他 | ||
本社西側 | 大国主社 | 末社 | 大国主神・事代主神・少彦名命 | |
本社西側 | 大年社 | 末社 | 巷社神 | |
本社西側 | 十社 多賀社 | 末社 | 伊邪那岐命 | |
本社西側 | 十社 熊野社 | 末社 | 伊邪那美命 | |
本社西側 | 十社 白山社 | 末社 | 白山比咩命 | |
本社西側 | 十社 愛宕杜 | 末社 | 伊邪那岐命・火産霊命 | |
本社西側 | 十社 金峰社 | 末社 | 金山彦命・磐長比売命 | |
本社西側 | 十社 春日社 | 末社 | 天児屋根命・武甕槌神・斎主神・比売神 | |
本社西側 | 十社 香取社 | 末社 | 経津主神 | |
本社西側 | 十社 諏訪社 | 末社 | 健御名方神 | |
本社西側 | 十社 松尾社 | 末社 | 大山咋命 | |
本社西側 | 十社 阿蘇社 | 末社 | 健磐龍神・阿蘇都比咩命・速甕玉命 | |
本社西側 | 神馬舎 | その他 | ||
本社東側 | 大神宮 | 末社 | 天照大神・豊受大神 | |
本社東側 | 悪王子社 | 摂社 | 素戔嗚尊の荒魂 | |
本社東側 | 祓所 | 祭場・祠 | ||
本社東側 | 美御前社 | 末社 | 多岐理毘売命・多岐津比売命・市杵島比売命 | 宗像信仰の神社。 |
本社東側 | 命婦稲荷社 | 末社? | ||
本社東側 | 玉光稲荷社 | 末社 | 宇迦之御魂神 | |
本社東側 | 斎館 | その他 | ||
本社東側 | 能舞台 | その他 | ||
本社東側 | 清々館 | その他 | ||
本社東側 | 山鉾収蔵庫 | その他 | ||
西楼門周辺 | 西楼門 | その他 | ||
西楼門周辺 | 絵馬堂 | その他 | ||
西楼門周辺 | 疫神社 | 摂社 | 蘇民将来 | |
西楼門周辺 | 太田社 | 末社 | 猿田彦命・宇受女命 | |
社務所周辺 | 社務所 | その他 | ||
社務所周辺 | 常磐殿 | その他 | ||
社務所周辺 | 常磐新殿 | その他 | ||
社務所周辺 | 北向蛭子社 | 末社 | 事代主神 | |
社務所周辺 | 車祓所 | 祭場・祠 | ||
社務所周辺 | 神輿庫 | その他 | ||
北側 | 日吉社 | 末社 | 大山昨神・大物主神 | |
北側 | 刃物神社 | 末社 | 天目一箇神 | |
北側 | 厳島社 | 末社 | 市杵島比売命 | |
北側 | 五社 八幡社 | 末社 | 応神天皇 | |
北側 | 五社 竈神社 | 末社 | 奥津日子神・奥津比売神 | |
北側 | 五社 風神社 | 末社 | 天御柱命・国御柱命 | 龍田信仰か |
北側 | 五社 天神社 | 末社 | 少彦名命 | |
北側 | 五社 水神社 | 末社 | 高龗神・罔象女神 | |
北側 | 祖霊社 | 祭場・祠 | 祖霊社 | |
境外 | 四条御旅所・西御殿 | 祭場・祠 | 素戔嗚尊・櫛稲田姫命 | |
境外 | 四条御旅所・東御殿 | 祭場・祠 | 八柱御子神 | |
境外 | 冠者殿社 | 摂社 | 素戔嗚尊荒魂 | |
境外 | 又旅社 | 末社 | 素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神 | 三条御旅所 |
境外 | 大政所社 | 末社? | 素戔嗚尊・八柱御子神 | 大政所御旅所跡地 |
境外 | 御手洗井 | 祭場・祠 |
御旅所
- 三条御旅所:又旅社がある。古代神泉苑の跡地の一画にあたり、祇園会の発祥に関わる。
- 四条御旅所:東西神殿と冠者殿社がある。
- 大政所御旅所:四条御旅所に合併。大政所社と御手洗井が残る。
- 少将井御旅所:四条御旅所に合併。跡地に京都新聞社社屋がある。少将井社があったが、京都御苑・宗像神社内に遷座。
組織
- 本寺僧
- 上級社僧:僧体。紀氏の世襲。祇園社では狭義の「社僧」に含まないが、社僧と全く呼ばれないわけではない。執行は「社家」とも呼ばれた。極位は法印。祠官職も持ち、神職のような役割を持ち、仏事だけでなく神事も執り行った。
- 執行:組織運営の中心となる。座主遷代の職。1081年(永保1年)設置。初代行円は寛印の子。恒例・臨時の法会や神事の準備を公人に命じ、下級社僧、公人、宮籠などの人事権を持った。公人を通じて、神人や御旅所神主に対して諸役の催促や社領への供物の催促を行った。社領の治安維持も役目。また目代を通じて山門に諸事項を通達。延暦寺寺家の使者として入京した山門公人に酒肴料を渡した。山門集会事書により祇園社公人や犬神人を動員。天台座主や門跡の命令により労働力を調達すること。補任の際には2000疋から3000疋の料金を天台座主に上納した。また特殊な役割として本来は一つの組織であるはずの延暦寺内で、意思疎通の仕組みがなかった山門大衆・寺家と京都にいる天台座主の間の事実上の連絡役となっていた。顕深が足利義満の御師となり、宝寿院体制の始まりを築く。社務執行とも。
- 権長吏:執行が兼務することもある。
- 大別当:
- 下級社僧:祇園社で特に「社僧」と呼ばれる僧侶。紀氏以外が就く。坊を持ち世襲する。執行の門弟となり、坊人(私的使用人)として動くこともあった。阿闍梨位を持つことがある。公文所の公文となり、組織運営の実務の中核を担う。公文は一公文から七公文までいた。元来は一公文は執行の兼務だったが、「一公文代」が置かれるようになり、やがてそれが「一公文」と呼ばれるようになった。恒例・臨時の仏事に出仕したが、上級社僧と異なり、祠官職は持たず、神事は行わなかった。夏安居の時には夏衆の多くを下級社僧が務め参籠する。評定を開き、「社僧」「一社」としての意思決定をする。評定を行うのは本殿後戸。後戸は夏堂とも呼ばれ、夏安居の場でもあった。国名を冠する。法眼が極位。
- 上座:
- 権上座:
- 権別当:
- 寺主:
- 権寺主:
- 都維那:
- 権大別当:
- 少別当:小綱という役職につく
- 公人:僧体。祇園社では狭義の「社僧」に含まない。極位は法橋。社頭を警固した。寄方職に就き、社領内の犯罪人の住居破却や引き渡しや社領、神人、神子への上納金品の催促および納入を行った。坊人として特定の社僧の私的使用人として動くこともある。山門公人との独自の結び付きがあった。山門大衆の指示により、神人と共に京都の各地に実力部隊として派遣された。延暦寺が管轄外である京都で実力行使を行うための手段となった。
- 専当:世襲。
- 宮仕:
- 承仕:
- 勾当:?
- 宮籠:神楽を行うことが重要な役割。呪術的芸能者。公人と同じく坊人として特定の社僧の私的使用人として動くこともある。宮籠から片羽屋神子へと改称し地位向上を図った。男女混合20人程度の組織。片羽屋という殿舎があった。男女に関わらず、一和尚、二和尚と呼ばれる一方で、大夫と呼ばれることもあり、僧体なのか俗体なのか微妙だが、俗体との見解がある。公人の親族が入ることもある。次第に男性優位になった。「非人」とする説もあるが、否定的見解が強い。ただし卑賤視されていた形跡はある。一方で豊かな財政基盤があった。近世には十家と呼ばれた。外では牛王札頒布、地方の檀家巡り、産子の名付などを行った。
- 犬神人:坂者とも呼ばれた。祇園会の警固役を務めた。寄方の支配下にあった。所属はあくまで祇園社であるにも関わらず、山門大衆の意向を受けて動くことが多く、京都の各地に延暦寺の実力部隊として派遣された。1227年には山門の命で祇園社領内に位置した法然の墓を破壊した。
- 神人:財政面で支えた。商人。
- 堀川神人:山門との結び付きがあった。
- 綿本座神人
- 綿新座神人
- 白布神人
- 塩梅神人
- 小袖座神人
- 瓜町神人
- 糠神人
- 犀鉾神人
- 摂津今宮神人:今宮戎神社ゆかり。
- 袴腰座神人
- 神子:様々な神楽を行う。踏歌神事。廊の巫女。
- 左方神子8座
- 右方神子7座
- 御旅所神子
- 芸能民:山門に仕え、日吉大社の祭礼にも奉仕した。
- 師子舞:
- 田楽:本座と新座があった
別当
観慶寺#組織を参照。
執行
観慶寺#組織を参照。
宮司
昭和初期から皇学館出身者が就く。
代数 | 名前 | 生没 | 在職 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
建内繁継 | 還俗した社僧。僧名は尊福。自坊は宝寿院。社務執行。神仏分離令に先立つ1868年(明治1年)2月還俗。1872年(明治5年)12月、神勤を解かれる。墓所は金戒光明寺。 | |||
1 | 六条有容 | 1814-1890 | 1871-1872 | 1871年(明治4年)12月2日から1872年(明治5年)3月25日まで「八坂神社北野神社等改革御用掛」。近現代の初代宮司とみなされているようだ。 |
2 | 粟田口定孝 | 1837-1918 | 1872-1873 | 奈良華族の神職。葉室顕考の六男。興福寺養賢院住職。1872年(明治5年)6月17日から1873年(明治6年)2月28日まで北野神社宮司兼八坂神社宮司。のち貴船神社宮司。住吉大社宮司。(略歴は、北野天満宮#組織を参照) |
3 | 松岡時〓 | 1826-1883 | 1873-1873 | 鹿島神宮の大祝を世襲する社家の出身。1826年(文政9年)生。1873年(明治6年)2月から3月10日まで八坂神社宮司。出雲大社少宮司。甲斐浅間神社宮司。亀戸天神社祠官。1883年(明治16年)9月18日死去。58歳。墓所は田野辺の大祝屋敷内。松岡彦郎。(略歴は、甲斐浅間神社#組織を参照) |
4 | 三輪田元綱 | 1828-1879 | 1873-1873 | 志士。平田派国学者。松山の日尾八幡神社社家の出身。1828年(文政11年)生。常磐井厳戈、矢野玄道に師事。京都で大国隆正に、江戸で平田鉄胤に師事。1863年(文久3年)、等持院足利尊氏尊像梟首事件に参画。捕縛され豊岡藩に幽閉。獄中日記がある。1869年(明治2年)大学少丞。外務権大丞。1873年(明治6年)3月10日(4月とも)八坂神社宮司。同年9月25日、大山祇神社宮司。香椎宮宮司。鳥越神社祠官。権少教正。京都神宮教会(京都大神宮)に関わっていたか。1879年(明治12年)1月14日死去。 |
5 | 木村信兢 | 1809-1877 | 1873-1874 | 松山出身の国学者。1873年(明治6年)9月19日から1874年(明治7年)11月5日まで八坂神社宮司。「木村信競」とも。(略歴は大山祇神社#組織を参照) |
6 | 岡吉胤 | 1831-1907 | 1874-1874 | 1831年(天保2年)生。1874年(明治7年)11月5日から八坂神社宮司。ただし赴任せず。1874年(明治7年)12月香椎宮権宮司。1907年(明治40年)死去。 |
7 | 田中尚房 | 1839-1891 | 1874-1876 | 1874年(明治7年)12月27日(2月とも)から1876年(明治9年)1月20日まで八坂神社宮司。敢国神社宮司。(略歴は北野天満宮#組織を参照) |
8 | 結城秀伴 | 1824-1897 | 1876-1877 | 志士。美作出身。1824年(文政7年)生。曇華院家令。大国隆正に国学を学ぶ。1876年(明治9年)2月14日から1877年(明治10年)12月12日まで八坂神社宮司。美作・中山神社宮司。1897年(明治30年)9月7日死去。74歳。 |
9 | 鳥居亮信 | 1836-1906? | 1878-1891 | 和歌山出身。1836年(天保7年)生。1869年(明治2年)5月、京都神祇官に建白書を送る。神祇権中録。1873年(明治6年)3月9日富岡八幡宮祠官。同年3月28日賀茂別雷神社少宮司。1874年(明治7年)4月12日鎌倉宮宮司。同年の俳諧明倫講社設立に関わる。1876年(明治9年)6月9日熱田神宮少宮司。少宮司廃止に伴い1877年(明治10年)12月12日熱田神宮禰宜。1878年(明治11年)2月1日(2日とも)、八坂神社宮司。1891年(明治24年)4月16日(19日とも)、吉田神社宮司。1906年(明治39年)死去か。鳥居斎。 |
10 | 中川武俊 | 1846-1902 | 1891-1895 | 京都出身。1846年(弘化3年)生。京都府出仕。京都府社寺掛。帝国京都博物館の建設に関わる。1891年(明治24年)4月16日、八坂神社宮司兼梨木神社宮司。1895年(明治28年)6月1日、金刀比羅宮宮司。のち生国魂神社宮司。1902年(明治35年)8月10日、在職で死去(官報)。 |
11 | 秋山光条 | 1843-1902 | 1895-1902 | 江戸出身。1843年(天保14年)生。父は幕臣の秋山和光。平田銕胤や前田夏蔭に国学を学ぶ。1869年(明治2年)宣教使官員。辞職して『日要新聞』を発行。1874年(明治7年)5月23日寒川神社権宮司。1874年(明治7年)7月18日玉前神社宮司。1874年(明治7年)8月23日寒川神社権宮司。1875年(明治8年)11月4日出雲大社禰宜。1876年(明治9年)4月10日出雲大社少宮司。1877年(明治10年)12月8日、制度改正で少宮司廃官。1878年(明治11年)5月10日出雲大社禰宜。6月22日退任。1880年(明治13年)5月21日三島大社禰宜。1881年(明治14年)8月27日、三島大社宮司。制度改正で1887年(明治20年)3月17日に廃官となるが30日に宮司改めて任命。1895年(明治28年)5月30日(6月1日とも)、八坂神社宮司。1902年(明治35年)2月3日、氷川神社宮司となるが、2月19日、着任前に死去(官報には2月21日死去とある)。歌人としても活躍。雪の舎と号す。墓地は谷中霊園。 |
12 | 神宮嵩寿 | 1849-1921 | 1902-1903 | 御嶽教4代管長。金刀比羅宮宮司、氷川神社宮司を経て1902年(明治35年)2月から1903年(明治36年)1月9日まで八坂神社宮司。日光二荒山神社宮司、御嶽教管長を歴任。著編書に『八坂誌』[1]。(略歴は御嶽教#組織を参照) |
13 | 園田弘 | 生没年不詳 | 1903-1905 | 生没年不詳。日光二荒山神社宮司を経て1903年(明治36年)1月9日から1905年(明治38年)9月9日(7日?)まで八坂神社宮司。のち射水神社宮司、玉前神社宮司を歴任。(略歴は射水神社#組織を参照) |
14 | 保科保 | 1845-? | 1905-1923 | 磐城平藩の典医の家の出身。1845年(弘化2年)生。1901年(明治34年)6月4日、射水神社宮司。1905年(明治38年)9月9日(7日?)、八坂神社宮司。在職中の1915年(大正4年)11月10日、官幣大社昇格。1923年(大正12年)1月24日休職。同年12月18日退任。没年不詳。著書『地方沿革略譜』『戊申詔書謹解』『双殉行』[2]。 |
15 | 江見清風 | 1868-1939 | 1923-1925 | 新潟県の乙子神社神職の金子豊雄の次男。1868年(明治1年)生。国学院大学卒。弥彦神社宮司、伊勢神宮禰宜、1923年(大正12年)1月24日から1925年(大正14年)2月12日まで八坂神社宮司。のち明治神宮権宮司、春日大社宮司。江見千代松。(略歴は、春日大社#組織を参照) |
16 | 杉谷正隆 | 1865-1945 | 1925-1929 | 熊本県出身の神職。1865年(慶応1年)生。18神宮教院で学び、皇典講究所卒。玉前神社宮司、安房神社宮司、浅間大社宮司、氷川神社宮司、香椎宮宮司、平安神宮宮司を経て1925年(大正14年)2月12日から1929年(昭和4年)3月5日まで八坂神社宮司。のち乃木神社社司。(略歴は、平安神宮#組織を参照) |
17 | 額賀大直 | 1877-1961 | 1929-1938 | 明治後期から戦後直後まで活躍した神職。神社本庁長老。千葉県神社庁庁長。額賀家は香取神宮の社家の一つ。1877年(明治10年)生。神宮皇学館本科修了。唐沢山神社宮司、寒川神社宮司、札幌神社宮司、氷川神社宮司、浅間大社宮司、日光東照宮宮司を経て1929年(昭和4年)3月5日から1938年(昭和13年)2月28日まで八坂神社宮司。住吉大社宮司、朝鮮神宮宮司、香取神宮宮司を歴任。(略歴は香取神宮#組織を参照) |
18 | 高原美忠 | 1892-1989 | 1938-1976 | 皇学館大学学長。神社本庁長老。1892年(明治25年)生。1916年(大正5年)神宮皇学館本科卒。1923年(大正12年)日光東照宮禰宜。1924年(大正13年)白山比咩神社宮司。1933年(昭和8年)函館八幡宮宮司・函館招魂社受持神官。1936年(昭和11年)弥彦神社宮司。同年内務省教務官。1938年(昭和13年)2月28日から1976年(昭和51年)8月16日まで八坂神社宮司。1966年(昭和41年)3月から1973年(昭和48年)10月まで皇学館大学学長。1967年(昭和42年)神社本庁長老。1989年(平成1年)6月12日死去。97歳。神道史学会会長。 |
19 | 鈴木日出年 | 1909-2001 | 1976-1993 | 愛知県出身。1932年(昭和7年)、神宮皇学館本科第一部卒。同年伏見稲荷大社嘱託。1940年(昭和15年)八坂神社主典。1946年(昭和21年)、八坂神社禰宜。1949年(昭和24年)、八坂神社権宮司。1976年(昭和51年)8月16日から1993年(平成5年)3月31日まで八坂神社宮司。1986年(昭和61年)、京都府神社庁庁長。同年10月27日から1988年(昭和63年)4月20日まで愛宕神社宮司を兼務。1989年(平成1年)神社本庁常務理事。1993年(平成5年)神社本庁長老。皇学館大学館友会会長。京都古文化保存協会理事長。兄は下鴨神社宮司の鈴木義一。2000年(平成12年)11月14日死去。91歳。 |
20 | 真弓常忠 | 1923-2019 | 1993-2002 | 神宮皇学館大学卒。皇学館大学教授。1993年(平成5年)3月31日から2002年(平成14年)11月18日まで八坂神社宮司。住吉大社宮司。2019年(令和1年)2019年4月3日死去。(略歴は住吉大社#組織を参照) |
21 | 森寿雄 | 1947- | 2002-2021 | 三重県伊勢市出身。1947年(昭和22年)生。1970年(昭和45年)皇学館大学文学部国史学科卒。住吉大社奉職。1974年(昭和49年)伊勢神宮に奉職。1998年(平成10年)八坂神社禰宜。2002年(平成14年)11月18日から2021年(令和3年)9月30日まで八坂神社宮司。 |
22 | 野村明義 | 1959- | 2021- | 石川県七尾市の久志伊奈太伎比咩神社の社家の生まれ。1959年(昭和34年)生。皇学館大学卒。乃木神社権禰宜。1993年(平成5年)に八坂神社に転じ、2005年(平成17年)八坂神社禰宜。2021年(令和3年)10月1日、八坂神社宮司。 |
権宮司
- 池田純至()<>:明治6年2月27日、八坂神社権宮司。明治10年12月12日、権宮司職廃止にともない禰宜となる。
権宮司
- 鈴木日出年()<>:
- 真弓常忠()<>:
- 竹内幸平()<-2016>:2016/9/30退任。
- 久野博()<2016->:2016/10/1就任。
資料
古典籍
- 「祇園牛頭天王縁起」:「祇園牛頭天王御縁起」。『続群書類従55』[3]。
- 「祇園三鳥居建立記」:1365年(貞治4年)成立。顕詮著。『続群書類従55』[4]。
- 「御霊会山鉾記」:『続群書類従55』欠?
- 「祇園社記」:『続群書類従56』欠?
- 「祇園社記録」:『続群書類従56』?
- 「祇園社記録祇園執行日記抜萃」:晴喜著。『続群書類従56』?
- 「清和天皇以来代皇記并当社造立以来代代聖主勅願等事」:『続群書類従56』?
- 「天台座主祇園別当并同執行補任次第」:座主136世~140世の時代の別当、目代、執行を記す。『続群書類従56』。
- 「天台座主祇園別当並同執行補任次第」:上記と同じか。『続群書類従92』[5]。
- 「祇園社記続録 正和五年記」:朝実著。『続群書類従56』。
- 「祇園社記続録 建武三年記」:朝実著。『続群書類従56』。
- 「祇園社古文書写」:『続群書類従56』。
- 「八坂郷鎮座大神之記」:『八坂社旧記集録 上』[6]
- 「八坂郷奉斎十三前記」:『八坂社旧記集録 上』[7]
- 「巷社之説並旧伝」:『八坂社旧記集録 中』[8]
- 「疫隅社之弁」:『八坂社旧記集録 下』[9]
- 「祇園社執行静晴関係文書案」[10]
- 「足利義晴祇園会見物御成記」[11]
- 「稲荷祇園社行幸定記」[12]
- 「祇園会山鉾之由来」:1836年(天保7年)。[13]
- 「祇園祭礼信仰記」:1757年(宝暦7年)。歌舞伎。[14]
- 「祇園社旧記之写」:[15]
- 「祇園社考」:1774年(安永3年)。[16]
- 「祇園社之記」:[17]
- 「祇園社磐雑実録」:[18]
- 「祇園祭礼図」:[19](「きをんの御本地」とあるのは誤りか?)
- 「増補祇園会細記」:1812年(文化9年)。藤田貞栄。[20]。
- 「祇園会細記」:1757年(宝暦7年)。山鉾由来記。[21]、[22]・[23]・[24]・[25]・[26]・[27]
- 『感神院牛頭天王考』
- 祇園執行日記
- 社家条々記録
- 感神院御旅所由来
- 感神院旧記
- 建内文書
- 祇園社絵図
- 『八坂社旧記集録』上[28]・中[29]・下[30]
- 『八坂神社記録』上[31]・下[32]:1923年(大正12年)刊。
- 『八坂神社叢書』
- 1『八坂神社記録』上:1942年(昭和17年)
- 2『八坂神社記録』下:1961年(昭和36年)
- 3『八坂神社文書』上:1939年(昭和14年)
- 4『八坂神社文書』下:1940年(昭和15年)
- 『八坂神社文書』上・下1・下2:1994年(平成6年)。臨川書店
- 『新編八坂神社記録』:2016年(平成28年)
- 『八坂神社記録』1~4:1978年(昭和53年)。続史料大成 第43~46巻 増補。 竹内理三編。
- 『八坂神社文書』上下:1939年(昭和14年)・1949年(昭和24年)。八坂神社叢書の3~4として刊行。
- 『古事類苑』[33]
- 『神道大系』神社編10祇園:林屋辰三郎・宇野日出生編。1992年(平成4年)。
- 『新編八坂神社文書』1:2014年(平成26年)刊。八坂神社文書。臨川書店。
- 『新編八坂神社文書』2:2014年(平成26年)刊。鴨脚家文書。臨川書店。
- 『新修八坂神社文書』:中世編。2002年(平成14年)。
- 『企画展八坂神社の古文書』:1995年(平成7年)。京都市歴史資料館編
- 『企画展八坂神社の古記録』:1996年(平成8年)。京都市歴史資料館編
- 『重要文化財八坂神社本殿修理工事報告書』:1964年(昭和39年)
- 『八坂神社本殿及び歴史的建造物調査報告書』:2020年(令和2年)
- 2002『社寺境内図資料集成 2』: 国立歴史民俗博物館資料調査報告書。祇園社境内絵図、祇園社図、八坂神社境内図、京都祇園社図
文献
- 『八坂誌』乾[34]・坤[35]:1906年(明治39年)刊。八坂神社編。まとまった神社誌。
- 『八坂神社祇園祭解説』[36]
- 『八坂神社扁額集』[37]:八坂神社に奉納された額
- 『八坂神社由来記』[38]:田中尚房著。1875年(明治8年)。
- 高原美忠1972『八坂神社』学生社:1997年(平成9年)に改訂版
- 『八坂神社文教課報』
- 『官幣大社八坂神社略誌』:1936年(昭和11年)
- 『祇園・八坂神社の名宝』:2002年(平成14年)。京都国立博物館編。
- 『山鉾』:八坂神社社務所編。1940年(昭和15年)。
- 久保田収1974『八坂神社の研究』:1990年に臨川書店から再刊。
- 2014「八坂神社由緒略記」
- 『官幣大社八坂神社纂録』
- 1『八坂神社と京都文化』:宮地直一著。1940年
- 2『素戔嗚尊の信仰』:三品彰英著。1940年
- 3『日鮮交通と古代の信仰』:藤田元春著。1940年
- 4『八坂神社と祇園会』:中村直勝著。1940年
- 5『日本の国体に就いて』:山田孝雄著。1941年
- 6『朝彦親王敬神の御事蹟』:大岩栄吾編。1942年
- 9『日本の神としての素戔鳴尊』:三品彰英著。1944年
- 1968『神道史研究』16(5・6)号:特集八坂神社
- 若原史明1982『祇園会山鉾大鑑』
- 1997『八坂神社と三十六歌仙扁額』:八坂神社教養叢書1
- 『京洛大観』[39]:1920年(大正9年)。祇園祭を写真などで紹介。
- 真弓常忠2000『祇園信仰:神道信仰の多様性』朱鷺書房
- 真弓常忠2002『祇園信仰事典』戎光祥出版
- 神祇院1941『官国幣社特殊神事調』3八坂神社[40]
画像
参考文献
- 所功1996年(平成8年)『京都の三大祭』角川選書
- 大蓮寺ウェブサイト
- 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』
脚注
- ↑ 大蓮寺ウェブサイト
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